醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  1013号  白井一道

2019-03-01 12:10:28 | 随筆・小説



   3・1独立運動記念日の文大統領の演説
                           朝鮮中央日報日本語版より掲載させていただきます。




文大統領、三・一節演説 「親日の残滓の清算も外交も未来志向的に」
                              [中央日報/中央日報日本語版]2019年03月01日

韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が三・一節(独立運動記念日)100周年を迎え、「親日は反省すべきことであり、独立運動は礼遇されるべきことだ」とし「単純な真実が正義であり、正義が真っすぐに立つことが公正な国の始まり」と明らかにした。
文大統領は1日、ソウル光化門(クァンファムン)広場で開かれた政府中央記念式で演説し、「親日の残滓の清算はあまりにも長く続いてきた宿題」とし「歴史を正しく立て直すことこそ子孫が堂々とできる道」と述べた。続いて「今になって過去の傷に触れて分裂を起こしたり、隣国との外交で葛藤要因を作ろうということでない」とし「親日の残滓の清算も外交も未来志向的でなければいけない」と強調した。
文大統領は「日帝は独立軍を『匪賊』とし、独立活動家を『思想犯』として弾圧した。ここからパルゲンイ(=赤い奴、共産主義者)という言葉も出てきた」とし「思想犯とパルゲンイは本当の共産主義者だけに適用されたのではなかった。民族主義者からアナーキストまですべての独立活動家に烙印を押す言葉」と話した。
文大統領は「左右の敵対、理念の烙印は日帝が民族の間を引き裂くために使った手段だった」とし「解放後にも親日の清算を阻む道具になった。良民虐殺とスパイ捏造、学生の民主化運動にも国民を敵にする烙印として使われた」と語った。
続いて「今でも我々の社会で政治的競争勢力を誹謗して攻撃する道具としてパルゲンイという言葉が使われていて、変形した『セッカル(=色)論』が猛威を振るっている」とし「我々が一日も早く清算すべき代表的な親日の残滓だ」と明らかにした。
文大統領は「三・一独立運動の精神が民主主義の危機ごとによみがえった」とし「4・19革命と釜馬民主抗争、5・18民主化運動、6・10民主抗争、そしてろうそく革命を通じて、平凡な人々が各自の力と方法で我々みんなの民主共和国を築いてきた」と主張した。
文大統領は「我々は平和の韓半島(朝鮮半島)という勇気ある挑戦を始めた。変化を恐れず新しい道に入った」とし「新たな100年はこの挑戦を成功に導く100年」と強調した。
文大統領は「昨年、金正恩(キム・ジョンウン)委員長と板門店(パンムンジョム)で初めて会い、8000万人の民族の心を一つにして韓半島に平和の時代が開かれたことを世界に向けて示した」とし「9月には綾羅島(ヌンラド)競技場で15万人の平壌(ピョンヤン)市民の前で大韓民国の大統領として韓半島の完全な非核化と平和、繁栄を約束した」と振り返った。
文大統領は「韓半島の恒久的平和は多くの峠を越えてこそ確固たるものになる」とし「ベトナム・ハノイでの2回目の米朝首脳会談も、長時間の対話をして相互の理解と信頼を高めたことだけでも意味のある進展だった」と評価した。続いて「いま我々の役割がよりいっそう重要になった。わが政府は米朝と緊密に疎通して協力し、両国間の対話の完全な妥結を必ず実現させる」と明らかにした。
文大統領は「新韓半導体制」構想について「理念と陣営の時代を終えた、新しい経済協力共同体」とし「我々の終始一貫した意志と緊密な韓米連携、米朝対話の妥結と国際社会の支持を土台に、恒久的な平和体制の構築を必ず成し遂げる」と強調した。
また「韓半島で『平和経済』の時代を開いていく」とし「金剛山(クムガンサン)観光と開城(ケソン)工業団地の再開についても米国と協議する。非核化が進展すれば南北間に『経済共同委員会』を構成し、南北ともに恩恵を受ける経済的な成果を生み出せるだろう」と主張した。
さらに「韓半島の平和は南北を越えて北東アジアとASEAN、ユーラシアを包括する新しい経済成長の動力になるはず」とし「三・一独立運動の精神と国民統合で『新韓半導体制』を構築する。国民全員が力を合わせてほしい」と呼びかけた。
文大統領は「韓半島平和のために日本との協力も強化する」とし「己未独立宣言書は三・一独立運動が排他的な感情でなく全人類の共存共生のためのものであり、東洋の平和と世界の平和に進む道であることを明確に宣言した」と明らかにした。
そして「歴史を教訓にして韓国と日本が強く手を握る時、平和の時代が大きく我々に近づく」とし「力を合わせて被害者の苦痛を実質的に治癒する時、韓国と日本は心が通じ合う真の友になるだろう」と話した。

醸楽庵だより  1012号  白井一道

2019-03-01 12:10:28 | 随筆・小説



   都いでて神も旅寝の日数哉   芭蕉



句郎 この句には次のような前詞がある。「長月の末、都を立ちて、初冬の晦日ちかきほど、沼津に至る。旅館のあるじ所望によりて風流捨てがたく筆を走らす」。
華女 芭蕉がこの句を詠んだのは何年ごろのことなのかしら。
句郎 元禄四年(1691)に詠まれている。『おくのほそ道』の旅を大垣で終えた芭蕉は、その後ほぼ二年間もの間、関西各地に留まっていた。元禄4年9月28日膳所(ぜぜ)の義仲寺境内の無名庵を後にして東下の旅に出、10月29日か11月1日江戸に到着、日本橋橘町彦右衛門宅貸家に旅装を解いた。前詞からするとこの句はその旅の途次に沼津で作ったことになる。ただし、沼津通過は元禄4年10月26日頃、前詞のいうように晦日ではなかったようだ。
華女 芭蕉には支援者が何人もいたのね。
句郎 当時俳諧師は今の芸能人のような存在だったんだろうな。
華女 芭蕉はほぼ一ヶ月かけて大津・江戸間を歩いているわね。
句郎 明治初期の頃、福沢諭吉は『福翁自伝』を読むと京都・東京間を10日間ぐらいで歩いている。芭蕉の旅は、俳諧の旅だったからのんびりした旅だったのかもしれないな。正に旅は芭蕉にとっての人生そのものだった。
華女 最近聞かなくなった言葉に「水杯」という言葉が生きていた時代だったのよね。
句郎 私が子供ころだったかな。水杯という言葉を聞いた覚えがあるな。水は「清めの水」、「末期の水」などと禊の儀式に用いられてきたからな。水杯に用いた杯を割って別れの旅立ちをする。この杯を二度と使うことはない。杯を酌み交わすことはこれが最後ということを象徴することが杯を割ることだった。そのため、死地に赴く兵士の出立時など、今生の別れの覚悟の儀式としておこなわれた。それが戦前までの日本の旅立ちだった。
華女 江戸時代の町人や農民の旅立ちは水杯を酌み交す出来事だったのね。その時代に芭蕉は旅を人生にしたというだけで人々から賞賛されたのかもしれないわね。
侘助 「都いでて神も旅寝の日数哉」。芭蕉のこの句を読んで気づいたことがある。京都を芭蕉は都だと思っていたことだ。江戸は芭蕉にとっては都ではなかったということにこの句を読んで分かった。
華女 芭蕉にとって江戸は都ではなかったのね。
句郎 文化の中心は京、経済の中心は大坂だったんだろうな。文化や経済の中心が東京になるのは東京になってからなのだろう。
華女 この句に季語はあるのかしら。「都いでて神も旅寝の日数哉」。季語らしい季語がないじゃない。
句郎 「神も旅寝」が季語のようだ。
華女 「神無月」のことね。分かったわ。旧暦の十月になると神様たちは皆、出雲に集まるのよね。
句郎 旧暦十月、諸国の神々は出雲大社へと旅立つ。神様たちは男女の縁を結び給うために集まる。相談を終えた神々さまは十月晦日にそれぞれの国に帰る。もともとあった田の神が秋の収穫をもたらしたのちに山に帰るという信仰と、出雲信仰が結びついたのではないかと考えられている。
華女 芭蕉の世界には神が生きていたのね。
句郎 神や仏が芭蕉の心を支配していた。私は今、神々たちと一緒になって旅をしているという気持ちになりましたと、詠んだ句がこの句だったんじゃないのかな。
華女 神様は西に向かうのに芭蕉は東に向かって旅をしているのよね。
句郎 今、神々たちも旅の日数を思っているところだろうとね。
華女 「日数(ひかず)」と旅の途中にあることをこのように表現するところが芭蕉の手柄なのよね。
句郎 名詞で事柄の進行、途中のあることなどを表現している。
華女 名詞が最短詩形の詩を実現させたのね。