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■■■■■■■■■■■平家物語■■■■■■■■■■■
(薩摩守忠度)
北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
■■「想い出の歴史」
⚫️平家物語(治承物語)の作者は不明とされるが、兼好法師の
徒然草に『後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽れありける
が・・・この行長入道、平家の物語を作りて、生佛といひける
盲目に教えて語らせけり。』と著されていることから 信濃前司
行長が平家物語の作者で盲目の僧生佛(しょうぶつ)に教え,語
り手(琵琶法師)にしたとも伝わる。
🔵一ノ谷合戦図屏風(出典:東京富士美術館)
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の
夜の夢のごとし。たけきものも遂にはほろびぬ、ひとへに風の
前の塵に同じ。』
ご存知の通りこれは誰もが諳んじる平家物語巻第一「祇園精舎」
の第一節であり、宗教の死生観から見える日本人の死との 向き
合い方を象徴的に表現している。人知を超えたものを畏れ敬い、
受け入れ、そして内向的な神向心と、諦観ともとれる隠忍の心
に支えられた日本人の宗教観が「諸行無常」に哀れや美徳を
見出してきたのであろう。
一方で弱者の鬱積した妬みや恨みは他力本願の勧善懲悪信仰と
合致し平家滅亡に拍手喝采する。そして、勝利こそが正義と強
大な平家を滅ぼした義経を賞賛し、後には勝利至上主義最高権
力者である頼朝に屈し滅ぶ義経を悲劇のヒーローとして祭り上
げている。
この平家物語に象徴される“判官贔屓”は、単なる義経への同
情や愛情だけでなく新たな権力者へ抗う弱者の鬱屈した心が為
せるものであろう。
⚫️秋のお彼岸にご先祖さまと一献『月見酒』と洒落込み芳醇
な生酒の香りに、堪らず盃に揺れる明月を一気に飲み干す。
飲み込んだ筈の月の光はいっそう冴え渡り、三途の川に隔てら
れたこの世とあの世を、変わらず照らしてくれている。
月下独酌、今夜は酒がすすむ。季節外れの怪談話をひとつ。
『今は昔、若き盲目の琵琶法師芳一のお話。
平家物語を得意とする芳一は、壇之浦に没した平家の怨霊とは
知らず, 彼らに請われるままに、夜な夜な寺を抜け出しては赤間
が関の墓所で壇之浦の合戦の悲劇を弾き語るのであった。
ある夜, 寺の和尚は遅くに一人出かける芳一を見かけ不審に思い、
その跡をつけたが、芳一は暗闇の赤間が関の墓所で一人平家物語
を弾き語るのである。
そして芳一のまわりを多くの人魂が取り囲み、また、どこからと
もなく男女の啜り泣く声だけが聞こえてくるのである。あまりの
恐怖に, 急ぎ戻った和尚は翌朝“芳一よ、さも平家の怨霊に取り憑
かれしや” と 昨晩の事実を伝え、平家の怨霊から芳一を護るため
彼の身体中に般若心経を書きつけた、怨霊とはけっして言葉を交
わさないようにと言って聞かせた。
そして、その夜平家の怨霊たちが芳一を連れに現れるが、目の前
に芳一は居らず(般若心経の法力で見えなくなっている)、呼べ
ども芳一からの返事はない。
“芳一、芳一”と呼ばれる声に芳一は怖れ慄きじっと震えている。
姿も見せず返事もせぬ芳一に、平家の怨霊の声は怒りで激しくな
ってゆくが、やがて夜明けも近づくにつれ怨霊達は遂に諦め、目
の前に見える芳一の耳を持ち帰ろうと、和尚が唯一般若心経を書
き損じた彼の両耳を引きちぎり持ち去ってゆくのだ。
芳一は、両耳の熱い衝撃と強烈な痛みにじっと耐えなおも恐怖に
震え続けているのであった。』
⚫️小泉八雲「怪談『耳なし芳一の話』」である。小学生時代
の記憶を要約してみたが、大雑把で下手な要約で申し訳なし(笑)
小泉八雲の「怪談」は切なくも悲しく美しい物語集であるが子供
の頃は物語を読み終えた後、その夜ひとりでは厠にはゆけなかっ
たものだ(笑)。
🔵小泉八雲:出典Wikipedia ja.wikipedia.org)
芳一が弾いていた琵琶は,遠くペルシアから奈良時代に伝わったと
されその証拠となるものが、正倉院宝物「螺鈿紫檀五弦琵琶」
である。
正倉院宝物には,多くの琵琶が保存されているが、最近の研究では
それらは殆ど日本製であることが分かってきたようだ。
🔵螺鈿紫檀五弦琵琶:(出典:東京国立博物館1089ブログwww.tnm.jg)
例えば,,楓蘇芳染螺鈿槽琵琶の絵からは塩化鉛が検出されている。
塩化鉛は白色の絵の具として、古代日本でのみ使われていた物質
であるがこのことからも日本で作られたことが判明している。
意外にもその他正倉院の宝物にも日本製が多いようで、当時の日
本の技術力の高さが解明されつつあるようだ。
🔵観世流能楽忠度(出典やっとかめ文化祭yattokame.jp)
この写真は能楽『忠度』の一場面である。
「千載和歌集の選者である藤原俊成に仕えた人物が、俊成の死後
出家し従僧と西国行脚に旅立った。途上、旅僧一行は須摩の浦に
立ち寄り、一樹の櫻を目にすると、そこに一人の老人が現れ櫻の
樹に花を手向け祈りを捧げる。
旅僧は老人に話かけ,しばし語り合った後、日も暮れたために老人
に一夜の宿を依頼するが、その老人は詠み人知らずの歌として、
“行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵の あるじならまし“
を披露し、この櫻の樹の下を宿とするよう勧めた。
そして、この櫻の樹は薩摩守平忠度の墓所でもあるからと、忠度
の供養を頼むのである。旅僧が供養をすると、その老人は喜んで
いつしか手向けの花の陰に消えて行った。
その後、旅僧が櫻の樹の下で寝入っていると、夢の中に忠度の亡
霊が現れる。そして我が歌が詠み人知らずとして千載和歌集に載
っているのを嘆き、“我が名を入れるよう”俊成の子藤原定家に伝
えて欲しいと、旅僧に頼むのである。
そして、一ノ谷の合戦で討死した様子を語り自分への回向(念仏
の功徳を回し向けること)を頼み, 櫻の樹の下に戻って行くので
あった。」 これが、能楽『忠度』の粗筋である。
⚫️平忠度は伊勢平氏の頭領平忠盛の六男として紀伊国熊野地方で
生まれ育ったと云われる。かつて清盛が後継者にと考えたことも
あったようだが、生母の出自の卑賎が故にまた、一族の嫉視と反
目から栄達を諦めて風雅の道に生きることにしたようだ。
最終官位は正四位下薩摩守、歌人としても優れ、藤原俊成に師事
している。一門が都落ちした後、忠度は従者6人と都へ戻り俊成
の屋敷を訪ねているが、忠度の歌を百余首収めた巻物を俊成に託
すためである。
後に「千載和歌集」の選者となった俊成は朝敵である忠度の名
を出すことを憚り、詠み人知らずの「故郷の花」として一首撰び
載せている。
その歌こそが『さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山
桜かな』 その後は「新勅撰和歌集」以降、忠度の歌が十首選ばれ
ており、詠み人も薩摩守忠度と記されている。
🔵源平合戦図屏風忠度の最後(出典:ひょうご歴史ステージwww.hyogo-c.od.jp)
⚫️摂津福原そして一ノ谷にかけて源平合戦は、平知盛率いる平家
と源範頼率いる源氏が一進一退の攻防を繰り広げていたが、義経
の鵯越の逆落しによって一気に形勢は変わり、平家の大惨敗とな
る。
幼帝と建礼門院を乗せた御座船が、瀬戸内海へ逃れるのを見届け、
忠度は僅かな兵と共にとって返し、執拗な源氏の追跡を阻み勇猛
に戦ったが乱戦の中、岡部六弥太忠澄に討ち取られた。享年41
歳である。
討ち取られた彼の箙につけられた短冊に一首、
『行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの あるじ
ならまし』
忠度の首は六条河原に晒され、その後行く方知れずとなっている。
遺髪は岡部六弥太忠澄が持ち帰り、所領の岡部原に五輪塔を建て
そこに納めたとも伝わる。後に今の深谷市石流山清心寺に遷され
ているようだ。
明石市人丸町には彼の墓所と伝わる忠度塚が、また神戸市長田区
には忠度胴塚、腕塚が今も存在している。
訪ねてみたが、胴塚は長田区野田町(JICA研修でお世話になった
伍魚福さんの社屋隣)また,格闘中に忠澄の郎党に切り落とされた
忠度の右腕を埋めたとされる腕塚は長田区駒ヶ林に、いずれも住
宅街の中にひっそりと祀られていた。
尚、同塚は阪神淡路大震災で倒壊しており、繋ぎ合わされ修復さ
れたその碑は、訪れる人に震災の記憶を甦らせてくれる。
🔵平忠度胴塚碑(撮影写真) 🔵平忠度腕塚(撮影写真)
⚫️摂津福原一ノ谷の合戦では、忠度以外にも多くの平家の公達が
討死している。
・平経正(清盛の弟経盛の嫡子)
歌人としても有名であり歌集「経正朝臣集」がある。琵琶の名手
でもあり仁和寺門跡覚性法親王から琵琶の銘器「青山」を下賜さ
れているが、都落ちの際に仁和寺に立ち寄り拝領の「青山」を返
上する件は、
・「平家物語:経正都落ち」
・「源平盛衰記:経正仁和寺宮ヘ参リシ事条」
をご一読頂きたい。
・平経俊(経正の次弟)
・平敦盛(経正の末弟)
無官太夫と呼ばれ、横笛の名手でもあったが、一ノ谷平家本営で
最後まで踏み止まり最後熊谷直実に討ち取られる。享年16歳。
熊谷が敦盛を討ち取りし後、世の無情を感じ出家したと言うのは
史実ではない。
・平通盛(清盛の弟教盛の嫡子)享年32歳
・平教経(教盛の次男)享年26歳
平家唯一の猛将と言われ義経の好敵手として描かれ、一ノ谷でな
く、壇ノ浦での大男二人を抱えての入水等、伝説の多い武者であ
る。
・平業盛(教盛の三男)享年17歳
・平知章(清盛の四男知盛の嫡子)享年16歳。父知盛を逃し
壮絶な最後を遂げる。
・平師盛(清盛の嫡子重盛の子)享年18歳
・平盛俊(清盛の家人盛国の子)
また平重衡(清盛の五男)も捕虜となり、後に南都焼討ちの罪科
により興福、東大寺衆徒に引き渡され斬首されている。
平家一門の御霊安らかならんことを祈る。
⚫️最後に狂言の『薩摩守』では渡し船に乗り「平家の公達薩摩
守忠度」と名乗って舟賃を踏み倒そうとする僧侶が登場している
ことから、薩摩守の諱が「ただのり」であることから薩摩守を
無賃乗車(ただ乗り)を意味する隠語として使われてきたが、現
在ではもう死語であろうか。
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