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■巨星 往く

2022-05-16 | ●松本語録

z■■■■■■■■■オシム氏を悼む■■■■■■■■■

松本光弘
筑波大学名誉教授・元日本サッカー協会理事 ・元筑波大学蹴球部監督

■「日本代表監督イビチャ・オシム氏を悼む
今年の11月に行われるFIFAW杯カタール大会は「日本代表チ
ームが
最も世界のトップに近づく時」との表題で話題提供を記
しつつあるとき、
元日本代表監督イビチャ・オシム氏の訃報が
新聞で報じられた。

5月1日オーストリア、グラーツの自宅で亡くなったそうである。
何とも言えない残念な気持ちと寂しさを感じずにはいられない。
彼は
1941年5月6日生まれで、81歳を迎える直前の逝去であった。
期せ
ずして私は1941年4月21日生まれ、81歳を迎えている。
経歴や偉業は比べものにはならないが 日本で言う同学年という
ことで
オシム監督には特別の親しみを感じていた。
私が大学を卒業した年に開催された 東京オリンピックにユーゴ
スラビア
代表のセンターフォワードとして出場し 日本に初来日
している。


当時の写真を見るとオシム氏は長身のすらりとした細身のプ
レイヤーで
あった。その後指導者として来日した時の大柄で恰
幅の良い、威厳ある
監督としてのオシム氏からは想像できない
プレイヤー当時の容姿であった。

この時の東京オリンピックは 長年世界のサッカーの主流であっ
たWMシステム
から4-2-4システムに変化して間もない頃
であった。私たちはこの東京
オリンピックサッカー競技から近
代サッカーのシステムの変化について多く
のことを学んだ。

オシム氏はその後指導者となり1990年FIFAW杯イタリア
大会でユーゴ
スラビア代表監督として  ピクシーの愛称で日本で
親しまれているゴラガン・
ストイコビッチをチームの中心に据え
見事ベスト8まで進出している。

当時の東ヨーロッパのサッカーは、世界のサッカー大国から比較
するとさほど
盛んではなかった。その中でのW杯ベスト8は高く
評価される成績であった。
当時のユーゴスラビアはルーマニアと
共にサッカー界では東ヨーロッパのラテン
といわれるほどの華麗
なテクニックを持つプレイヤーを多く輩出していた。

  
その後ユーゴスラビアの内戦が勃発し、それに抗議してオシム
氏は代表監督を
辞任した。
内戦当時家族はチリジリになり大変な思いをしたそである。その
苦労
内容がどのような背景から出てきているのか、私たちの想像
をはるかに超える
人生を歩んできていることは事実である。

一期一会
2003年「ジェフ市原(現在ジェフ千葉)に興味ある面白いサ
ッカーをやる
指導者が来ましたよ」当時大学院修士課程に進学し、
筑波大学蹴球部のコーチ
をしていた一人の学生が私のところにや
って来て教えてくれた。
当時私は筑波大学教授の職にあり毎日授業と課外活動のサッカー
の指導に明け
暮れしていた。実際にスタジアムにJリーグの試合
を見に行く時間的余裕はなかった。

そこでJリーグのテレビ放映がかなりあった当時ジェフ市原の試
合もテレビで観戦した。
放映時間に観ることができないときには
録画しておき後日VTRで観戦する方法をとった。

その大学院生が言うようにこれまでのJクラブのチームにはな
いサッカースタイルであった

ボールとプレイヤーが良く動くサッカー」、
常に先を予想して走るサッカー」、
連続に次ぐ連続の途切れのないサッカー
細かいパスを小気味よく繋ぐサッカー
そのような印象が強く残ったのを記憶している。その時の指導者
がイビチャ・オシム氏で
あった。

この偉大な業績を持つ世界的サッカー指導者をヨーロッパからは
るか遠いアジアのその
また東のはずれの日本のプロサッカーチー
ム、ジェフ市原の監督に招いた当時の同クラブ
のジェネラルマネ
ィジャーの功績は今思うと計り知れない大きいものであった

オシム氏の指導は着実に浸透し就任3年目にはナビスコ(現ル
ヴァン)杯優勝までにチーム力
を高めた。この間これといった大
型プレイヤーの補強もなく現有のプレイヤーを強化育成する
こと
でこの成果を打ち立てているところにオシム監督の指導力の凄さ
を特別なものとして
私は評価している。

● 話はさかのぼって2001年3月、筑波大学蹴球部に卒業予定の
羽生直剛選手がいた。
彼は千葉県立八千代高校から筑波大学に進
学してきた選手である。

サッカーのプレイヤーとしては身体的にはすべての面で小柄であ
った。良く動きまわりクレバーなプレイを信条として大学4年間
でビッグタイトルを3回も獲得している。しかし身体の大きさや
走るスピードは、それまでの日本代表プレィヤーと比較するとあ
らゆる面で
不十分との見方を私はしていた。
卒業後の進路については彼のひたむきなサッカーに対する情熱や
動きの量を厭わない懸命さ、
それにプレイの先を読み取るセンス
の良さが評価され複数のJリーグクラブから勧誘の申し出
を受け
ていた。

そろそろ卒業後の進路を決定する時期に差し掛かった時、本命と
いえるJクラブと契約交渉を
本格化しようとした矢先、千葉県の
高校教員をしていた先輩から私は電話を頂いた。

羽生選手は将来千葉県の教育関係の仕事についてもらいたい、つ
いてはJリーガーとなるので
あれば是非ジェフ市原でプレイして
地元に貢献すてほしい。そしてJリーガー引退後は是非
千葉県の
教育界で活躍してほしい。


               ●ジェフ市原の羽生直剛選手
この先輩の申し出を羽生選手に伝えたところ本人もその使命の
重さを納得し、本契約直前の
Jクラブには訳を話して納得してい
ただき2001年4月ジェフ市原のメンバーとなった。

この時の先輩の電話が羽生直剛選手のオシムチルドレンの一員に
なる重要な電話となるとは
私自身もその頃は想像もしなかった。
羽生選手がジェフ市原に加わって3シーズン目、彼の
人生の大き
な出逢いとなるオシム監督がヨーロッパからやってきたのである。

その後の羽生選手は多くの面でオシム監督から高い評価を受け、
オシム監督が日本代表監督
となってからも日本代表プレイヤーと
して選出され国際試合で活躍した。

もし筑波大学卒業時に他のJクラブに行っていたら羽生選手が日
本代表プレイヤーとして輝く
ことはなかったであろうというのが
私の個人的な見解である。

羽生直剛選手の身長は160センチメートル強、体重は60キログ
ラムそこそこ、パワーなどは
日本人男子の極々平均である。この
羽生直剛という日本の一青年の特徴を見抜いて育成し、
チームと
して日本らしいサッカーの構築を実現したオシム氏は、日本のサ
ッカー界に旋風を巻き起
こしたのである。

オシム氏が日本代表監督となってからの日本サッカー界の話題
の豊富さはこれまでにないもの
であった。話す言葉の一つ一つ
が「オシム語録」として取り上げられ、次にどのようなことを
話して
くれるのであろうかと私は楽しみにする日々でもあった。

2006年FIFAW杯ドイツ大会を終え、ジーコ監督の後を受
けオシム監督は日本代表監督になった

私にとっては待ちに待った願ってもない日本代表オシム監督就任
であった。
その主な理由は一言で言えば最も日本人の特徴に合っ
たサッカーを志向する監督というのが
私の評価である

それから1年と半年もしない2007年11月16日彼は脳梗塞で倒れて
しまった。
オシム代表監督にとって道半ばでの病はいかばかりで
あったことだろう。幸いにも一命はとりとめた
ものの激務の代表
監督など務める状態ではなかったようである。


「(日本サッカーの代表チームの日本化という命題
に核心的、具体的、現実的に取り組んだ
洞察力は敬服に値する

新聞によると病から幾分回復した2008年日本サッカー協会とアド
バイザー契約を結んだ時の
記者会見で
日本選手は何が不足しているか」の問いに対して
次のような事を語ったとのことである。

「たくさんあるが、
まず走る量を増やすことだ
考えるスピード
走るスピードを上げてより高いレベルの
技術を身につけるべきだ
皆さんは難しく考えすぎていないか
強国を分析し まねするのはいい方法ではない
コンプレックスから解放されて、日本の長所を磨くことだ」。

■■「稀有な人
今回私はオシム監督の訃報に接し、いろいろな方面の報道を見
るようにした。
中でもジェフ千葉が公開したクラブ創設30周年記
念の映像は衝撃的であった。
オーストリア、グラーツの
自宅のベッドに横たわるイビチャ・オ
シム氏と元オシムチルドレンの一員であった佐藤勇人選手の
オー
ストリアと日本間での対談の映像をインターネットで見た時であ
った。

あの威厳のある風貌、大きく周囲を優しく包み込むような 体躯、
いつも何かを発信しているような
雰囲気、そのような在りし日の
オシム氏とは映像に移るオシム氏の姿はあまりにも違い過ぎる。
一回りも二回りも小さくなったように感じだった。

老いるとはこのようなことなのかと思い知らされたような
気がす
。佐藤勇人選手の問いかけに対して相変わらず理路整然と受け
答えをしてくれたのが何よりの
救いであった。

 
最後に私がオシム監督と直接話をした思い出を記して終わり
たい。
日本代表監督となった次の年の2007年の正月  全国高校サ
ッカー選手権大会が千葉県柏市の柏の葉
スタジアムで開催されて
いた。

そこにオシム監督が視察のため来られていて高校選手権の試合を
観戦しながら少しの時間二人で雑談した。
その時の彼の全国高校
サッカー選手権大会に対する評価が 特に印象的に残っている

この年代での全国高校サッカー選手権大会の企画運営は 素晴ら
 しい規模と内容であること
また日本の高校生年代には多くの将来有望な人材が沢山溢れて
 いるいること。

きっと日本のサッカーは素晴らしい発展を今後遂げるであろう
との内容 であった。

私たち日本のサッカーに携わってきたものにとって何よりの嬉し
い評価であり、これからの日本サッカーに対して
夢と希望を膨ら
ます何よりの賛辞と受け止めた。


岡田武史元日本代表監督は「(オシム監督が)残してくれたもの
に気付くのは、実はこれからなのかもしれない」と 
スポーツ新聞
にコメントしている。私も同感である。

その「これからは・・」は6ヶ月後に迫ったFIFAW杯カター
ル大会での日本代表チームの活躍が当面のターゲットである。

世界のサッカーの潮流は、オシム氏が提唱した「日本サッカーの
日本化」に限りなく近づきつつある。

日本サッカーの日本化

ワンタッチプレイを多用した走るサッカー,
考えるサッカー,
日本人の強みを活かすサッカー,
イビチャ・オシム氏が私たちに残してくれたものは莫大である
オーストリア、グラーツに向けて合掌

  
(当文中の写真全ての出所は時事通信) 


■■■■■■■■■関連 資料■■■■■■■■■
  オシム監督がジェフ市原で優勝をもたらすと、忽ちにして多
くの著名な雑誌が特集を組む。ひいては経済誌や総合誌迄もが、
オシム語録を取り上げる事になり、オシムさんの名前は瞬く間に
全日本に行き渡る。
そしてオシム語録は、サッカーにとどまらず今や競合厳しい経済
界でも、人材育成や業績を伸ばすための戦略的なキーワードとし
て広く重用される事になった。

●「オムニ語録からの抜粋
・「サッカーは人生そのもの。
     勝敗を分けるのは、ほんの少し 小さなニュウアンスだ

・「1点負けていても、まだ試合には負けてはいない
・「相手をリスペクトするのが 負けない秘訣だ
・「リスクを追わないチャレンジはない。日本人に欠ける部分だ
・「サッカーに最も必要なのはアイデアだ。 
  アイデアのない人もサッカーはできるが、
サッカ―選手にはなれない

この機会に、貴方の人生の座右の銘(生活の知恵)として
オシム語録
をお勧めしたい

オシム追悼とリカレントに、新しい人生の糧になれば幸いである

 

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