宮応かつゆきの日本改革ブログ

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「スターリン秘史―第28章 1950年(上)」”日本共産党批判をスターリンが執筆した”

2015年05月07日 | 綱領関連

 2015年4月執行のいっせい地方選挙が終了しました。 3月13日以来、約2か月ぶりのブログとなりました。 日本共産党はすでにご存知のように県議選では、6名の議席を獲得することができました。大和市区のくぼ 純さんは議席獲得にはいたりませんでしたが、10622票獲得し、4年後の議席獲得にむけて大きな足場をつくっていただきました。また、後半戦の大和市議選では1議席増の4議席獲得、全員2千票以上、合計8700票を獲得し、7人を擁立した自民党を上回る得票増、得票率を果たすことができました。 支持者、有権者のみなさんに心から感謝申し上げます。新市会議員団は公約実現に向けて決意を新たにしています。 引き続き、みなさんのご支援をお願いします。

 不破さんの「スターリン秘史ー巨悪の成立と展開」は28章に進み、「1950年(上)」が始まりました。 日本共産党にとって、また、戦後の日本の政治史の上で、「1950年問題」はまだ未解明の部分があると言われてきました。 この大問題がどのような事実によって解明されるのでしょうか。

 「第28章」は、1949年12月6日北京を出発し、50年2月17日までに及んだ毛沢東の訪ソとスターリンとの会談内容がドキュメンタリー映画をみるような緊張感をもって紹介されています。 この毛沢東とスターリンとの初めての出会いと会談結果が、どのように日本共産党に及んでくるのでしょうか。

 「50年1月初めに、中国との同盟関係締結の交渉を軌道に乗せたスターリンは、いよいよ、アジア『第2戦線』構築にむけた布石の作業に手をつけはじめました。1月7日、日本向けモスクワ放送は、コミンフォルム機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』1月6日付に掲載された論評『日本の情勢について』を繰り返し放送しました」(「前衛」誌5月号209頁)

 このことに関しての、不破さんの回想が紹介されています。

  不破さんは、「論評が発表された当時は、渦中にある立場で、なかなか深読みすることができませんでしたが、いま読んでみると、スターリンがこの論評に込めた狙いのいくつかがあらためて浮き上がってきます」(「同誌」210頁)

 以下、不破さんのこの時点での「指摘」を紹介します。

 「結局、スターリンは、野坂理論批判に名を借りて、武装闘争不可避論を、そのなかにすべりこませていたのでした。 この批判を受けて、日本共産党中央がただちに統一した見解をもてず、一種の混乱状態に陥ったのを見て、中国共産党は、1月17日付『北京人民日報』に論説『日本人民解放の道』を発表して、論評を受け入れるよう日本共産党に呼びかけました。その論調の重要な特徴は、議会を通じての政権獲得という考えそのものを正面から否定し、武力革命以外に革命勝利の道はないという立場を、いかなる場合にもゆるがせにしてはならないマルクス・レーニン主義の根本原則として宣言したところにありました」(「同誌」211~212頁)

 「この路線転換にあたっては、日本共産党の非合法化ということは、武装闘争に入る以前の先行条件として、スターリンがすでに予定していたことでした。日本を占領している占領軍の司令官マッカーサーは、コミンフォルム論評に先んじて50年元旦の声明で強烈な反共路線を打ち出していた人物でした。彼が率いるアメリカ占領軍が、コミンフォルム論評に刺激されて、日本共産党への弾圧などの強硬手段に出れば、非合法状態への移行から武装闘争へと進む筋書もより容易に推し進めることができるようになる―スターリンなどの干渉者の側にこういう打算があったということも、決してありえないことではないように思います」(「同誌」213~214頁)

 「実際、日本共産党への弾圧は、朝鮮戦争の開始よりも早く、50年6月6日に中央委員会への公職追放令として発動され、これに呼応して、徳田・野坂分派による党機関の乗っ取りと分裂工作が展開され、非合法活動と武装闘争への道に急速に踏み込んでいったのでした」(「同誌」214頁)

 

 


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