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■戦争と平和の狭間

2023-02-08 | ●日本の国防

■■■■■■■■■■戦争と平和のはざま■■■■■■■■■■

■■プーチンの陰謀
⚫️ウクライナ戦争から1年が経つ。
当初予測では、2.3ヶ月で収束すると言う意見が大勢だった。やがて
失望にかわつていった。
国際機関の国連では,常任理事国間の対立で
仲裁は不成立に終わる。

       
勢いを得たプーチンは,核をちらつかせてEU諸国を牽制する当初か
らそれを読み込んで戦争を仕掛けた趣きさえある。いまやプーチン
の悪態を指摘する声が高い。



⚫️突然攻め込まれたウクライナの人々は、自衛のために立ち上がる
しかなかった。EU諸国や米国のの武器支援があるとは言え, よく持
ち堪えていると見ていい。このようなウクライナ国民の苦悩を見て、
日本でも「自衛」や「国防」について考える機運が高まってきた。
ようやくと言っていい

⚫️日本は戦後77年間,幸いにも戦争とは全く無縁で,平和に過ごして
きた。
それを日本だけの「平和憲法」の成果と深く信じて 疑がわな
い人たちが多い。
しかし不戦を宣言しただけで他国から攻め込まれ
ないとは考えにくい。やはり強固な日米同盟のもと、自由主義を目
指して切磋琢磨してきた結果と理解したい。
ただ日本の国民感情は、
逼迫する米中の台湾問題や北朝鮮の弾道ミサイル発射に接して,戦争
への危惧が「あり得ない]から「あり得るかも知れない」に
大きく変わったと見ていい。

■■屈恥のベトナム戦争
⚫️戦後、アジアで実在した不惑の戦争を探ると59年前(1964年)に
おきた「ベトナム戦争」がある。  

この戦争は当時、南北に分断されたベトナムで,社会主義のベトナム
民主共和国(北ベトナム)と,資本主義のベトナム共和国(南ベトナ
ム)が,真向から争った内戦である。

        

しかもこの戦争は,冷戦中に起こった資本主義と社会主義の代理戦争
でもあった。その後,南の顧問役の米国が参戦せざるを得なくなり全
面戦争になる。これが俗に言うベトナム戦争」である。

その発端は,1945年,日本が敗北した第2次世界大戦、所謂大東亜戦争
に遡る事になる。

⚫️敗戦後,日本軍がベトナムから撤収した直後に,ホー・チ・ミンが
独立を宣言して[
ベトナム民主共和国」が誕生する。
驚いたもとの宗主国フランスは、急遽ベトナムに戻り植民地支配を
復活させようとする。

その結果、植民地打倒と抗仏を目指す「民族解放戦争」が始まる。
その頃,中国では,毛沢東の共産党が「中華人民共和国」を建国、
宗主國のフランス軍は, 苦しい戦いを余儀なくされ、54年5月遂に
降伏する。

この戦争の犠牲者は,フランスが約7.5万人、べトミン側が30万人に
及んだ。

⚫️この局面打開の為に,同年4月スイスのジュネーブで国際会議が開か
れる。会議には、米・英・仏・ソ連の4大国とインド、中華人民共和
国などアジア諸国の合計18カ国が参加し, 総選挙の実施と引き換えに
停戦協定(ジュネーブ協定)が成立、南北ベトナムを二分する北緯
17度線に暫定軍事境界線が設定される。
ところがジュネーブ会議の頃から,フランスに代わって東南アジアに
関与するようになった米国は、共産主義の拡大を食い止めるために、
海外で亡命生活を送っていたゴ・ディン・ジェム(反共主義者カトリ
ック教徒)を初代大統領に迎え、ベトナム共和国(いわゆる南ベトナ
ム)を樹立。ベトナムを「アジアの反共の砦」にしようとする。

    

一方の北ベトナムは、中ソ両国の支援のもとに南ベトナム民族解放
戦線(別名「ベトコン」)と連携して徹底したゲリラ戦で抗戦する。

 
⚫️当初米軍は,南ベトナム軍の顧問団で少数だったが,戦線の拡大で
増員を余儀なくされ,最後は50万人を超す。

 

しかし米軍は,土着的なベトコンの激しい抵抗に遭い、苦戦を強いられ
歴史的な敗北を喫する。

この戦いは,米軍が撤退して 1975年4月に北ベトナム軍が南ベトナムの
首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させるまで,約10年間続く。
この戦争にはアメリカだけでなく,ソ連や中国の共産国や、後に南ベト
ナムを支援した韓国やオーストラリアなどの反共国も参戦して、世界
を大きく二分したゲリラ戦となる。


⚫️遥か離れた日本の人達が, ベトナム戦争を知るのは,  芥川賞作家の
開高健のドキュメント記事だった。
開高は自らベトナム戦争に参加
して「ベトナム戦記」を書き週刊朝日に連載, その後3年をかけて
凄烈な体験をもとに小説『輝ける闇』を執筆して
話題を呼んだ。
この反響は鮮烈だった。
日本の若者達は,このドキュメントを読んで
参戦義務のない平和憲法を持つ日本の素晴らしさを体感する。

日本が平和と戦後復興の祝宴に酔っている頃、同じアジアのベトナム
は,フランス植民地から独立後, 南北分断の激しい内戦に翻弄され続け
ていた。
当時のアジアでは, タイや,カンボジアや,ラオスや,ベトナムが隣接する
メコン半島の一角で、10年に及ぶ世界的な南北の代理戦争が続くこと
なる。

しかも世界最大の軍事力を誇る巨大国家の米国が,小国のベトナムに敗
れるという極めて異例の結果になる。世界の常識が大きく覆されたと
言っていい。

■■国際都市チェンマイの出来事
⚫️私は,定年後の2000年にスタートアップしたNPO日タイ国際交流
推進機構のCEOとして、タイ北部の都市チェンマイにおける日タイ
ロングステイ・プロジェクトに携わってきた。


チェンマイ市の人口は約17万人,そのうち 約2万人が外国人ロングス
テイヤーと呼ばれる海外からの定住者だと言う。
その内訳は俗に
米国人が約5千人
欧州系が約5千人
日本人が約4千人
中東系が約4千人
と言われる。

⚫️中でも米国人ロングステイヤーは、かつて激戦のベトナム戦争に
参戦、定年後に 想い出を求めてチェンマイに舞い戻り、定住する。

 
当時若者だった彼らは,ベトナムの自由を取り戻すために最前線で1カ
月間、命を懸けて戦う。その後保養のために隣国チエンマイ
に移って
保養施設で身体と心を癒す。
そして1カ月後,再びベトナムに戻り,
泥沼
の戦線で生命をかけて戦う
その間,多くの同僚が帰らぬ人となった
と言う。

戦い終えて帰国した彼らは,定年後、若い頃に何度となく訪れたタイ
チェンマイに格別のノスタルジーを感じているという。

⚫️いまチェンマイは,タイの首都バンコクと並ぶ 世界的な国際観光
都市として脚光をあびている。そのチェンマイには, 全く
戦争とは
無縁の
日本のシニアのロングステイヤーと、かつて若い時にベトナ
ム戦線で戦ってきたアメリカ人
シニアのロングステイヤーが混在し
老後を過ごしている。偶然とは言え,不思議に思えてならない。



■■したたかタイの外交戦略
⚫️タイは素晴らしい伝統国家だが, 世界の自由陣営から見ると,いさ
さか
異端に映る
戦前のアジア諸国は欧米の魔手にかかり、ことごとく植民地になっ
たにも
拘わらず, タイは1国だけ独自,孤高の中立外交で,伝統王国を
したたかに守
り抜いたという見事な側面がある。
粘り強いタイの国民性と,柔軟な外交力が,連綿と受け継がれて,いま
もこの
国の不思議なまでの魅力を遺憾なく発揮している。
そのタイは、メコン半島でベトナムやカンボジアや,ラオスやビルマ
(ミャンマー)と、そして南部ではマレーシアと隣接する。

  戦前の欧米列強(宋主国)によるアジア植民地支配の地図

植民地支配の国々は大東亜戦争終結に伴い全て独立を果たした
(現在の東南アジア、メコン半島の国々5国の地図)

⚫️次いで81年前に起こった大東亜戦争では、日本は米国とその同盟
国(英国,フランス,オランダなど植民地宗主国)と4年間に亘り 激しく
交戦した。
アジアで唯一の独立国だったタイは,いち早く日本側に加担し,日本の
アジア侵攻
に力を貸した。
ところが日本の敗戦濃厚となった1945年8月, タイは日本の敗戦
を予測して突如,枢軸側の米国側に鞍替えした。そして日本の敗戦を
勝者の側で迎えて自国を救った。
機を見て敏,常に勝路を探るタイ王
国の拓跋な外交交渉の戦略には,学ぶところが極めて多い。

ところが戦後、枢軸側による敗戦国日本の国際弾劾裁判が始まると、
スリランカ国とタイ国は, 共に日本の戦争犯罪を根底から否定して,
日本の大窮地を救ってくれた。

・「していては、平和は来ない
・「長い視点で施策を考え、緻密に対処して行く

これが四囲を他国と接するタイの外交戦略であり,全てのタイの国策
に共通する基本戦略だった


⚫️私は外交の専門家ではないが、国際交流の仕事を通じてタイの拓
跋な外交戦略と経済力に格別、注目して来た。

のちにトヨタはじめ日本の自動車メーカーの進出を取り込み,今やタ
イの自動車産業は,年産200万台にせまる
ACEANの中核国としてタイ
とASEANの経済を支えている。

タイの中進国化と長期に亘る日タイの友好関係は,元はと言えば,タイ
の拓跋な外交力と言うか, 優れた外交センスに支えられていると言っ
ていい。
今まで何かと直情型とおぼしき日本の外交と比べて,大いに
学ぶところが多いのではないのか。

■■喫緊の課題
⚫️思うに「戦争と平和」は、表裏の関係にはない。  
それぞれの国やそのリーダーは、自国のために障害となる相手と
話し合いが不発に終わると,武力で威嚇し目的を得ようとする。

核保有は,確かに戦争の抑止力になっていると思うが,ウクライナ戦争
のプーチンの様に,核の使用をちらつかせて相手を威嚇するとなると,
それはもうヤクザ同様、悪態としか言いようがない。

しかも世界の話し合いの場である国連が、充分機能しないとなれば、
世界秩序は破滅に向かうしかない

⚫️日本は,77年前に未曾有の戦争敗北に直面した
そして相手国(連合国軍)の軍隊に国土を占領され,主権の全てを奪
われるという屈辱の体験をした。

その後、世界に復帰する迄の道のりを振り返った時、戦争ほど割に
合わない事はないと、全ての日本人は悟ったはずだ。

当時12才の私でさえ,全容は掴めないまでも、子供ごころに負け戦の
悲哀をかみしめたものだ。
戦争は,人間社会でよく言う、喧嘩両成敗にはなりにくい。
・しかもベトナム戦争ではないが,やってみないと勝敗は判らない。
・しかし大枚の戦費や人的犠牲は,勝者敗者を問わず,全てがその国民
のツケとして残る。こんな無残で,馬鹿馬鹿しい事はない

  

⚫️「日本国記」百田尚樹著の最終章「未来へ」に,次のようにある。
戦争のない世界は理想である。私達はそれを目指していかなければ
ならない。
口で「平和」を唱えるだけでは戦争は止められない。
世界
と日本に必要なのは戦争を起こさせない「」(抑止力)である

しかし今回のウクライナ戦争を機に世界は、
東西とか
自由主義陣営共産主義陣営と言う二極化
と分断化による抑止力の濫用
で, 世界は深い迷路に迷い込んでいるよ
うに見えてならない

どうあれ戦争から,真の平和はやって来ないこれは為政者だけではな
く,世界の人々共通の認識である事が
明確になって来た。
既に日本は,ウクライナ戦争を契機にして,国防力や抑止力の拡充
に大きく舵を切った。
やはり平和へのアプローチは,
・戦争(力)ではなく,
・平和憲法依存でもなく,
タイ外交のように, 戦略
志向による外交努力(話合い)と,先進的な国際
協調にあると考えるが、どうだろう
。                         (Yama)

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