いちども見舞いにいかなかった
あなたが泣かなかったから
わたしは泣けなかった
さんどの手術
すぐに はいる電話
(おわったよ まだ生きてる
わたしにできたことは
あなたを笑わせる 駄文をかくことだけ
あなたは、それに
応えた
まいとし 実家へもどると
たがいに
あった あなたの家
(あと数ヶ月といわれました
あなたのおかあさんの言葉をこらえ
わらいあった
あなたは無人駅のホームに送ってくれ
(この電車きたないのよ
たれながし
ほら 紙がおちているでしょう?
が最後の会話
「おはずかしい て がふるえて」
が最後の賀状
最後まで
あなたは、わたしに
応えた
だから
決めたのだ
二月 寒風の吹く高台に土葬される
あなたに わたしも、
土をかけた
あれから十五年
あれ 以来
わたしは 泣かない
泣くことを わすれた
H16.2.1
*
長くながく逢いたきものを
あかときの夢にみぢかく顕ちし亡き娘よ
篠原昭枝
付記
彼女が亡くなる36才迄、彼女は私の親友でした。
最初、乳首が変色したと皮膚科へ3年、通いました。
素人なので、分かりませんが、最初は皮膚癌だったのではと思います。
3年後に検査すると、乳癌が判明し、手術。
後、首にしこりがあると、東京の医師に訴えましたが(気のせいです)と却下され、
その1年後に、その医師は頸部癌だと述べたのです。
全ての判断が遅く。
彼女は、頸部手術後、頭部手術をしましたが、その後癌は全身に。
彼女は、身内がどんなに止めても、最後迄、仕事を続けました。
私には、一切、泣き言は言いませんでした。
これが、千曲乙女か、と感じたのを記憶します。
彼女は、二人の子を成し、二人は無事に育ちました。
(お母さん、必ず、返るからね)彼女の言葉です。