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■平家物語(薩摩守忠度)

2023-10-08 | ●北條語録

■■■■■■■■■■■平家物語■■■■■■■■■■■
              (薩摩守忠度)

      
  北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長

■■想い出の歴史
⚫️平家物語(治承物語)の作者は不明とされるが、兼好法師の
徒然草に『後鳥羽院の御時、
信濃前司行長稽古の譽れありける
が・・・
この行長入道、平家の物語を作りて、生佛といひける
盲目に教えて語らせけり。』と著されて
いることから 信濃前司
行長が平家物語の作者
で盲目の僧生佛(しょうぶつ)に教え,語
り手
(琵琶法師)にしたとも伝わる。


               🔵一ノ谷合戦図屏風(出典:東京富士美術館)
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあら
はす。おごれる人も久しからず、ただ春の
の夢のごとし。たけきものも遂にはほろびぬ、
ひとへに風の
前の塵に同じ。

ご存知の通りこれは誰もが諳んじる平家物語巻第一「祇園精舎」
の第一節であり、宗教の
死生観から見える日本人の死との 向き
合い方
を象徴的に表現している。人知を超えたものを畏れ敬い、
受け入れ、そして内向的な神向心
と、諦観ともとれる隠忍の心
に支えられた日本
人の宗教観が「諸行無常」に哀れや美徳を
出してきたのであろう。

一方で弱者の鬱積した妬みや恨みは他力本願の勧善懲悪信仰と
合致し平家滅亡に拍手
喝采する。そして、勝利こそが正義と強
大な平
家を滅ぼした義経を賞賛し、後には勝利至上主義最高権
力者である頼朝に屈し滅ぶ義経
を悲劇のヒーローとして祭り上
げている。

この平家物語に象徴される“判官贔屓”は、単なる義経への同
情や愛情だけでなく新た
な権力者へ抗う弱者の鬱屈した心が為
せる
ものであろう。

⚫️秋のお彼岸にご先祖さまと一献『月見酒』と洒落込み芳醇
な生酒の香りに、堪らず盃に
揺れる明月を一気に飲み干す。
飲み込んだ
筈の月の光はいっそう冴え渡り、三途の川に隔てら
れたこの世とあの世を、変わらず照らし
てくれている。
月下独酌、今夜は酒がすすむ。
季節外れの怪談話をひとつ。
『今は昔、若き盲目の琵琶法師芳一のお話。

平家物語を得意とする芳一は、壇之浦に没した平家の怨霊とは
知らず, 彼らに請われる
ままに、夜な夜な寺を抜け出しては赤間
が関
の墓所で壇之浦の合戦の悲劇を弾き語るのであった。
ある夜, 寺の和尚は遅くに一人出かける芳一を見かけ不審に思い、
その跡をつけたが、芳一
は暗闇の赤間が関の墓所で一人平家物語
弾き語るのである。
そして芳一のまわりを多くの人魂が取り囲み、また、どこからと
もなく男女の啜り泣く声だけが
聞こえてくるのである。あまりの
恐怖に, 急ぎ戻った和尚は翌朝“芳一
よ、さも平家の怨霊に取り憑
かれしや” と 昨晩の
事実を伝え、平家の怨霊から芳一を護るため
彼の身体中に般若心経を書きつけた、怨霊とはけっして言葉を交
わさないようにと言って聞か
せた。

そして、その夜平家の怨霊たちが芳一を連れに現れるが、目の前
に芳一は居らず(般若心
経の法力で見えなくなっている)、呼べ
ども芳一
からの返事はない。
“芳一、芳一”と呼ばれる声に芳一は怖れ慄きじっと震えている。
姿も見せず返事もせぬ芳一
に、平家の怨霊の声は怒りで激しくな
ってゆくが、
やがて夜明けも近づくにつれ怨霊達は遂に諦め、
の前に見える芳一の耳を持ち帰ろうと、和尚
が唯一般若心経を書
き損じた彼の両耳を引き
ちぎり持ち去ってゆくのだ。
芳一は、両耳の熱い衝撃と強烈な痛みにじっと耐えなおも恐怖に
震え続けているのであった。』

⚫️小泉八雲「怪談『耳なし芳一の話』」である。小学生時代
の記憶を要約してみたが、大雑把
で下手な要約で申し訳なし(笑)
小泉八雲の「怪談」は切なくも悲しく美しい物語集であるが子供
の頃は物語を読み終えた後、
その夜ひとりでは厠にはゆけなかっ
たものだ(笑)。


   🔵小泉八雲:出典Wikipedia ja.wikipedia.org)
芳一が弾いていた琵琶は,遠くペルシアから奈良時代に伝わったと
されその証拠と
なるものが、正倉院宝物「螺鈿紫檀五弦琵琶
である。

正倉院宝物には,多くの琵琶が保存されているが、最近の研究では
それらは殆ど
日本製であることが分かってきたようだ。


🔵螺鈿紫檀五弦琵琶(出典:東京国立博物館1089ブログwww.tnm.jg)
例えば,,楓蘇芳染螺鈿槽琵琶の絵からは塩化鉛が検出されている。
塩化鉛は白色
の絵の具として、古代日本でのみ使われていた物質
であるがこのことからも日本で作ら
れたことが判明している。
意外にもその他正倉院の宝物にも日本製が多いようで、当時の日
本の技術力の高さ
が解明されつつあるようだ。


           🔵観世流能楽忠度(出典やっとかめ文化祭yattokame.jp)
この写真は能楽『忠度』の一場面である。

「千載和歌集の選者である藤原俊成に仕えた人物が、俊成の死後
出家し従僧
と西国行脚に旅立った。途上、旅僧一行は須摩の浦に
立ち寄り、
一樹の櫻を目にすると、そこに一人の老人が現れ櫻の
樹に花を手向け祈りを捧げる。

旅僧は老人に話かけ,しばし語り合った後、日も暮れたために老人
に一夜の宿を
依頼するが、その老人は詠み人知らずの歌として、
“行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵の あるじならまし“
を披露し、
この櫻の樹の下を宿とするよう勧めた。

そして、この櫻の樹は薩摩守平忠度の墓所でもあるからと、忠度
の供養を頼むので
ある。旅僧が供養をすると、その老人は喜んで
いつしか手向けの花の陰に消えて
行った。
その後、旅僧が櫻の樹の下で寝入っていると、夢の中に忠度の亡
霊が現れる。そして
我が歌が詠み人知らずとして千載和歌集に載
っているのを嘆き、“我が名を入れるよ
う”俊成の子藤原定家に伝
えて欲しいと、
旅僧に頼むのである。

そして、一ノ谷の合戦で討死した様子を語り自分への回向(念仏
の功徳を回し向け
ること)を頼み,  櫻の樹の下に戻って行くので
あった。」     これが、能楽『忠度』の粗筋である。

⚫️平忠度は伊勢平氏の頭領平忠盛の六男として紀伊国熊野地方で
生まれ育ったと云
われる。かつて清盛が後継者にと考えたこと
あったようだが、生母の出自の卑賎が故に
また、一族の嫉視と反
目から栄達を諦めて
風雅の道に生きることにしたようだ。

最終官位は正四位下薩摩守、歌人としても優れ、藤原俊成に師事
している。一門が
都落ちした後、忠度は従者6人と都へ戻り俊成
の屋敷を訪ねているが、忠度の歌を百
余首収めた巻物を俊成に託
すためである。

後に「千載和歌集」の選者となった俊成は朝敵である忠度の名
を出すことを憚り、詠み
人知らずの「故郷の花」として一首撰び
載せ
ている。
その歌こそが『さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山
桜かな』 
その後は「新勅撰和歌集」以降、忠度の歌が十首選ばれ
ており、詠み人も薩摩守忠度
と記されている。


 🔵源平合戦図屏風忠度の最後(出典:ひょうご歴史ステージwww.hyogo-c.od.jp)

⚫️摂津福原そして一ノ谷にかけて源平合戦は、平知盛率いる平家
と源範頼率いる源
氏が一進一退の攻防を繰り広げていたが、義経
の鵯越の逆落しによって一気に形勢
は変わり、平家の大惨敗とな
る。

幼帝と建礼門院を乗せた御座船が、瀬戸内海へ逃れるのを見届け、
忠度は僅かな兵
と共にとって返し、執拗な源氏の追跡を阻み勇猛
に戦ったが乱戦の中、岡部六弥太
忠澄に討ち取られた。享年41
歳である。

討ち取られた彼の箙につけられた短冊に一首、
行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの あるじ
ならまし
忠度の首は六条河原に晒され、その後行く方知れずとなっている。
遺髪は岡部六弥太忠澄
が持ち帰り、所領の岡部原に五輪塔を建て
そこに納めたとも伝わる。後に今の深谷市石流山清心寺に遷され
ているようだ。
明石市人丸町には彼の墓所と伝わる忠度塚が、また神戸市長田区
には忠度胴塚、腕塚が
今も存在している。
訪ねてみたが、胴塚は長田区野田町(JICA研修でお世話になった
伍魚福さんの社屋隣)
また,格闘中に忠澄の郎党に切り落とされた
忠度の右腕を埋めたとされる腕塚は長田区駒ヶ林に、いずれも住
宅街の中にひっそりと祀られ
ていた。
尚、同塚は阪神淡路大震災で倒壊しており、繋ぎ合わされ修復さ
れたその碑は、訪れる人
に震災の記憶を甦らせてくれる。
  
      🔵平忠度胴塚碑撮影写真)         🔵平忠度腕塚(撮影写真)
⚫️摂津福原一ノ谷の合戦では、忠度以外にも多くの平家の公達が
討死している。
平経正(清盛の弟経盛の嫡子)
歌人としても有名であり歌集「経正朝臣集」がある。琵琶の名手
でもあり仁和寺門跡
覚性法親王から琵琶の銘器「青山」を下賜
れているが、都落ちの際に仁和寺に立ち
寄り拝領の「青山」を返
上する件は、
・「平家
物語:経正都落ち」
・「源平盛衰記:経正仁
和寺宮ヘ参リシ事条」
をご一読頂きたい。

平経俊(経正の次弟)
平敦盛(経正の末弟)
無官太夫と呼ばれ、横笛の名手でもあったが、一ノ谷平家本営で
最後まで踏み止まり
最後熊谷直実に討ち取られる。享年16歳。
熊谷が敦盛を討ち取りし後、世の無情を感じ出家したと言うのは
史実ではない。

平通盛(清盛の弟教盛の嫡子)享年32歳
平教経(教盛の次男)享年26歳
平家唯一の猛将と言われ義経の好敵手として描かれ、一ノ谷でな
く、壇ノ浦での大男
二人を抱えての入水等、伝説の多い武者であ
る。

平業盛(教盛の三男)享年17歳
平知章(清盛の四男知盛の嫡子)享年16歳。父知盛を逃し
壮絶な最後を遂げる。

平師盛(清盛の嫡子重盛の子)享年18歳
平盛俊(清盛の家人盛国の子)

また平重衡(清盛の五男)も捕虜となり、後に南都焼討ちの罪科
により興福、
東大寺衆徒に引き渡され斬首されている。
平家一門の御霊安らかならんことを祈る。

⚫️最後に狂言の『薩摩守』では渡し船に乗り「平家の公達薩摩
守忠度」と名乗って舟賃を
踏み倒そうとする僧侶が登場している
ことから、
薩摩守の諱が「ただのり」であることから薩摩守
無賃乗車(ただ乗り)を意味する隠語として
使われてきたが、現
在ではもう死語であろうか。

 

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