醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  1030号   白井一道

2019-03-20 15:00:10 | 随筆・小説


 花にねぬ此もたぐい(ひ)か鼠の巣    芭蕉



句郎 芭蕉が何を詠もうとしているのか、全然分からない句のように感じるな。
華女 この句には、異型の句が伝わっていないのかしら。
句郎 この句の他に二つ知られているようだ。一つが「花に見る是もたぐひか鼠の巣」、もう一つが「花に寝(ぬ)たぐひか軒の鼠の巣」の二つだ。
華女 この句には前詞が付いているのじゃないのかしら。
句郎 「桜をば、など寝所にせぬぞ。「花に寝ぬ春の鳥の心よ」という前詞がある。
華女 前詞を読んでみてもこの句の理解には届かないように感じるわ。注釈書が必要ね。
句郎 三つ目の句「花に寝(ぬ)たぐひか軒の鼠の巣」には、「櫻をわきてねぐらとはせぬ、花の寝ぬ春の鳥の心歟」という前詞がある。
華女 その言葉を聞いてもこの句の理解は進まないわ。
句郎 この句を今栄蔵は「寒気ゆるんだなま温かい春の夜。巣に落ち着かず天井裏で浮かれさわぐ鼠は、これもせっかくの花を塒とせぬ、かの鶯と同類の浮気者なのか」と鑑賞している。更に「『源氏』に思いをよせて興じたと注している。
華女 『源氏物語』にヒントがある句なのね。
句郎 ネットには「ねずみの一家が天井裏で騒いでいる。外は桜花爛漫の春だというのに、それには目もくれず天井裏などで騒いでいるのはあたかも鶯が桜花をねぐらとせずにあちこちの木々を飛び回っているのと同類のようだ」と解釈している。
華女 「花にねぬ」とは、桜が咲くと木から木へと囀り飛び回る野鳥のことを言っているのね。「此もたぐい(ひ)か鼠の巣」とは、天井裏で騒いでいる鼠を言っているのね。分かってきたわ。
句郎 桜が咲き始めたころ、芭蕉庵の天井裏で騒いでいる鼠の駆ける音を芭蕉は聞いていた。
華女 芭蕉は『源氏物語』を思い出していたのね。
句郎 『源氏物語』若紫の巻で、光源氏が女三の宮以外に紫の上と不倫を続けている。「春の鳥の、桜ひとつにとまらぬ心よ、あやしと覚ゆることぞかし」とある言葉を思い出し、美しい女性を見ると次々に声かけたくなる男の気持ちを表現したくなったのかもしれないな。
華女 鼠が天井裏を走り回っている音を聞き、春の鳥、鶯が花から花へと囀りいくことを思い、『源氏物語』まで気持ちが飛んでいくということなのね。
句郎 「光源氏は鳥=鶯、女三の宮を桜に譬えたのが『花にねぬ』。句では鶯をネズミに譬えて、花ではなく天井裏にこだわるネズミを揶揄している」とネットでは解釈している人がいる。
華女 注釈があって初めて理解できるような句は残ってはいかないと思うわ。
句郎 私もそう思うな。芭蕉の句にもこのような句があるということに時代の制約ということを感じる。
華女 芭蕉もまた時代の制約の中で句を詠んでいたということよね。その中から時代の制約を潜り抜けてい句があったということよね。
句郎 逆に言うと時代や社会の制約があったからこそ、芭蕉の句が生れたということもあるように思うな。
華女 どういうことなの。時代や社会の制約ということは、その時代、その社会にいなければ伝わらないことがあるということなんでしょ。それにもかかわらず、その時代、その社会にいることによってはじめて普遍的な真実を極めることができるということは、どのようなことなのかと思ったのよ。
句郎 「夏草や兵どもが夢の跡」と言う句を平泉で芭蕉は詠んでいるでしょ。当時の江戸庶民の中に義経を讃える世論があった。このような世論の反映がこの句に結晶している。芭蕉は江戸に居住していた。この時代、この社会の中にいたことによってこの句は生まれた。この句が表現していることに普遍的な真実があるからこそ三百年後の現代社会の中にあっても広く知られている。
華女 その時代に、その社会で詠まれた句の中に後世に残っていく句と忘れ去られていく句があるということなのよね。芭蕉の句の中にも人々からいつか忘れられていく句と残っていく句があるということね。
句郎 「花ねぬ」の句は、どうかな。私は理解が難しいように感じるな。俳句は詠んですぐ分かり合える句がいいように思うけれどもね。
華女 芭蕉は『源氏物語』の愛読者であったのね。