雁さわぐ鳥羽の田づらや寒の雨 芭蕉
句郎 この句には異型の句が伝えられている。「雁さわぐ鳥羽の田面の寒の雨」である。
華女 「田づらや」の「や」と「田面の」の「の」の違いね。
侘助 どのような意味の違いがあるのかな。
呑助 「や」の場合は「田づら」が強調されているわ。「の」の場合は「寒の雨」が強調されているような違いがあるように思うわ。
句郎 支考と名乗る弟子が芭蕉にはいた。史考は『西華集』を著している。その著書の中で「此の句は武江にありし冬ならん、寒の雨といふ名の珍しければ、おのおの発句案じたるに、寒の字のはたらき、此の句に及びがたし」と史考は述べている。
華女 「寒の雨」という季題で発句を詠みあった時の句なのかもしれないわ。
句郎 嘱目吟ではなく、昔見た景色を思い出し詠んだ句なのかもしれない。
華女 史考さんは「雁さわぐ鳥羽の田面の寒の雨」の句が季語「寒」の本意を表現していると考えていたのかもしれないわ。
句郎 寒々さが「雁さわぐ鳥羽の田面の寒の雨」の方の句は表現されているということかな。
華女 「雁さわぐ鳥羽の田づらや寒の雨」は「雁さわぐ鳥羽の田づらは寒の雨」とも詠めるわね。でも「や」を「は」に変えると散文化するように思うわ。
句郎 単なる説明文かな。
華女 同じように「雁さわぐ鳥羽の田づらに寒の雨」とも詠めそうね。
句郎 「は」より「に」の方が更に説明的になっているように感じるわ。
華女 「雁さわぐ鳥羽の田づらが寒の雨」とも詠めるように思うわ。
句郎 いろいろな助詞を使うことができるが俳句になる助詞は何かということが難しいということなのかな。
華女 正確な描写ができているかと言うことがまず第一なのよね。芭蕉は「や」にするか、それとも「の」にするか推敲した結果、私は「の」の句にしたのではないかと思うわ。
句郎 光景が情景になっているかとどうかということなんだと思う。正確に描写された映像が情景になっているか、どうかということなんだと思う。
華女 光景が情景になった時に散文が韻文に変化するということね。
句郎 気持ちが表現されているということなのかな。
華女 風景画と同じね。人間の気持ちとか、考えとかが表現されているということなのよね。
句郎 この句は「寒の雨」を表現している句だと思う。鳥羽の田面には何もない。そこで雁が何羽か集まり、鳴き騒いでいる。きっと一匹が餌になる雁の好物を見つけたので何羽かが集まり騒ぎ出した。この田面の喧騒に寒の雨が降り注いでいる。ここに寒々感のある情景が描写された。
華女 寒の雨の無情さね。身がかじかむような寒さの上に寒の雨が降りそそいでいるのよね。
句郎 今栄蔵著『芭蕉年譜大成』によるとこの句は元禄4年11月に詠まれている。芭蕉48歳の時の句だ。「寒の雨」はまた「寒九の雨」などとも言われて、豊作の兆しだと喜ばれているからね。乾燥した寒さの中にお湿りがあったので雁も喜んでいるという解釈が成り立つかもしれないな。
華女 芭蕉円熟期の作品ね。手慣れた句という印象よ。愚管抄の著者慈円の歌「大江山傾く月の影さへて鳥羽田の面に落つる雁がね」という歌が『新古今和歌集』にあるわ。鳥羽の田に雁という光景の美に寒の雨を付け合わせたところに芭蕉の手柄があったのかもしれないわ。
句郎 凍り付いた土に雨が降りそそぐ。その土がまた凍る。雨が降っては凍った土が解け、土が少しづつ柔らかになっていく。農民にとって寒に降る雨は慈雨だった。恵みの雨だった。雁も寒の雨が降って喜んでいると農民出身の芭蕉は感じたのかもしれないな。
華女 日本人にとって雨とは、日本人の美意識を作ってきたものなのではないかと思うわ。雨についての固有名詞の数が多いのは日本語の特徴の一つなのではないかと思うわ。
句郎 芭蕉は雁が騒いでいるのは寒旱に鳥羽の田面に雨が降って雁も喜んでいると詠んだのかもしれないな。
華女 寒さに乾いた田んぼの土も雨に喜んでいると詠んだ句なのかもしれないわ。