z■■■■■■■■■オシム氏を悼む■■■■■■■■■
松本光弘
筑波大学名誉教授・元日本サッカー協会理事 ・元筑波大学蹴球部監督
■■「元日本代表監督イビチャ・オシム氏を悼む」
●今年の11月に行われるFIFAW杯カタール大会は「日本代表チ
ームが最も世界のトップに近づく時」との表題で話題提供を記
しつつあるとき、元日本代表監督イビチャ・オシム氏の訃報が
新聞で報じられた。
5月1日オーストリア、グラーツの自宅で亡くなったそうである。
何とも言えない残念な気持ちと寂しさを感じずにはいられない。
彼は1941年5月6日生まれで、81歳を迎える直前の逝去であった。
期せずして私は1941年4月21日生まれ、81歳を迎えている。
経歴や偉業は比べものにはならないが 日本で言う同学年という
ことでオシム監督には特別の親しみを感じていた。
私が大学を卒業した年に開催された 東京オリンピックにユーゴ
スラビア代表のセンターフォワードとして出場し 日本に初来日
している。
●当時の写真を見るとオシム氏は長身のすらりとした細身のプ
レイヤーであった。その後指導者として来日した時の大柄で恰
幅の良い、威厳ある監督としてのオシム氏からは想像できない
プレイヤー当時の容姿であった。
この時の東京オリンピックは 長年世界のサッカーの主流であっ
たWMシステムから4-2-4システムに変化して間もない頃
であった。私たちはこの東京オリンピックサッカー競技から近
代サッカーのシステムの変化について多くのことを学んだ。
●オシム氏はその後指導者となり1990年FIFAW杯イタリア
大会でユーゴスラビア代表監督として ピクシーの愛称で日本で
親しまれているゴラガン・ストイコビッチをチームの中心に据え
見事ベスト8まで進出している。
当時の東ヨーロッパのサッカーは、世界のサッカー大国から比較
するとさほど盛んではなかった。その中でのW杯ベスト8は高く
評価される成績であった。当時のユーゴスラビアはルーマニアと
共にサッカー界では東ヨーロッパのラテンといわれるほどの華麗
なテクニックを持つプレイヤーを多く輩出していた。
その後ユーゴスラビアの内戦が勃発し、それに抗議してオシム
氏は代表監督を辞任した。
内戦当時家族はチリジリになり大変な思いをしたそである。その
苦労内容がどのような背景から出てきているのか、私たちの想像
をはるかに超える人生を歩んできていることは事実である。
■■「一期一会」
●2003年「ジェフ市原(現在ジェフ千葉)に興味ある面白いサ
ッカーをやる指導者が来ましたよ」当時大学院修士課程に進学し、
筑波大学蹴球部のコーチをしていた一人の学生が私のところにや
って来て教えてくれた。
当時私は筑波大学教授の職にあり毎日授業と課外活動のサッカー
の指導に明け暮れしていた。実際にスタジアムにJリーグの試合
を見に行く時間的余裕はなかった。
そこでJリーグのテレビ放映がかなりあった当時ジェフ市原の試
合もテレビで観戦した。放映時間に観ることができないときには
録画しておき後日VTRで観戦する方法をとった。
●その大学院生が言うようにこれまでのJクラブのチームにはな
いサッカースタイルであった
「ボールとプレイヤーが良く動くサッカー」、
「常に先を予想して走るサッカー」、
「連続に次ぐ連続の途切れのないサッカー」
「細かいパスを小気味よく繋ぐサッカー」
そのような印象が強く残ったのを記憶している。その時の指導者
がイビチャ・オシム氏であった。
この偉大な業績を持つ世界的サッカー指導者をヨーロッパからは
るか遠いアジアのそのまた東のはずれの日本のプロサッカーチー
ム、ジェフ市原の監督に招いた当時の同クラブのジェネラルマネ
ィジャーの功績は今思うと計り知れない大きいものであった。
オシム氏の指導は着実に浸透し就任3年目にはナビスコ(現ル
ヴァン)杯優勝までにチーム力を高めた。この間これといった大
型プレイヤーの補強もなく現有のプレイヤーを強化育成すること
でこの成果を打ち立てているところにオシム監督の指導力の凄さ
を特別なものとして私は評価している。
● 話はさかのぼって2001年3月、筑波大学蹴球部に卒業予定の
羽生直剛選手がいた。彼は千葉県立八千代高校から筑波大学に進
学してきた選手である。
サッカーのプレイヤーとしては身体的にはすべての面で小柄であ
った。良く動きまわりクレバーなプレイを信条として大学4年間
でビッグタイトルを3回も獲得している。しかし身体の大きさや
走るスピードは、それまでの日本代表プレィヤーと比較するとあ
らゆる面で不十分との見方を私はしていた。
卒業後の進路については彼のひたむきなサッカーに対する情熱や
動きの量を厭わない懸命さ、それにプレイの先を読み取るセンス
の良さが評価され複数のJリーグクラブから勧誘の申し出を受け
ていた。
そろそろ卒業後の進路を決定する時期に差し掛かった時、本命と
いえるJクラブと契約交渉を本格化しようとした矢先、千葉県の
高校教員をしていた先輩から私は電話を頂いた。
羽生選手は将来千葉県の教育関係の仕事についてもらいたい、つ
いてはJリーガーとなるのであれば是非ジェフ市原でプレイして
地元に貢献すてほしい。そしてJリーガー引退後は是非千葉県の
教育界で活躍してほしい。
●ジェフ市原の羽生直剛選手
●この先輩の申し出を羽生選手に伝えたところ本人もその使命の
重さを納得し、本契約直前のJクラブには訳を話して納得してい
ただき2001年4月ジェフ市原のメンバーとなった。
この時の先輩の電話が羽生直剛選手のオシムチルドレンの一員に
なる重要な電話となるとは私自身もその頃は想像もしなかった。
羽生選手がジェフ市原に加わって3シーズン目、彼の人生の大き
な出逢いとなるオシム監督がヨーロッパからやってきたのである。
その後の羽生選手は多くの面でオシム監督から高い評価を受け、
オシム監督が日本代表監督となってからも日本代表プレイヤーと
して選出され国際試合で活躍した。
もし筑波大学卒業時に他のJクラブに行っていたら羽生選手が日
本代表プレイヤーとして輝くことはなかったであろうというのが
私の個人的な見解である。
●羽生直剛選手の身長は160センチメートル強、体重は60キログ
ラムそこそこ、パワーなどは日本人男子の極々平均である。この
羽生直剛という日本の一青年の特徴を見抜いて育成し、チームと
して日本らしいサッカーの構築を実現したオシム氏は、日本のサ
ッカー界に旋風を巻き起こしたのである。
オシム氏が日本代表監督となってからの日本サッカー界の話題
の豊富さはこれまでにないものであった。話す言葉の一つ一つ
が「オシム語録」として取り上げられ、次にどのようなことを
話してくれるのであろうかと私は楽しみにする日々でもあった。
●2006年FIFAW杯ドイツ大会を終え、ジーコ監督の後を受
けオシム監督は日本代表監督になった。
私にとっては待ちに待った願ってもない日本代表オシム監督就任
であった。その主な理由は一言で言えば最も日本人の特徴に合っ
たサッカーを志向する監督というのが私の評価である。
それから1年と半年もしない2007年11月16日彼は脳梗塞で倒れて
しまった。オシム代表監督にとって道半ばでの病はいかばかりで
あったことだろう。幸いにも一命はとりとめたものの激務の代表
監督など務める状態ではなかったようである。
「(日本サッカーの)代表チームの日本化」という命題
に核心的、具体的、現実的に取り組んだ洞察力は敬服に値する。
新聞によると病から幾分回復した2008年日本サッカー協会とアド
バイザー契約を結んだ時の記者会見で
「日本選手は何が不足しているか」の問いに対して
次のような事を語ったとのことである。
●「たくさんあるが、
・まず走る量を増やすことだ。
・考えるスピード、
・走るスピードを上げてより高いレベルの技術を身につけるべきだ。
・皆さんは難しく考えすぎていないか。
・強国を分析し まねするのはいい方法ではない。
・コンプレックスから解放されて、日本の長所を磨くことだ」。
■■「稀有な人」
●今回私はオシム監督の訃報に接し、いろいろな方面の報道を見
るようにした。中でもジェフ千葉が公開したクラブ創設30周年記
念の映像は衝撃的であった。
オーストリア、グラーツの自宅のベッドに横たわるイビチャ・オ
シム氏と元オシムチルドレンの一員であった佐藤勇人選手のオー
ストリアと日本間での対談の映像をインターネットで見た時であ
った。
あの威厳のある風貌、大きく周囲を優しく包み込むような 体躯、
いつも何かを発信しているような雰囲気、そのような在りし日の
オシム氏とは映像に移るオシム氏の姿はあまりにも違い過ぎる。
一回りも二回りも小さくなったように感じだった。
老いるとはこのようなことなのかと思い知らされたような気がす
る。佐藤勇人選手の問いかけに対して相変わらず理路整然と受け
答えをしてくれたのが何よりの救いであった。
●最後に私がオシム監督と直接話をした思い出を記して終わり
たい。日本代表監督となった次の年の2007年の正月 全国高校サ
ッカー選手権大会が千葉県柏市の柏の葉スタジアムで開催されて
いた。
そこにオシム監督が視察のため来られていて高校選手権の試合を
観戦しながら少しの時間二人で雑談した。その時の彼の全国高校
サッカー選手権大会に対する評価が 特に印象的に残っている。
・この年代での全国高校サッカー選手権大会の企画運営は 素晴ら
しい規模と内容であること。
・また日本の高校生年代には多くの将来有望な人材が沢山溢れて
いるいること。
・きっと日本のサッカーは素晴らしい発展を今後遂げるであろう
との内容 であった。
私たち日本のサッカーに携わってきたものにとって何よりの嬉し
い評価であり、これからの日本サッカーに対して夢と希望を膨ら
ます何よりの賛辞と受け止めた。
●岡田武史元日本代表監督は「(オシム監督が)残してくれたもの
に気付くのは、実はこれからなのかもしれない」と スポーツ新聞
にコメントしている。私も同感である。
その「これからは・・」は6ヶ月後に迫ったFIFAW杯カター
ル大会での日本代表チームの活躍が当面のターゲットである。
世界のサッカーの潮流は、オシム氏が提唱した「日本サッカーの
日本化」に限りなく近づきつつある。
●「日本サッカーの日本化」
・ワンタッチプレイを多用した走るサッカー,
・考えるサッカー,
・日本人の強みを活かすサッカー,
イビチャ・オシム氏が私たちに残してくれたものは莫大である。
オーストリア、グラーツに向けて合掌。
(当文中の写真全ての出所は時事通信)
■■■■■■■■■関連 資料■■■■■■■■■
●オシム監督がジェフ市原で優勝をもたらすと、忽ちにして多
くの著名な雑誌が特集を組む。ひいては経済誌や総合誌迄もが、
オシム語録を取り上げる事になり、オシムさんの名前は瞬く間に
全日本に行き渡る。
そしてオシム語録は、サッカーにとどまらず今や競合厳しい経済
界でも、人材育成や業績を伸ばすための戦略的なキーワードとし
て広く重用される事になった。
●「オムニ語録からの抜粋」
・「サッカーは人生そのもの。
勝敗を分けるのは、ほんの少し 小さなニュウアンスだ」
・「1点負けていても、まだ試合には負けてはいない」
・「相手をリスペクトするのが 負けない秘訣だ」
・「リスクを追わないチャレンジはない。日本人に欠ける部分だ」
・「サッカーに最も必要なのはアイデアだ。
アイデアのない人もサッカーはできるが、サッカ―選手にはなれない」
●この機会に、貴方の人生の座右の銘(生活の知恵)として
「オシム語録」をお勧めしたい。
オシム追悼とリカレントに、新しい人生の糧になれば幸いである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます