醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  1037号  白井一道

2019-03-25 17:13:34 | 随筆・小説



  イギリスのEU離脱



 資本主義経済の仕組みはイギリスに生まれ、世界中に広がっていった。資本主義の宗主国である。そのイギリスが資本主義に意義を唱え、EUからの離脱を求めている。いよいよ資本主義の黄昏から死滅に至る道を歩み始めた。
 産業革命はイギリス人民の血と汚物にまみれて実現した。産業革命は資本主義経済の仕組みを成立させ、発展させ、世界の人々の生存を脅かす第二次世界大戦、第三次世界大戦に匹敵する冷戦を引き起こした。
 第一次産業革命はイギリスの農村から始まった。中世社会の制約の弱い農村地帯から新しい産業が生れてきた。綿布生産がイギリスの当時農村地域だったマンチェスターで始まった。マンチェスターからリバプールまで鉄道ができた。マンチェスターで生産された綿布はインドに輸出され、インドの手織り綿布生産者の仕事を奪った。リバプールの奴隷商人は西アフリカの黒人を使って奴隷狩りをさせ、その奴隷をカリブ海地域の砂糖プランテーション経営者に売った。インドから輸入した紅茶にカリブ海砂糖プランテーション経営者から輸入した砂糖を紅茶に入れ、低賃金で働く労働者に綿布生産経営者は紅茶を飲ませた。イギリス産業資本家は自国人民を太陽のない街で働かせ、肺結核患者を増大させることが産業資本家の豊かな生活を実現した。イギリス産業資本家の豊かな生活を支えたのはイギリス人民であり、カリブ海プランテーションで奴隷労働をさせられた西アフリカ黒人たちだった。イギリス綿布生産の隆盛はインド綿布生産者の没落だった。イギリスの産業革命はエンクロージャー、農地を囲い込まれた結果、農村から追い出された農民たちに不幸をもたらし、インド人綿布生産者たちに不幸を、西アフリカの黒人は奴隷にされた。イギリスの栄光の裏にはインド人や西アフリカ黒人の泪があった。
 第二次産業革命もまた一部の人々を豊かにすると同時に世界中の大多数の人々に不幸をもたらした。イギリスの産業革命によって成立したのは綿布生産、すなわち軽工業であった。重工業の第二次産業革命の中心地となるのはイギリスではなくドイツとアメリカであった。重工業を成立させるためには巨大な資本を必要とする。スペインから独立したオランダは冒険心に富む商人たちの国だった。我々は海乞食、ゴイセンと名乗り、アジアとの交易によってゴイセンは巨万の富を築いた。彼らは成功報酬の株券を売り、資本を築き、インドへの交易に乗り出していた。株式会社「オランダ東インド会社」の成立である。株式会社はオランダで発明され、成立した。冒険には危険がついてまわる。危険な富の約束、これが投資である。株式会社の普及が重工業を成立させた。すなわち鉱工業、製鉄業、鉄鋼業、機械工業、発電業、造船業などの成立は株式会社の普及なしには成立しなかった。19世紀後半になるとドイツ、アメリカにおいて株式会社が普及すると第二次産業革命が進むと同時に海外での植民地獲得競争が激しくなる。植民地を持つ国々、英仏ロの三国協商を結ぶ国々と植民地の分け前を求める独墺伊の三国同盟とが戦った戦争が第一次世界大戦だった。飽くなき富の追及を求め続ける資本主義経済は一方に巨大な富を築く一方、他方には貧困を生む。第一次世界大戦は社会主義国家を出現させた。
 第二次世界大戦は第一次世界大戦とはくらべもののならないほどの被害を世界中の人々に与えた。第二次世界大戦とは、何を戦ったのかというと、それは第一次的には危険な資本主義ファシズムと民主主義的な資本主義との戦いであった。がしかし、本質は反植民地主義と社会主義を打倒することであった。資本主義経済打倒を目的とする社会主義国家の打倒、反植民地運動、中国における民族解放闘争の打倒であった。結果は社会主義国家ソ連の打倒には失敗し、また中国における民族解放闘争にも失敗という結果であった。そのため第二次世界大戦が終わるとすぐ米ソ冷戦が始まり、中国では国共内戦が始まった。
アメリカを中心にした西側は中国の社会主義化を阻止するため蒋介石の国民党を支援したが1949年に中華人民共和国が成立した。その余勢か、スターリンの野望か、1950年には朝鮮戦争が始まる。朝鮮戦争への協力を日本占領軍司令官マックァーサーに約束させられた日本政府は独立することができた。それが1951年のサンフランシスコ平和条約であった。戦後日本の保守政治家は米軍への忠誠を誓うことによって救われた人々だった。その代表者が岸信介だった。私は小学校の旅行で国会議事堂見学に行ったときに岸信介氏が私たち小学生に微笑んで手を振ってくれたことを覚えている。
 米ソ冷戦は軍拡競争の結果、ソ連は敗北した。軍拡競争はソ連社会の経済を破壊してしまった。資本主義に変わる社会主義経済の在り方がまだ出来上がっていないということが分かった。ソ連の敗北が社会主義の敗北ではない。ソ連は社会主義への道を踏み外してしまった。その結果、崩壊した。
 現代は社会主義への道を模索している時代であると同時に資本主義崩壊への道がこくこくと迫っている時代である。その一つの表れがイギリスのEU
離脱であると私は考えている。なぜならイギリス資本主義経済の存続を模索するならEU残留の道が正しい。しかしイギリス国民はEU離脱の道を選んだ。もともとEU成立過程の本質はヨーロッパの社会主義化を阻止することであった。イギリスがEUから離脱するということはイギリスの資本主義を弱める働きをするだろう。資本主義勢力が弱体化すると必然的に自由より平等を求める人々の要求が強まってくるに違いない。自由は強い者が求め、平等は弱い者が求める傾向があるから。我らは強い者だと自覚した人々だったイギリス人が自分たちは弱い者だという自覚をする時が来たということなのかもしれない。イギリスはこれからますます弱体化し、国際社会における存在感がなくなっていく道を歩むことがイギリス人の幸せの道であるとイギリス国民は考えている。大国主義から小国主義の道を歩み始めるということだと私は理解している。軍事費を大幅に削減し、身の丈に合った経済社会を築いていくならば、紆余曲折はあるだろうが、揺り籠から墓場までの福祉国家を実現し、国民が幸せに暮らせる国になっていくことだろう。

醸楽庵だより  1036号  白井一道

2019-03-25 17:13:34 | 随筆・小説



 両の手に桃と桜や草の餅   芭蕉


華女 この句を芭蕉はいつ詠んでいるのかしら。
句郎 元禄5年3月3日に詠んだと言われている。この句には次のような前詞が付いている。「富花月、草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪あり」と。
華女 桃と桜は比喩なのね。桜が門人高弟の其角、桃が門人の嵐雪ということね。
句郎 『おくのほそ道』の旅を終え、近江近辺での滞在を止め、江戸に帰ってきた。江戸の門人たちの協力を得て、第三次芭蕉庵が江戸深川に出来上がった。その真新しい芭蕉庵で芭蕉は其角、嵐雪を招き、歌仙を巻いた。その歌仙の発句が「両の手に桃と桜や草の餅」だったようだ。
華女 芭蕉は孤高の詩人というイメージがあるように思うけれども、門人を労い、一緒に人生を楽しむ一面をもった人だったように思うわ。
句郎 清水哲男氏はこの句を評して次のようなことを書いている。「季語は「桃(の花)」と「さくら(桜)」と「草(の)餅」とで、春。彩り豊かな楽しい句だ。この句は芭蕉が『おくのほそ道』の旅で江戸を後にしてから、二年七ヶ月ぶりに関西から江戸に戻り、日本橋橘町の借家で暮らしていたときのものと思われる。元禄五年(1692年)。この家には、桃の木と桜の木があった。折しも花開いた桃と桜を眺めながら、芭蕉は「草の餅」を食べている。「両の手に」は「両側に」の意でもあるが、また本当に両手に桃と桜を持っているかのようでもあり、なんともゴージャスな気分だよと、センセイはご機嫌だ。句のみからの解釈ではこうなるけれど、この句には「富花月。草庵に桃櫻あり。門人にキ角嵐雪あり」という前書がある。「富花月」は「かげつにとむ」と読み、風流に満ち足りているということだ。「キ角嵐雪」は、古くからの弟子である宝井基角と服部嵐雪を指していて、つまり掲句はこの二人の門人を誉れと持ち上げ、称揚しているわけだ。当の二人にとってはなんともこそばゆいような一句であったろうが、ここからうかがえるのは、孤独の人というイメージとはまた別の芭蕉の顔だろう。最近出た『佐藤和夫俳論集』(角川書店)には、「『この道や行人なしに秋の暮』と詠んだように芭蕉はつねに孤独であったが、大勢の弟子をたばねる能力は抜群のものがあり、このような発句を詠んだと考えられる」とある。このことは現代の結社の主催者たちにも言えるわけで、ただ俳句が上手いだけでは主宰は勤まらない。高浜虚子などにも「たばねる能力」に非凡なものがあったが、さて、現役主宰のなかで掲句における芭蕉のような顔を持つ人は何処のどなたであろうか。」
華女 芭蕉は孤高の詩人であると同時に浮世に生きる生活力と同時に企業経営者のような人を束ねる能力を兼ね備えた人だったということなのね。
句郎 芭蕉には寿貞という女性がいたと言われているしね。だから芭蕉は女の人も好きだったから女遊びもしたし、食べることも好き、世俗の世界を楽しむ一方、孤高の詩的世界に生きる人でもあった。
華女 清廉潔白、禁欲的な生活からは浮世に生きる人間の喜びや悲しみのようなものを詠むことはできないのかもしれないわ。
句郎 芭蕉は孤高の詩人であると同時に浮世を楽しみ生きる俗人でもあった。
華女 春日向、戸を開け、桃の花と桜を愛で、草餅を頬張っているのよね。ニコニコ顔の芭蕉が偲ばれるわ。
句郎 イタリアルネサンスの巨人たちは、清廉潔白な孤高の芸術家ではなかった。人間の食欲や性欲を肯定し、この世に生きる楽しみを求める人であった。享楽のドンちゃん騒ぎの中から偉大な芸術作品が生れてきた。
華女 芭蕉もまたそのような人だったのかもしれないわね。「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」という芭蕉の句は寿貞が亡くなった時に詠まれた句だと云われているのでしょ。芭蕉の女性に対する視線は優しさに満ちているように感じるわ。
句郎 芭蕉は女性にモテる男だったかもしれないな。若い男にも、友人の多い人だったように思う。だからこそ、芭蕉の句は芭蕉が亡くなっても師芭蕉の句を評価し、世に広めていった。
華女 芭蕉は生前当時の俳人たちから認められ、多くの門人に囲まれて生涯をおくった人だったのね。
句郎 亡くなった後に評価された俳人ではなかった。