■■■■■■■■■■法隆寺物語■■■■■■■■■■
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺、正岡子規
⚫️法隆寺といえば、まず思い浮かぶのが有名な正岡子規の句だ
が、実は、これは秋の句である。
だが桜の時期の法隆寺もまた格別で、春の句も実に多い。
腹に響く夜寒の鐘や法隆寺 正岡子規
菜の花や法輪法起法隆寺 和田悟朗
法隆寺前の往来や草芳し 野村喜舟
法隆寺村にやすらふ夏氷 下村槐
苗代の畦より見えて法隆寺 遠藤梧逸
まぶた重き仏を見たり深き春 綾子
行春やほの~のこる浄土の図 秋櫻子
法隆寺塀にこぼして春の柝 宮坂静生
⚫️今年は、昨年開催の奈良国立博物館 聖徳太子1400年遠忌記念
展に続き、国宝聖徳太子坐像など、なだたる建立時以来の仏像が
法隆寺で公開されると聞き、思い切って訪れる事にした。
この10年来の懸案ながら、奈良には何度となく訪れる機会を持ち
ながら、コロナのせいもあって初めての参詣となつた。
⚫️4月の朝10時.JR大阪駅発、奈良加茂行き大和路線快速電車
(221系)に乗車する。西九条から天保山、新今宮、天王寺経由、
八尾、王寺を経て約40分で法隆寺駅に着く。意外と早い。
早速 駅前から専用バスで約10分、法隆寺表参道に到着する。
参道では、コロナの解禁に合わせて、バス10台ばかりを連ねた
静岡県の中学生卒業旅行の一団と、法隆寺の表山門が織りなす
たたずまいは、静かで平和な日本を象徴する春の原風景と言え
よう。
⚫️法隆寺は、昨年開祖1400年を迎えた日本最古の木造建造物で、
戦後日本の世界遺産第1号に認定された由緒ある世界的な大寺院
である。しかもそれを造ったのが、日本の国家形成の原点と言わ
れる飛鳥時代の主役、聖徳太子(574~622)だと聞けば、想像す
るだけで心弾む。
当時の日本は、今の朝鮮半島の新羅と何んども戦って屈服させ強
い影響力を持ち始めた頃だと言う。聖徳太子は、古墳時代に次ぐ
飛鳥時代6世紀頃に、時の推古天皇の摂政として 敏腕を振るう事
になる。
⚫️聖徳太子は日本の統一国家を作るに際して「律・令・格・式」
をつくり、それを政治の根幹とした。当時としては、極めて先進
的な考え方と言っていい。これは、儒教からもたらされたものと
いわれている。
「律令格式」の四者は、それぞれ相関し、政を司るに非常によ
く出来た法体系だったと言われている。
そして「十七条の憲法」や 「冠位十二階の制定」など 多
くの偉業を成し遂げる。そしてのちに天皇中心の政治への改革で
ある「大化の改新」を起こすことになる。
⚫️その頃、聖徳太子は新羅の宗主国の隋と交流するため遣隋使
を派遣して「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
恙きや」と言う親書を贈る。あの歴史的に有名な出来事である。
⚫️法隆寺の建立は、607年(推古15年)今を去る1415年前の事
である。聖徳太子が父・用明天皇のために創建したとされ、7世
紀初頭の創建だが、このとき建てた寺は「日本書紀」によると
670年(天智9年)に落雷による火災で焼失し再建されたと言う。
しかし木造の建造物としては、ゆうに1400年以上経過しており、
日本最古、しかも日本最初の世界遺産として 世界に誇れる伝統
的な文化遺産に違いない。
⚫️また建物と併存する多くの仏像、襖絵、建具など改めて日本
の伝統文化の素晴らしさに、驚嘆するばかりである。
これら聖徳太子の事を念頭におきながら、法隆寺の回廊を歩く事
が出来たのは、平和冥利に尽きると言うか、何ものでもない。
⚫️人類の歴史は想像以上に古い。言葉の歴史も古く5500年程度
と言う説がある。国の統治の歴史は、日本は世界一を誇る。
その理由として、単一民族で海洋国家、そして四季と言う地の利
に恵まれた地政を挙げる専門家が多い。
ところが敗戦後の傾向として歴史感を軽んじ、本来大切な筈の国
の史観が観光の道具の如く軽く扱われてきたのは残念でならない。
返り咲く八重の桜や法隆寺 正岡子規
⚫️司馬遼太郎著の「この国のかたち」をはじめ、百田尚樹著
の「日本国紀」では、飛鳥時代の冒頭に果たした聖徳太子の偉
業を大きく取り上げ それが日本の統一国家へ向けての壮大な叙事
詩の始まりを告げるに、限りなく大きな役割を果たしたとある。
⚫️日本の随所に存在する多くの社寺仏閣は、まさに日本栄華の確
証と言っていい。私ども日本人先祖の雄大な歴史の所産に、更なる
思いをいたし、改めて誇りとする事が日本人我々に求められている
と思う。
悠久の歴史を秘めた聖徳太子ゆかりの法隆寺が、これからも日本の
人々の誇りとして、ますます重きをなすよう願って止まない。
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