醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  1027号   白井一道

2019-03-16 13:26:57 | 随筆・小説



   芭蕉の文体と近代日本の文体について



句郎 「醸楽庵ゼミナール」「『おくのほそ道』を読む」を月一回、地域の公民館で開き、三年間かけてこの三月に読み終えた。
華女 よく続いたものね。
句郎 楽しかったからね。参加してくれた仲間が楽しんでくれたからではないかと思う。
華女 知的な興味を刺激することができたのね。
句郎 そうであってくれればいいと思っているんだ。最後の最後に話したことは、芭蕉の文章は名文だということだった。
華女 『おくのほそ道』は日本の古典中の古典なのでしよう。だから高校の古文の授業でも教えられているわけなのよね。
句郎 『おくのほそ道』の冒頭の文章を高校生の頃、覚えた人も多いのではないかと思うな。
華女 今でも私は覚えているわ。「月日は百代の過客(かかく)にして、行き交う年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎うる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。 古人も多く 旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊の思いやまず、 海浜にさすらへ、 去年の秋、江上の破屋に 蜘蛛の古巣を払いて、やや年も暮れ、 春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物に憑きて 心を狂わせ、 道祖神の招きにあいて 取るもの手につかず、 股引の破れをつづり、笠の緒付け替えて、 三里に灸すうるより、
松島の月 先づ心にかかりて、 住める方は人に譲り、 杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、
  草の戸も 住み替る代ぞ 雛(ひな)の家
面八句(おもて・はちく)を 庵の柱に掛け置く。」この冒頭の文章は名文よね。
句郎 高校生の頃覚えた文章の記憶は忘れることなく、明確に心に刻み込まれているということかな。口調がいいからね。
華女 何が書いてあるのかもよく分からずに暗記しただけかもしれないわ。
句郎 文体は漢文の書下し文だと思う。この名文の伝統は明治時代まで大きな影響を与えていた。例えば高山樗牛の『滝口入道』の文章は名文だと昔、教わったことがある。読んでみると芭蕉の文章に通じるものがあるように思うな。
華女 『滝口入道』の文章とはどのような文章なのかしら。
句郎 『滝口入道』の冒頭の文章は次のような文章なんだ。「やがて來こむ壽永(じゆえい)の秋の哀れ、治承(ぢしよう)の春の樂みに知る由もなく、六歳(むとせ)の後に昔の夢を辿(たどり)て、直衣(なほし)の袖を絞りし人々には、今宵(こよひ)の歡曾も中々に忘られぬ思寢(おもひね)の涙なるべし」とね。漢文の書下し文の強い影響下にある文章じゃないのかな。
華女 芭蕉の文章と同じような響きが感じられる文章ね。
句郎 漢文の強い影響から抜け出るには大変だった。二葉亭四迷や森鴎外の悪戦苦闘を経て近代日本の文体ができてくるのではないかと思う。
華女 言文一致運動ね。
句郎 二葉亭四迷の小説『浮雲』のはしがきは「薔薇ばらの花は頭かしらに咲て活人は絵となる世の中独り文章而已のみは黴かびの生えた陳奮翰ちんぷんかんの四角張りたるに頬返ほおがえしを附けかね又は舌足らずの物言ものいいを学びて口に涎よだれを流すは拙つたなしこれはどうでも言文一途いっとの事だと思立ては矢も楯たてもなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先真闇まっくら三宝荒神さんぽうこうじんさまと春のや先生を頼み奉たてまつり欠硯かけすずりに朧おぼろの月の雫しずくを受けて墨摺流すりながす空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさっと書流せばアラ無情うたて始末にゆかぬ浮雲めが艶やさしき月の面影を思い懸がけなく閉籠とじこめて黒白あやめも分かぬ烏夜玉うばたまのやみらみっちゃな小説が出来しぞやと我ながら肝を潰つぶしてこの書の巻端に序するものは」。漢文の影響から抜け出るには大変だった。
華女 だらだらと一文が長いのね。
句郎 それは江戸戯作文の影響かもしれないな。
華女 森鴎外の文章は素敵よね。
句郎 『舞姫』の文章かな。「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈しねつとうの光の晴れがましきも徒いたづらなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば。
 五年前いつとせまへの事なりしが、平生ひごろの望足りて、洋行の官命を蒙かうむり、このセイゴンの港まで来こし頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新あらたならぬはなく、筆に任せて書き記しるしつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日けふになりておもへば、穉をさなき思想、身の程ほど知らぬ放言、さらぬも尋常よのつねの動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記にきものせむとて買ひし冊子さつしもまだ白紙のまゝなるは、独逸ドイツにて物学びせし間まに、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり」。
華女 とても綺麗な文語文た思うわ。