今日の午後、東地区学習センターで「史話の会」10月例会を開いた。
「神武東征の真相」というのが今日のテーマである。
【第21代雄略天皇からは確実な存在】
神武東征を史学会では全く認めていない。雄略天皇からは史実だろうというのが日本史学会の定説であり、それ以前の天皇系譜は眉唾だというのである。
確かに、雄略天皇以前の天皇の紀年は飛び飛びでしかない。例えば仁徳天皇は治世は87年としながら、実際に事績の記事があったのは27年分でしかない。明らかに治世の期間を引き延ばしている。この傾向は仁徳の子とされる履中、反正、允恭まで引き継がれている。
ところが雄略天皇になると紀年の飛びは見られず、治世23年の全てにわたって事績が記されている。雄略天皇の治世は23年として間違いはない。
このことと、崎玉古墳群から出土した太刀に刻まれた「由緒書き」と、熊本県玉名市の江田船山古墳から発見された太刀に刻まれた「由来書き」の発見は、雄略天皇(ワカタケル大王)治世の時代状況を如実に示していた。
雄略天皇の時代になって、日本列島はようやく北海道を除く全土にわって天皇の統治が行われるようになったようである。
この点に関しては史学会のお墨付きが得られ、雄略天皇こそ大和の統一王権として確実(史実)であろう――となった。
ただ雄略の統一王権すなわち中央集権的な統治は、この後も続くかと思えば残念ながらそうは行かなかった。
雄略が余りにも一族の有力者を廃絶したため、その反発が天皇家をゆるがしたのである。
この点に関して詳しくは「記紀点描シリーズ」で書くことにする。
【天津日継と邪馬台国】
倭人がいつから「天」を知ったのだろうか?
天とは地上に対する概念で、地上は有為転変極まりないが、天は変わらない。中国では「快刀乱神を語らず」という言い回しがあり、「天」の存在は確固としたものではなかった。あくまでも中心は人間であった。
天という概念を取り入れたのは、毎日天を仰いで気候を占う農耕民ではなく、航海民、すなわち交易のために、しきりに朝鮮半島を訪れて、鉄資源の開発や加工に取り組んでいた水運事業者であったろう。
半島では魏志倭人伝の頃(180年~240年)に、大量の避難民が大陸から押し寄せていた。その中には漢籍に通じた者がいたはずで、交易業者は彼らとも否応なしに交流があった。「門前の小僧習わぬ経を読む」のことわざを挙げるまでもないが、慣れ親しんでいるうちに自ずから中国語と漢文に不自由しなくなったのだろう。
このように、中国の「天」を倭人は「あま・あめ」という概念に使用したわけだが、その最初の使用者は先進文化に触れていた航海民であったというのが私の考えである。
「天御中主」、「天照大神」、「天津日継」というように倭人は「天」をすべて倭語である「あま・あめ」を当てている。航海民にとって海は「天」でもあったから、「海人(ウミンチュ)」も「あま」と呼ばれた。
倭人は「天」を中国から学びながら、独特の使い方を編み出した。
それは「天津日」であり、「天津日継」である。
聖(ひじり)の語源は「日知り」であり、日の運行(暦)を知っているのは聖人たる統治者の資格だが、「日」そのものはどう表現したらよいだろうか。
その「極聖」というべき日(太陽)の威力を地上に留めておきたいという人間の心理的欲求の表れが、「天津日継」なのである。
「日」はまた「穂」にも通じている。秋に収穫したモミ(稲穂)を次の年の春にまくと芽が出て、春夏の成長、生殖を経て再びモミ(穂)になる。この循環を「穂継ぎ」とすれば、農夫にも「日継ぎ」は理解可能となる。
それゆえ、「天津日継」の概念は大方の支持を得て違和感なく定着したのだろう。
また、「邪馬台国」という国名は、当時の中国人史家・陳寿が倭人の発音を捉えて中国人なりに漢字を当て嵌めたのだが、倭人としては次のように発音したのではないかと思っている。
(女王卑弥呼の国は)「天津日継ぎのヒメミコのおわします国」と。
これをローマ字化すると、<amatu-hitugi-no-himemiko-no-owasimasu-kuni> となる。
これを聞いた中国人は、先頭の母音始まりは発音しにくいので「Y」を付けて、「Yamatu-hitugi」(ヤマツヒ)と発音した。これが「邪馬台」となり国名が「邪馬台国」になったと思われる。
つまり邪馬台国女王のヒミコは太陽神アマテラスオオカミを身に降ろせるほどの大巫女だった、ということに他ならない。
(※卑弥呼は247年頃に魏の使いが狗奴国との争乱を鎮めようと「黄幢(錦の御旗)」をもたらした際に、おそらく自死だと思うのだが、亡くなり、その後を継いだのが13歳のトヨであった。このトヨは266年以後に狗奴国の攻略にあって豊前の宇佐に逃れ、「トヨスキイリヒメ」(豊の城に入ったヒメ)と呼ばれ、崇神天皇時代に大和に招聘されて伊勢神宮に奉仕したと思われる。卑弥呼同様、大巫女であったのだ。)
「神武東征の真相」というのが今日のテーマである。
【第21代雄略天皇からは確実な存在】
神武東征を史学会では全く認めていない。雄略天皇からは史実だろうというのが日本史学会の定説であり、それ以前の天皇系譜は眉唾だというのである。
確かに、雄略天皇以前の天皇の紀年は飛び飛びでしかない。例えば仁徳天皇は治世は87年としながら、実際に事績の記事があったのは27年分でしかない。明らかに治世の期間を引き延ばしている。この傾向は仁徳の子とされる履中、反正、允恭まで引き継がれている。
ところが雄略天皇になると紀年の飛びは見られず、治世23年の全てにわたって事績が記されている。雄略天皇の治世は23年として間違いはない。
このことと、崎玉古墳群から出土した太刀に刻まれた「由緒書き」と、熊本県玉名市の江田船山古墳から発見された太刀に刻まれた「由来書き」の発見は、雄略天皇(ワカタケル大王)治世の時代状況を如実に示していた。
雄略天皇の時代になって、日本列島はようやく北海道を除く全土にわって天皇の統治が行われるようになったようである。
この点に関しては史学会のお墨付きが得られ、雄略天皇こそ大和の統一王権として確実(史実)であろう――となった。
ただ雄略の統一王権すなわち中央集権的な統治は、この後も続くかと思えば残念ながらそうは行かなかった。
雄略が余りにも一族の有力者を廃絶したため、その反発が天皇家をゆるがしたのである。
この点に関して詳しくは「記紀点描シリーズ」で書くことにする。
【天津日継と邪馬台国】
倭人がいつから「天」を知ったのだろうか?
天とは地上に対する概念で、地上は有為転変極まりないが、天は変わらない。中国では「快刀乱神を語らず」という言い回しがあり、「天」の存在は確固としたものではなかった。あくまでも中心は人間であった。
天という概念を取り入れたのは、毎日天を仰いで気候を占う農耕民ではなく、航海民、すなわち交易のために、しきりに朝鮮半島を訪れて、鉄資源の開発や加工に取り組んでいた水運事業者であったろう。
半島では魏志倭人伝の頃(180年~240年)に、大量の避難民が大陸から押し寄せていた。その中には漢籍に通じた者がいたはずで、交易業者は彼らとも否応なしに交流があった。「門前の小僧習わぬ経を読む」のことわざを挙げるまでもないが、慣れ親しんでいるうちに自ずから中国語と漢文に不自由しなくなったのだろう。
このように、中国の「天」を倭人は「あま・あめ」という概念に使用したわけだが、その最初の使用者は先進文化に触れていた航海民であったというのが私の考えである。
「天御中主」、「天照大神」、「天津日継」というように倭人は「天」をすべて倭語である「あま・あめ」を当てている。航海民にとって海は「天」でもあったから、「海人(ウミンチュ)」も「あま」と呼ばれた。
倭人は「天」を中国から学びながら、独特の使い方を編み出した。
それは「天津日」であり、「天津日継」である。
聖(ひじり)の語源は「日知り」であり、日の運行(暦)を知っているのは聖人たる統治者の資格だが、「日」そのものはどう表現したらよいだろうか。
その「極聖」というべき日(太陽)の威力を地上に留めておきたいという人間の心理的欲求の表れが、「天津日継」なのである。
「日」はまた「穂」にも通じている。秋に収穫したモミ(稲穂)を次の年の春にまくと芽が出て、春夏の成長、生殖を経て再びモミ(穂)になる。この循環を「穂継ぎ」とすれば、農夫にも「日継ぎ」は理解可能となる。
それゆえ、「天津日継」の概念は大方の支持を得て違和感なく定着したのだろう。
また、「邪馬台国」という国名は、当時の中国人史家・陳寿が倭人の発音を捉えて中国人なりに漢字を当て嵌めたのだが、倭人としては次のように発音したのではないかと思っている。
(女王卑弥呼の国は)「天津日継ぎのヒメミコのおわします国」と。
これをローマ字化すると、<amatu-hitugi-no-himemiko-no-owasimasu-kuni> となる。
これを聞いた中国人は、先頭の母音始まりは発音しにくいので「Y」を付けて、「Yamatu-hitugi」(ヤマツヒ)と発音した。これが「邪馬台」となり国名が「邪馬台国」になったと思われる。
つまり邪馬台国女王のヒミコは太陽神アマテラスオオカミを身に降ろせるほどの大巫女だった、ということに他ならない。
(※卑弥呼は247年頃に魏の使いが狗奴国との争乱を鎮めようと「黄幢(錦の御旗)」をもたらした際に、おそらく自死だと思うのだが、亡くなり、その後を継いだのが13歳のトヨであった。このトヨは266年以後に狗奴国の攻略にあって豊前の宇佐に逃れ、「トヨスキイリヒメ」(豊の城に入ったヒメ)と呼ばれ、崇神天皇時代に大和に招聘されて伊勢神宮に奉仕したと思われる。卑弥呼同様、大巫女であったのだ。)