「ベルリン会談は、りッベントロップが提案した協定草案(一連の秘密協定を含む)をモロトフが持ちかえり、ソ連側で検討するということを最後の結論として、11月13日(1940年)夜、防空シェルター内でその終幕をむかえました」(「前衛」3月号204~205頁)
リッベントロップ提案の概要は、同誌203~204頁に掲載されています。 「日独伊三国政府とソ連政府との協定案」といわれるものです。その第一条は、「1940年9月27日の三国同盟において、日本、ドイツ、イタリア三国が世界的抗争とならざるようあらゆる手段によって拡大を防止し、早期世界平和の回復に努力する旨協定し、三国はこの目的を同じくしそのために努力せんとする世界各地の国民との協力を、喜んでさらに拡充する意思を表明した。 ソ連はここにソ連がこれら目的に同調し政治的に三国と協力してこの目的達成のため努力する決意あることを宣言する」と記述されています。
「協定案」が、三国同盟にソ連を引き込むことを目的としていることは明白です。 この「協定案」にスターリンはどう答えたのでしょうか。(同誌207~208頁)
「11月25日夜、モロトフはシューレンブルク大使(ドイツ)を呼んで、スターリンの回答を伝えました。 その内容は、次の通りです」
「ソ連政府は、11月13日の最終会談におけるドイツ外相の声明内容を研究した結果、次の立場をとることとなった。 『11月13日の会談において、政治的提携および相互経済援助に関してドイツ外相が概説した四カ国協定草案にたいして、ソ連政府はつぎの諸点を条件として、これを受諾する用意がある』」と回答したのです。
不破氏はこのスターリンの「受諾回答」について、次のように述べています。(「同誌」209頁)
「スターリンのこの回答は、大戦勃発以来のソ連の覇権主義外交のなかでも重大な意味をもつ、きわめて大きな転換に踏み切ったものでした。ー中略ー 今度の四カ国条約は、まったく性質が違います。 公開される条約本文だけでも、『欧州新秩序』や『大東亜共栄圏』の名で、ドイツ、イタリアと日本がそれぞれの『勢力圏』の侵略諸国家の軍事同盟の延長戦上のものであり、この侵略諸国家の軍事同盟に、ソ連が今度は公然と加わるという内容を持っていました。」
「スターリンは、世界大戦の放火人である枢軸諸国の連合に公然と加わる道を選び、そこに踏み切ったのです」
スターリンのこの決断について、不破氏は3点を指摘しています。(「同誌」210~211頁) その中で、「最大の動機」として挙げていることは次の点です。
「第三は、ヒトラーが持ち出した『世界再分割』、大英帝国の巨大な遺産の分配という構想です。 これは、イギリスが壊滅しない限り、問題にならない構想ですが、ドイツが対イギリス戦に勝利した時に、ソ連がドイツに対抗できるだけの軍事力を自分のものにしていたら、条約案で提案された取り決めが実行され、四カ国による『世界再分割』が現実のものとなる可能性は十分にあります。 そうなれば、ソ連は、南方に進出してペルシャ湾やアラビア海にいたる広大な地域を自分の勢力圏とする、しかも戦争によらず、外交的手段だけでそれを得ることができるのです」
「スターリンをドイツや日本との侵略国家同盟に踏み切らせた動機の最大のもは、やはりここにあったのかもしれません。 いずれにしても、ヒトラーは、領土・勢力圏の拡大への果てしない欲望という、覇権主義者スターリンの弱点を見事に射当てたのでした」
ヒトラーは、スターリンの回答を受けて3週間後の1940年12月18日、対ソ戦争「バルバロッサ作戦」の準備命令を発令しました。 (「同誌」211~215頁)
不破氏は、「こうして、1940年11月から41年6月までの間、一方では、ヒトラーが、謀略的な欺瞞作戦の陰で、対ソ戦の軍事的準備を着々と進行させる、他方では、スターリンが、四カ国同盟の結実を期待して、そのための政治的準備に熱中する、こういう二面的な過程がほぼ7カ月にわたって展開されたのでした」と述べています。
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