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捜査段階から一貫して関与を否認 『死刑求刑』 裁判員裁判で無罪判決

2010-12-10 17:45:57 | 司法・裁判
2010年12月10日(金)

 当然の判決だと思う。

 被告が全面否認のまま、「死刑」が求刑された裁判員裁判で、

 市民から選ばれた裁判員は、検察の『証拠』の信頼性を疑問視し、

被告に「無罪判決」を下した。


    裁判員裁判で無罪となった白浜被告(時事通信)

 今回の結果は、市民の良識を反映すると言う裁判員裁判の目的に

合致した好例(判例)となるだろう。

 これまでの職業裁判官による裁判では、弁護側の奮闘にも関わらず、

検察が有罪としたものは、99.99%有罪という裁判結果であった。

 その背景として、警察・検察が提示する「証拠」は信頼性のある物

という、暗黙の了解があったからである。

 しかし、大阪地検特増部事件(村木厚子さんに対する証拠捏造)で、

検察は、検察官が描いた『絵図』通りに捜査が進むように日常的に

「証拠をでっちあげてきた」疑いが濃厚となった訳である。

 今回も、『指紋』・『DNA鑑定』など表面的な『物的証拠』は提示

されたが、その信用性が問われたようである。

 
 白浜被告の弁護団=高齢夫婦殺害裁判(時事通信)

 新聞(Web版)報道によれば、

 弁護側は、【指紋などは偽装工作の可能性がある」として、検察側の立証について「合理的な疑いが残る」と批判していた。】 (朝日新聞)

  と主張し、

【平島裁判長は「証拠を検討すると、検察官の主張を全面的に認めることはできない」と理由を述べた。】 (朝日新聞)

  という。

【白浜政広被告(71)は、捜査段階から「現場には行っていない」と関与を否認し、被告人質問では、犯行日とされる当日の行動について「早朝に家を出て市内を散歩し、夕方に散歩を終えて車の中で仮眠した。午後10時ごろ家に戻った」と述べ、アリバイの存在を主張し】 (朝日新聞)

  無罪であることを主張していた、という。

 この取り調べでも「自白」を誘導することに重点が置かれていたようで、

【今回の事件では、自白などの犯行を直接結びつける証拠はないため、立証は間接証拠の積み重ねとなった。】 (朝日新聞)

 という報道でも明らかであるが、一方で朝日新聞の上記の表現も

自白 = 犯行を直接結びつける証拠】 という図式に拘泥しており

「自白証拠中心」の考え方のようにも見えて、危うい感じがする。


 この判決を検察も受入れ、検察が恥の上塗りをすることのない事を望む!


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死刑求刑被告に無罪 鹿児島高齢夫婦強殺 裁判員裁判で初 

      西日本新聞 2010年12月10日(金)17:30
 鹿児島市の高齢夫婦殺害事件で、強盗殺人と住居侵入の罪に問われ死刑を求刑された同市三和町、無職白浜政広被告(71)の裁判員裁判の判決公判が10日、鹿児島地裁であり、平島正道裁判長は「被告と事件を結び付ける直接的な客観的証拠はなく、犯人とは認められない」として無罪を言い渡した。裁判員裁判で死刑求刑の被告への無罪判決は初めて。裁判員裁判での無罪判決は千葉地裁での覚せい剤取締法違反事件に次ぎ2例目。

 白浜被告は逮捕時から一貫して無罪を主張。事件の目撃証言や被告が犯人であることを示す直接的な証拠はなく、公判の最大の争点は、白浜被告が犯人かどうかだった。

 検察側は室内のタンスなどから採取された指紋と掌紋11点と、侵入口とされる網戸から採取された細胞片のDNA型が被告と一致したなどとして「被告が犯人でなければ合理的な説明は不可能だ」と主張していた。

 これに対し判決は、強盗目的とした検察側の主張をほぼ全面的に否定。室内に現金が残されていたことや、被害者を多数回にわたって殴った犯行状況から「怨恨(えんこん)による犯行とみるのが自然で、金品目的とは断定できない」と指摘した。

 指紋、掌紋やDNAについては「被告のものだが、事件が発覚する以前に触ったと推認するにとどまる」とした。

 一方、白浜被告が「被害者宅に行ったことは一度もない」と主張した点については「被告の供述は嘘(うそ)であるが、それでただちに犯人と認めることはできない」と述べた。加えて、凶器であるスコップから指紋が検出されていないことなどを挙げ「被告を犯人と認定することは、『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則に照らして許されない」と結論づけた。

 事件は2009年6月19日早朝、鹿児島市下福元町の蔵ノ下忠さん=当時(91)=宅を訪ねた家族が忠さんと妻ハツエさん=同(87)=が死んでいるのを見つけて発覚した。

 鹿児島県警は現場に残された指紋などが一致したとして、殺人容疑などで白浜被告を逮捕。鹿児島地検は強盗目的で被害者宅に侵入し、2人を殺害したとして強盗殺人などの罪で起訴した。

 裁判は、裁判員の選任手続きから判決まで40日間、結審後に、裁判員と裁判官が有罪か無罪かを話し合う評議は14日間と、いずれも裁判員裁判としては最長だった。裁判員裁判では初めて被害者宅の現場検証もあった。裁判員は男性4人、女性2人が務めた。
=2010/12/10付 西日本新聞夕刊= 



柔らかな口調で「無罪」、被告を見つめる裁判員 鹿児島(朝日新聞)

死刑求刑被告に無罪、鹿児島地裁 裁判員裁判で初(共同通信)

法廷に響く「無罪」 被告を見つめる裁判員 鹿児島(朝日新聞)

高齢夫婦殺害、被告に無罪=「検察側証拠、証明できず」―死刑求刑、裁判員裁判

      時事通信 2010年12月10日(金)11:03

 鹿児島市で昨年6月、高齢夫婦を強盗目的で殺害したとして、強盗殺人などの罪に問われた無職白浜政広被告(71)の裁判員裁判の判決で、鹿児島地裁(平島正道裁判長)は10日、「検察側が提示した証拠は全面的に証明できない」と述べ、無罪(求刑死刑)を言い渡した。死刑が求刑された裁判員裁判での無罪は初めて。

 判決は「現場のたんすには金品が残されており、物色された形跡がない。被害者の顔を100回以上殴るなど、およそ強盗目的とはそぐわない」と指摘した。

 公判では白浜被告に直接結び付く証拠がなく、現場の指紋と細胞片のDNA型が被告のものと一致した点をめぐり、検察と弁護側の評価が対立。結審から約3週間の評議で、裁判員は有罪か無罪か、有罪なら死刑の適否を決める難しい判断を迫られた。



裁判員裁判、死刑求刑被告に無罪判決 鹿児島老夫婦殺害

       朝日新聞 2010年12月10日(金)10:45

 鹿児島市で昨年6月、老夫婦を殺害したとして、強盗殺人罪などに問われた無職白浜政広被告(71)の裁判員裁判で、鹿児島地裁(平島正道裁判長)は10日、死刑の求刑に対し、無罪を言い渡した。平島裁判長は「証拠を検討すると、検察官の主張を全面的に認めることはできない」と理由を述べた。

 被告は捜査段階から「現場には行っていない」と関与を否認し、無罪を主張していた。有罪か無罪かの認定に加え、有罪の場合は死刑の適否が争点で、裁判員がどう判断するかが注目されていた。

 裁判員裁判としては、選任手続きから判決までが最長の40日間。無罪主張の被告への死刑求刑は初めてだった。

 起訴状によると、白浜被告は昨年6月18日夕から翌朝にかけて、蔵ノ下忠さん(当時91)方に金品を奪う目的で侵入し、忠さんと妻ハツエさん(同87)の頭や顔をスコップで殴って殺害したとされる。

 今回の事件では、自白などの犯行を直接結びつける証拠はないため、立証は間接証拠の積み重ねとなった。検察側は、侵入経路とされる網戸から採取された細胞片のDNA型や物色された整理ダンス付近の指紋などが被告のものと一致したとする点を挙げた。

 そのうえで、最高裁が死刑選択が許される基準として示した「永山基準」に沿って「命を犠牲に金品を奪おうとした動機は厳しく非難される」「殺害方法が残虐」と指摘。遺族の強い処罰感情などを踏まえ、死刑を求刑した。

 弁護側は現金や貴重品が現場に残り、スコップから被告のものと一致する指紋などが出ていないことから、「恨みを持つ別人の犯行」と反論。「指紋などは偽装工作の可能性がある」として、検察側の立証について「合理的な疑いが残る」と批判していた。

 白浜被告は被告人質問で、犯行日とされる当日の行動について「早朝に家を出て市内を散歩し、夕方に散歩を終えて車の中で仮眠した。午後10時ごろ家に戻った」と述べ、アリバイの存在を主張した。

 公判では、弁護側が検察側の多くの証拠に同意しなかったため、鹿児島県警の警察官ら計27人の証人が出廷。裁判員裁判としては初の現場検証も行われた。評議も最長の14日間だった。

 これまでの裁判員裁判では死刑求刑が5件あり、4件が判決に至っていた。横浜、仙台、宮崎の各地裁(横浜と仙台は被告側が控訴)で死刑が言い渡された。東京地裁は無期懲役だった。

     ◇

 〈鹿児島市の老夫婦殺害事件〉 2009年6月19日朝、鹿児島市下福元町の民家で、この家に住む蔵ノ下忠さん(当時91)と妻ハツエさん(同87)が頭から血を流して死亡しているのを訪れた三男が見つけた。タンスに物色の跡があり、現場から見つかった指紋などをもとに鹿児島県警は白浜政広被告(71)を殺人容疑などで逮捕。同年7月、鹿児島地検は強盗殺人と住居侵入罪で起訴した。

 起訴状では、白浜被告は同年6月18日午後4時半ごろから19日午前6時ごろ、蔵ノ下さん方に金品を奪う目的で侵入。2人の頭や顔を金属製スコップ(長さ約94センチ、重さ約1.6キロ)で何度も殴り、脳挫傷などにより殺害した、とされていた。検察側は公判で、犯行推定時刻を18日午後7~9時ごろと説明した。




「あかつき」 周回軌道 投入失敗 から見えてくる 宇宙工学の受難 : 日経ビジネス誌

2010-12-10 12:09:09 | 科学と技術
2010年12月10日(金)

 今日の日経ビジネス ONLINE では、「あかつき」の挑戦とトラブル

について、結構長い記事を掲載していた。

 政府の『宇宙予算削減』にも言及した興味深い記事である。

 今年の『事業仕分け』 でも槍玉に挙がり、「はやぶさ」の成功で

槍玉に挙げた仕分け人が恥を掻いたことは記憶に新しい。

 リンクを4回もクリックしないと読めないので、以下に全てをコピペする。

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「あかつき」周回軌道投入失敗から見えてくる
  宇宙工学の受難

     あえて“初物”のスラスターを搭載した理由

    松浦 晋也;日経ビジネスONLINE 2010年12月10日(金)

 12月7日、日本の金星探査機「あかつき」が金星周回軌道投入に失敗した。5月21日に種子島宇宙センターから打ち上げられたあかつきは、順調に飛行を続け、この日金星への最接近に合わせて、搭載した推力500N(ニュートン)の軌道変更エンジンを720秒噴射し、金星周回軌道に入る予定だった。

 午前8時49分に噴射を開始したあかつきは、直後の8時50分に地球から見て金星の影に隠れた。ところが金星の影から出てきたあかつきを地上局で捕捉するのに手間取った。その後、通信を回復したあかつきの軌道を測定したところ、金星周回軌道に入れなかったことを確認。

 さらに探査機からダウンロードしたデータから、噴射開始から約143秒で、あかつきの姿勢が乱れ、本来720秒行うはずだった噴射が停止したことが判明した。姿勢の乱れは、5秒間で軌道上初期重量が500kgある探査機が完全に1回転するという急激なものだった。

 現在、宇宙航空研究開発機構(JAXA)では、事故調査を行っている。今のところ失敗の原因として一番可能性が高いのは、500Nスラスターのトラブルだと見られている。あかつきとの通信に問題がないので、大量の計測データが入手できることは間違いない。今後事故原因について、次々と新事実が明らかになるだろう。

 ここでは500Nスラスターが、世界初のセラミック製だったということを取り上げ、そうなった背景を見ていきたい。「初物」は常にトラブルの覚悟がないと使えない。惑星周回軌道投入のためのスラスター噴射は、惑星探査機にとってももっとも危険な動作だ。一発勝負でやり直しができない。そこにあえて初物のセラミック製スラスターに使用した理由には、JAXA宇宙科学研究所における、宇宙工学部門の苦境が関係してくる。

 宇宙研は前身の文部省・宇宙科学研究所時代から、「理工一体」を標榜し、理学と工学の緊密な連携を特徴としてきた。ところが2003年の宇宙三機関統合以降ずっと、宇宙研・宇宙工学部門は、宇宙空間での技術実証がままならないほどの非常に厳しい環境に置かれてきたのだ。


道具扱いされた宇宙工学

 JAXA宇宙研のルーツをたどると、1955年に東京大学・生産技術研究所の糸川英夫教授が実験を行ったペンシルロケットに行き着く。糸川研究室のロケットはその後規模を拡大し、1964年には東京大学・宇宙航空研究所になり、1970年2月11日に日本初の衛星「おおすみ」の打ち上げに成功。1981年に、東大から独立して文部省・宇宙科学研究所となり、ロケットを開発しつつ年1機の割合で科学衛星を打ち上げ、世界的に見ても有力な宇宙科学の中核機関となった。2003年の宇宙三機関統合でJAXA宇宙科学研究本部となり、今年4月にJAXA宇宙科学研究所と名前を戻している。

 この歴史から、本来工学系研究者がロケットを研究開発していたところに、ロケットを使って宇宙空間の研究をした理学系研究者が合流し、研究所が形成されたことが分かる。

 1970年代から1990年代半ばまで、宇宙研は年1回の打ち上げで5機ロケットを打ち上げる間に、次世代ロケットを開発するというペースで動いていた。そして新型ロケットの1号機には宇宙工学部門が主導する工学試験衛星を搭載する慣例となっていた。

 まず工学側が新たな技術で道を切り開き、それを利用して理学側が観測成果を挙げるという好循環が確立していたといっていい。これが崩れ始めたのは、ロケットがより大型のM-Vロケット(1997年初打ち上げ)に切り替わったあたりからである。M-Vは惑星探査機の打ち上げを念頭に開発されたが、大型化に伴いロケットも衛星・探査機も価格が上昇し、同時に予算は増えなかったことから、年1機のペースが崩れ始めたのだ。
 


減る予算を巡って理学系と工学系が離反

 それに追い打ちをかけたのは、2003年の宇宙三機関統合だった。これにより宇宙研は独立した意志決定権を持つ組織からJAXAの一本部に格下げとなり、JAXA経営企画の下に従属することとなった。統合により宇宙予算全般が削られ、しかも予算配分の決定権はJAXA経営にある。6人のJAXA理事のうちひとりは宇宙研のトップが兼任することになっているものの自主裁量の幅は大きく狭まった。

 減る予算を巡って、理学系と工学系の間に離反が発生し、研究者の数で優る理学系の衛星が優先的に計画化されるようになった。そこで使われたロジックは、「宇宙科学は、宇宙の研究が目的である。目的がまずあって、次に目的にあった道具の技術開発が必要にある」というものだった。この考え方だと、工学系の自発的な研究は抑圧されてしまう。工学系は、理学系のために道具としての技術を開発すれば良いということになってしまうのだ。

 決定打となったのは、2006年のM-Vロケット廃止である。これによりペンシルロケット以来のロケット工学研究はほぼ断絶し、一部はJAXA筑波宇宙センターに移って新型ロケット「イプシロン」(2013年度1号機打ち上げ予定)の研究に従事することになった。

 「M-Vの廃止で、かつての宇宙研は死んだ」と語るOBは多い。「自分たちの開発したロケットで、自分たちの衛星を打ち上げる」ということが、宇宙研の「理工一体」体制をを支えていた。ロケットがなくなったため、新ロケット1号機という工学系の指定席もなくなった。その一方で衛星開発は理学系が優先されたために、工学系は研究成果を宇宙空間で実証することすらままならなくなった。

 かつて、5年に1回打ち上げていた工学試験衛星は、小惑星探査を行った「はやぶさ」(2003年打ち上げ)以降7年間も途絶えており、現在も後継計画は予算化されていない。宇宙工学系の一部は予算の増額を求めて、JAXA内で月・惑星探査プログラムグループ(JSPEC)という組織を立ち上げたが、こちらも予算獲得で苦戦している。

 かろうじて今年、通常の衛星の1/10の15億円という予算で開発した小型ソーラー電力セイル実証機「イカロス」を、あかつき打ち上げのサブペイロードとして打ち上げることができた。イカロスは、世界初のソーラーセイル技術の実証を初めとした、すべてのミッションを完璧に成功させた。
 


宇宙工学こそがフロンティアを切り拓いてきた

 イカロスの成功を念頭に過去を振り返ると、積極的にフロンティアを開拓しつつミッションを成功させ、新しい宇宙観測の歴史を切り拓いてきたのは、理学系ではなくむしろ工学系であったことに気がつく。

 宇宙研は1985年以降25年間に、惑星間空間に5機の探査機を飛ばしている。最初が、ハレー彗星探査で、まず工学試験機の「さきがけ」(1985年1月8日打ち上げ)をM-3SIIロケット初号機で打ち上げた。次いで、本番のハレー彗星探査機「すいせい」(1985年8月19日打ち上げ)を打ち上げ、両探査機は1986年3月にハレー彗星に接近、観測を行った。実はこのハレー彗星探査は、ロケット大型化を目指していた宇宙工学側の提案に、理学側が乗る形で実現したものだった。

 続く探査機は、理学側の宇宙プラズマ研究者らが立ち上げた火星探査機「のぞみ」(1998年7月4日打ち上げ)である。のぞみは、98年12月に火星へ向かう軌道に投入する際、軌道変更用スラスターにトラブルが発生。その後、軌道力学を駆使して5年をかけて火星に向かう軌道に入るものの、通信機器の故障などで2003年12月、火星周回軌道投入を断念した。

 4番目が、小惑星探査機「はやぶさ」(2003年5月9日打ち上げ)である。はやぶさは宇宙工学側が、「小惑星サンプルリターン探査に必要な技術を確立する」という目的で立ち上げた探査機だった。幾多の困難を乗り越え、はやぶさは2010年6月13日に地球に帰還し、小惑星イトカワのサンプルを地球に届けた。

 5番目が今回の金星探査機あかつきだ。あかつきは、理学系の惑星科学や高層大気の研究者が立ち上げた探査機だった。

 工学系の企画した2機は成功し、理学系が企画した3機はうち1機が失敗、あかつきも失敗の瀬戸際にあるわけだ。

 理学系は、宇宙観測が目的なので、「こういうことが実現できたらこんな観測ができる」というところから探査機を発想する。しかし、理学系がいくら「こんな観測をしたい」と渇望しても、工学系が観測の基礎となる技術を研究開発できなければ、そもそも観測はできない。かつての宇宙研では、この「工学系が道具を作る」「理学系が道具を使って成果を上げる」という連携がうまく行っていた。その連携が宇宙三機関統合とM-Vロケット廃止で分断され、工学系が弱体化したことが、宇宙研の運営に影を落としていることは間違いない。

 理学系が観測に集中するあまり、潜在的な危険を探査機の設計に持ち込もうとする場合、「それをやったら危険だから、観測を妥協して安全性を高めましょう」と引き戻すのは工学系の役割である。その工学系が弱体化して、理学系のための道具を作る下働きにされてしまえば、探査機の危険度は上がるのが道理である。

 「統合後に宇宙研に来た理学系研究者の中には、自分の専門分野のための衛星搭載センサーさえ作れば、探査機本体はメーカーが作ってくれると思っている者がいる」という危惧の声もある。実際にはメーカーにも、フロンティアに出て行くための新しい技術を自前で開発する余裕はない。今までどのメーカーも、宇宙研の工学系が行う研究に参加して、技術を蓄積してきたのである。工学系が弱体化すれば、メーカーの技術もまた弱体化することになる。

 そのような状況下で、なんとか宇宙工学系の研究成果を宇宙空間で実証する方法はないかということで実現したのが、あかつきへのセラミック製スラスターの搭載だったのである。おそらく、かつてのように工学試験衛星が5年に1回打ち上げられる体制だったならば、あかつきにセラミック製スラスターは搭載されなかったろう。


事故調査を機に宇宙工学の研究体制建て直しを

 あかつきの失敗原因は、急ピッチで進むようだ。この原稿が公開される10日にも事故原因に関係する発表があるかも知れない。

 事故調査を単なる物理的な原因究明に終わらせてはいけないだろう。その背景には2003年の宇宙三機関統合と2006年のM-Vロケット廃止によって起きた、宇宙研の宇宙工学系研究の受難が横たわっている。必要なのは、糸川英夫以来の宇宙工学系の研究体制の建て直しだ。工学は確かに道具ではあるが、我々は適切な道具なくしてフロンティアに進むことはできない。 


 引用おわり
日経ビジネスONLINE ; 松浦 晋也
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著者プロフィール
 松浦 晋也(まつうら・しんや) ブログ「松浦晋也のL/D」
 ノンフィクション・ライター、科学ジャーナリスト。
 東京都出身。 宇宙作家クラブ会員。
 慶應義塾大学理工学部卒業、同大学院メディア・政策科学研究科修了。
 日経BP社にて、機械工学、宇宙開発、パソコン。通信・放送などの専門媒体で、取材と執筆を経験。
 2000年に独立し、主に航空宇宙分野での取材・執筆活動に続けている。
 BPnetにて、コラム「宇宙開発を読む」を連載した。