「春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影(ゆふかげ)にうぐひす鳴くも」 大伴家持
句郎 高橋英夫は岩波新書『西行』の中で「春愁」を初めて発見したのは『万葉集』にある春愁三首を詠んだ大伴家持だと述べている。
華女 あら、春愁ということは万葉歌人が発見したことなのね。
句郎 文学者は春という季節が人間に与える精神的な影響のようなことを発見する営みをする人のことを言う。
華女 文学とは人間の精神を認識する学問のようなものなのね。
句郎 科学が自然を解明するものだとしたら人間の精神を解明するものが文学なのかもしれない。
華女 「春の野に霞たなびきうら悲し」と言われても私は悲しくならないわ。
句郎 春の野に霞がたなびいている景色を見てなぜ悲しみが湧きあがってくるのかが分からないと言うことだよね。
華女 そういうことよ。十代の後半の頃も春の野に霞がたなびいているのを見たことは何回もあったように思うけれどもその景色を見て悲しみを感じたことなんて一度もないわ。
句郎 そうだよね。「うら悲し」という言葉なんだ。明治のころ、上田敏がフランスの詩人ヴェルレーヌの『秋の歌』という詩を『落葉』と題して訳している。「秋の日のヴイオロンのためいきの身にしみてひたぶるにうら悲し」とね。
華女 ヴィヨロンとは、何なのかしら。
句郎 バイオリンのことかな。
華女 秋の日の夕暮れのもの悲しさのようなものだったら、分かるわ。
句郎 秋の夕暮れのもの悲しさは誰でもが感じるものなんだと思う。しかし春の「うら悲し」には「憂い」がある。
華女 春の「うら悲し」には憂いがあるということなのね。「憂い」とは、どんなことなのかしらね。
句郎 「憂い」とは、思うようにことが進まずつらい。苦しいということ。自分がこんなに苦しんでいるのにすやすや眠っている人を見ると憎らしく思ったりすること。 苦しんでいる人を見ると自分も心苦しく感じたりすること。自分に馴染んでくれない人がいるとつれないなと感じたり、冷たい人だと感じたりすること。 。
華女 子供が大人になっていく過程でいろいろ感じることね。
句郎 春は旅立ちの季節でしょ。子供が大人の社会に入っていくとき、なかなか周りの人々に受け入れてもらえなかったりすると悲しい思いをしたりするでしょ。
華女 それが春の愁いなの。哀しい思いに浸っていることってあったように思うわ。
句郎 ひとり春の野に霞がたなびいているのを見て物思いにひたることがあったでしょ。
華女 初恋の思いね。私の気持ちが相手に伝わらない悲しみね。家持も恋をしていたのかもしれないわね。恋しい人へ思いが伝わらないもの悲しさを味わっていたのね。
句郎 春の野に霞がたなびいている夕日の中に鶯が鳴いているのを聞いても私の気持ちは重く沈んで苦しくて苦しくてたまらないということなんじゃないのかな。
華女 でも春愁というものには甘美な思いのようなものもあるように感じるわ。
句郎 春の愁いだからね。
華女 春愁の甘美さには若さがあるということなのね。
句郎 万葉の歌人、大伴家持の歌「春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影(ゆふかげ)にうぐひす鳴くも」、「我がやどのい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕(ゆふべ)かも」「うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しもひとりし思へば」。この三首が春愁を詠んだ歌として知られている。「ひとりし思へば」と詠んでいるように春の日にひとりもの思いに沈むことが春愁かもしれない。
華女 万葉歌人のお陰で春の日の愁いを読み、自分を知ることができるのね。