【住吉仲(スミノエナカツ)皇子の反逆と近習の隼人】
夫の仁徳天皇の浮気に嫉妬したまま高津宮には帰らず、さりとて自分の実家である南葛城の高宮にも戻らず、山背の筒城に仮宮を建てて時を過ごし、ひっそりとこの世を去ったのは皇后のイワノヒメ(磐之媛)であったが、皇后は4人の皇子を産み、そのうち3人が相継いで天皇になった。
天皇の皇統譜を見ても、同母兄弟が3人も天皇になるというのは珍しいことで、イワノヒメの面目躍如だろう。しかし生前であればまさに大殊勲となったのだが、あいにく皇后の死後のことであったから哀惜の方が先に立つ。
イワノヒメが産んだのは、イザホワケ皇子(17代履中天皇)、スミノエナカツ皇子、ミズハワケ皇子(18代反正天皇)、オアサヅマワクゴスクネ皇子(19代允恭天皇)で、二番目のスミノエナカツ皇子以外はみな即位している。
スミノエナカツ(住吉仲)皇子が天皇になれなかったのは、長子のイザホワケに代わって天皇位に就こうと反逆を企てたからである。
履中天皇の即位前紀にはその経緯が詳しく載せられているのだが、この時にはじめて「隼人某」として具体的な隼人が登場する。
その名は古事記では「曽婆加里(そばかり)」、書紀では「刺領巾(さしひれ)」と書かれ、スミノエナカツ皇子の近習(側近)であった。
書紀ではクロヒメをめぐって「恋の鞘当て」が生じ、ともに殺意が生まれた挙句の「スミノエ皇子の反逆」とされているのだが、古事記ではその描写はなくただ早く天皇になりたいというスミノエ皇子の執心が原因だとしている。
その是非についてはここでは問題にせず、隼人がこの事件の解決に一役買いながら、結局は不忠だとして殺されてしまうというストーリーを取り上げたい。
事件の描写は、イザホワケ(履中)がスミノエ皇子の反逆を知って、三番目のミズハワケ(反正)にスミノエ皇子の殺害を依頼することから始まる。
ミズハワケはスミノエ皇子のいる難波に行き、皇子の側近のソバカリを「うまくいったら、お前を大臣に取り立てる」とそそのかし、主人のスミノエ皇子を殺害させるのに成功する。
そしてイザホワケのいる大和へ上る途中で一泊して宴を開き、「ソバカリ大臣就任」の祝宴の中で、大きな盃に注いだ酒をソバカリに仰ぐように飲ませたまさにその時に、ソバカリの首を切り落として殺害する。
ソバカリが天皇位を狙って反乱を起こしたスミノエ皇子を殺害したのは大いなる殊勲だが、スミノエ皇子は直前までソバカリの主人であった。それは主人殺しという不忠極まりない犯罪である。だから生かしておくわけにはいかない――というのだ。
結局、隼人はまんまと騙されたのである。
そのあとイザホワケ皇子は大和の磐余の稚桜(わかさくら)宮において即位する。不可解なのが、この磐余の稚桜宮である。この宮は実は神功皇后が建てた宮なのである。
神功皇后は稚(若)桜宮を宮殿とし、子の応神天皇は軽の明宮(かるのあきらのみや)を宮殿とし、子の仁徳天皇は難波の高津宮を宮殿としたのだが、代替わりごとに宮殿(皇居)を変えるのは当時の皇室の慣例であった。だがしかし、3代前の皇居を再び皇居とするのは前例がない。
これの意味するところは先祖の宮殿に入ったということではなくして、仁徳王権とは別仕立てであった南九州を勢力の本拠地とした応神王権の大和における根拠地を言わば「差し押さえ」たのである。
つまり応神王権との決別を象徴しているのだ。
南九州に本拠地のある隼人の一族のひとりであるソバカリの処遇、すなわち仕えた主人を裏切って殺害し、そのことで逆に「主人殺しの不忠者」として断罪されたという説話も、南九州を本貫とする武内宿祢の後継である応神王権没落の象徴である。
このことで想起するのは景行天皇の「クマソ征伐」説話だ。
景行天皇は南九州に親征した時に、クマソの豪族である「厚鹿文(アツカヤ)・狭鹿文(サカヤ)」を征伐する手段としてアツカヤの娘を使って親を殺害させるのだが、「親を裏切った不忠者」として娘を殺してしまう。この説話とそっくりだということに気付かされるのだ。
上代はこのように内通者によって敵を征伐するのが常套手段だったのだろうか。斉明天皇の時代にも、有間皇子(ありまのみこ)が反旗を翻したとして誅殺されるという事件があったが、蘇我の赤兄(そがのあかえ)が有間皇子の反逆の意志を引き出した内通者(スパイ)だったという事例があった。
【近習隼人「曽婆加里」と「刺領巾」】
南九州が本拠地である隼人が、初めて大和の天皇家に仕えるというこの記事をどう捉えたらよいのだろうか?
残念ながら記紀にはその由来が記されておらず、いきなりスミノエ皇子の近習(側近)として登場する。
南九州人を隼人と書くのも初めてなら、天皇家の皇子の側近として描かれるのも初めてである。(※ニニギノミコトの3人の皇子のうちホデリノミコトが「隼人の祖」と割注されているが、これは天武朝以後の記紀編纂時点において時代をさかのぼらせた注釈である。)
私見ではこの隼人という名辞は、天武天皇時代に史実として描かれている「大隅隼人」「阿多隼人」の「隼人」を、履中天皇時代にさかのぼらせて使用したものと考えている。応神天皇の「大隅宮」の「大隅」も同じ援用であろう。
したがってこの「隼人」は、本来なら「(南九州の)曽人」と書くべきなのである。
隼人という名辞は、斉明天皇時代に行われた百済救援の半島出兵、つまり新羅・唐連合軍との戦い(白村江戦役)で完敗を喫したことによる九州の水軍の没落が反映している。
どういうことかと言えば、九州水軍の一大勢力であった南九州の水軍(鴨族)が戦敗によって著しく勢力を落とした上に、敗戦の「戦犯」扱いされることになった。要するに「賊軍」となったわけである。
その結果、勢力を温存した仁徳王権とそれを引き継いだ履中王権のもとで、南九州に本拠を持つ人間は「隷属」する他なかった。ソバカリ(サシヒレ)はそういった過去を持つ武人だったのであろう。
ただ、賊軍化したとはいえ南九州の曽人は、かつて神武王権(私見では投馬国王権)を開いたことのある由緒ある家柄でもある。しかも軍人として歴戦を経ており、胆力や霊力があると信じられていた。「隼」とは、四神思想上の南を守護する「朱雀(すざく)」に匹敵し、さらに「素早い」という属性を加味して名付けられた。したがって「隼人」は南九州の曽の武人にふさわしい名辞だったと言える。
ところで、同じスミノエ皇子に仕えた隼人の名が、古事記では「ソバカリ」と書かれ、書紀では「サシヒレ」と書かれたのはなぜだろうか?
実はこの2種の名は同じことを表しているのである。
まず古事記の「ソバカリ」だが、これは「ソバ」と「カリ」に分けられる。「カリ」の方から言うと、話は天孫降臨神話の中の「葦原中国の平定」の場面から始める必要がある。
高天原から皇孫を降下させる前に、先遣隊として「天菩比神」と「天若日子(アメノワカヒコ)」とを下して交渉させようとしたのだが、大国主の娘下照姫を妻にしたアメノワカヒコは8年たっても高天原に帰って来なかったので、天佐具売(アメノサグメ)という雉を遣わして帰りを慫慂しようとしたのだが、逆に雉は殺されてしまい、そのためワカヒコ自身も「返し矢」に当たって死ぬ。
そのアメノワカヒコの葬儀にやって来たのがオオクニヌシの子のアジシキタカヒコネで、この人はワカヒコにそっくりだったので皆が「ワカヒコが生き返った」と大騒ぎになった。だが、タカヒコネは「冗談じゃない、死人と間違うなんて!」と怒り、下げていた刀で喪屋を切り倒してしまう。
この時に使った太刀を古事記では「大量(オオハカリ)」と言った。この漢字ではよく分からないが、書紀ではこれを「大葉刈」と書いているので、「カリ」とは「刈る物」すなわち刀剣のことだと判明する。
そこで後回しになった「ソバ」だが、これは「側(そば)」の意であろう。そこで「ソバカリ」とは「カリ(刀剣)を側(そば)に持つ者」と解釈できる。
では書紀の「サシヒレ」はどう解釈できるだろうか。
これは「サシ」と「ヒレ」とに分けられる。「サシ」は「刺」と漢字が当てられており、これは「差す」と同義で、「武士が刀を差す」という時の「差す」に違いない。
「ヒレ」は漢字では「領巾」と当てられているので、何か「頭から肩にかけて被るもの(布)」というイメージだが、それでは「刺す」という感じとマッチしない。
ところで古事記の応神天皇記には、アメノヒボコ(天之日矛)の説話が載っている。書紀では垂仁天皇時代のことになっているのだが、今ここでは詮索せず、そのアメノヒボコが半島から招来したという「八種の神宝」が紹介されているのだが、それは、
<珠(たま)二貫(ふたつら)。また、浪振る領巾、浪切る領巾、風振る領巾、風切る領巾。また、奥津鏡、辺津鏡、併せて八種なり。>
というものであった。玉が2種、領巾が4種、そして鏡が2種である。
この中で「領巾(ヒレ)」の4種が注目される。浪(波)と風を振ったり、切ったりする神宝なのだが、振るは確かに「布を振る」というイメージだが、「切る」方はどうだろうか。
参照すべきは日本書紀のアメノヒボコの渡来伝説で、書紀ではヒボコが招来した神宝は七種であり、内訳は玉が3種、刀1種、矛1種、そして鏡1種、神具1種であった。(垂仁天皇3年3月条)
これを見ると布製の領巾は無い。玉と刀(矛)と鏡、および神具である。上の古事記の「八種の神宝」には、ここにはある「刀・矛」という太刀・剣の類が無いことに気付かされる。
そうなると領巾(ヒレ)は布製の被り物ではなく、太刀・剣のことではないかと思わざるを得ない。「(波や風を)切る」という表現は、確かに刀剣の類に似合う。
以上から「サシヒレ」とは「ヒレ(刀剣)をサシ(差し)ている者」というイメージになる。
さて、先の「ソバカリ」は「カリ(刀)を側に持つ者」であり、後の「サシヒレ」は「ヒレ(刀剣)をサシ(差し)ている者」と解釈でき、同義であることが判明する。つまりは同一人物なのだが、古事記と日本書紀で見た目(聞いた音)でなぜこのような違いが生じたのかは今のところ、原史料上で違っていたのだとする他ない。
【結語】としては次のようである。
隼人という名辞が特定の人物として登場したのは履中天皇時代だが、これは天武天皇以降の記紀の編纂時代にできた「南九州の曽人=隼人」を過去に(履中時代にまで)さかのぼらせた使用であり、正確には「南九州曽人」とすべきである。
また古事記では「ソバカリ」、書紀では「サシヒレ」と書くスミノエ皇子の近習は、「刀剣を身に帯びて仕える者」という意味である。(※後世の「帯刀(たてわき・たちはき)」がこれに近い身分上の名称である。また横綱の土俵入りの時に近侍する「太刀持ち」も同じ概念だろう。)
「南九州の曽人」が仁徳王権(仁徳・履中・反正・允恭・・・)時代に皇族の近習として仕えたのは、南九州を本拠地として九州一円を支配し、三韓(半島南部の馬韓・弁韓・辰韓)まで勢力圏とした武内宿祢の後継である応神王権が、半島出兵の負荷によって疲弊し劣勢になったため、仁徳王権の配下に入ったからと考えられよう。
夫の仁徳天皇の浮気に嫉妬したまま高津宮には帰らず、さりとて自分の実家である南葛城の高宮にも戻らず、山背の筒城に仮宮を建てて時を過ごし、ひっそりとこの世を去ったのは皇后のイワノヒメ(磐之媛)であったが、皇后は4人の皇子を産み、そのうち3人が相継いで天皇になった。
天皇の皇統譜を見ても、同母兄弟が3人も天皇になるというのは珍しいことで、イワノヒメの面目躍如だろう。しかし生前であればまさに大殊勲となったのだが、あいにく皇后の死後のことであったから哀惜の方が先に立つ。
イワノヒメが産んだのは、イザホワケ皇子(17代履中天皇)、スミノエナカツ皇子、ミズハワケ皇子(18代反正天皇)、オアサヅマワクゴスクネ皇子(19代允恭天皇)で、二番目のスミノエナカツ皇子以外はみな即位している。
スミノエナカツ(住吉仲)皇子が天皇になれなかったのは、長子のイザホワケに代わって天皇位に就こうと反逆を企てたからである。
履中天皇の即位前紀にはその経緯が詳しく載せられているのだが、この時にはじめて「隼人某」として具体的な隼人が登場する。
その名は古事記では「曽婆加里(そばかり)」、書紀では「刺領巾(さしひれ)」と書かれ、スミノエナカツ皇子の近習(側近)であった。
書紀ではクロヒメをめぐって「恋の鞘当て」が生じ、ともに殺意が生まれた挙句の「スミノエ皇子の反逆」とされているのだが、古事記ではその描写はなくただ早く天皇になりたいというスミノエ皇子の執心が原因だとしている。
その是非についてはここでは問題にせず、隼人がこの事件の解決に一役買いながら、結局は不忠だとして殺されてしまうというストーリーを取り上げたい。
事件の描写は、イザホワケ(履中)がスミノエ皇子の反逆を知って、三番目のミズハワケ(反正)にスミノエ皇子の殺害を依頼することから始まる。
ミズハワケはスミノエ皇子のいる難波に行き、皇子の側近のソバカリを「うまくいったら、お前を大臣に取り立てる」とそそのかし、主人のスミノエ皇子を殺害させるのに成功する。
そしてイザホワケのいる大和へ上る途中で一泊して宴を開き、「ソバカリ大臣就任」の祝宴の中で、大きな盃に注いだ酒をソバカリに仰ぐように飲ませたまさにその時に、ソバカリの首を切り落として殺害する。
ソバカリが天皇位を狙って反乱を起こしたスミノエ皇子を殺害したのは大いなる殊勲だが、スミノエ皇子は直前までソバカリの主人であった。それは主人殺しという不忠極まりない犯罪である。だから生かしておくわけにはいかない――というのだ。
結局、隼人はまんまと騙されたのである。
そのあとイザホワケ皇子は大和の磐余の稚桜(わかさくら)宮において即位する。不可解なのが、この磐余の稚桜宮である。この宮は実は神功皇后が建てた宮なのである。
神功皇后は稚(若)桜宮を宮殿とし、子の応神天皇は軽の明宮(かるのあきらのみや)を宮殿とし、子の仁徳天皇は難波の高津宮を宮殿としたのだが、代替わりごとに宮殿(皇居)を変えるのは当時の皇室の慣例であった。だがしかし、3代前の皇居を再び皇居とするのは前例がない。
これの意味するところは先祖の宮殿に入ったということではなくして、仁徳王権とは別仕立てであった南九州を勢力の本拠地とした応神王権の大和における根拠地を言わば「差し押さえ」たのである。
つまり応神王権との決別を象徴しているのだ。
南九州に本拠地のある隼人の一族のひとりであるソバカリの処遇、すなわち仕えた主人を裏切って殺害し、そのことで逆に「主人殺しの不忠者」として断罪されたという説話も、南九州を本貫とする武内宿祢の後継である応神王権没落の象徴である。
このことで想起するのは景行天皇の「クマソ征伐」説話だ。
景行天皇は南九州に親征した時に、クマソの豪族である「厚鹿文(アツカヤ)・狭鹿文(サカヤ)」を征伐する手段としてアツカヤの娘を使って親を殺害させるのだが、「親を裏切った不忠者」として娘を殺してしまう。この説話とそっくりだということに気付かされるのだ。
上代はこのように内通者によって敵を征伐するのが常套手段だったのだろうか。斉明天皇の時代にも、有間皇子(ありまのみこ)が反旗を翻したとして誅殺されるという事件があったが、蘇我の赤兄(そがのあかえ)が有間皇子の反逆の意志を引き出した内通者(スパイ)だったという事例があった。
【近習隼人「曽婆加里」と「刺領巾」】
南九州が本拠地である隼人が、初めて大和の天皇家に仕えるというこの記事をどう捉えたらよいのだろうか?
残念ながら記紀にはその由来が記されておらず、いきなりスミノエ皇子の近習(側近)として登場する。
南九州人を隼人と書くのも初めてなら、天皇家の皇子の側近として描かれるのも初めてである。(※ニニギノミコトの3人の皇子のうちホデリノミコトが「隼人の祖」と割注されているが、これは天武朝以後の記紀編纂時点において時代をさかのぼらせた注釈である。)
私見ではこの隼人という名辞は、天武天皇時代に史実として描かれている「大隅隼人」「阿多隼人」の「隼人」を、履中天皇時代にさかのぼらせて使用したものと考えている。応神天皇の「大隅宮」の「大隅」も同じ援用であろう。
したがってこの「隼人」は、本来なら「(南九州の)曽人」と書くべきなのである。
隼人という名辞は、斉明天皇時代に行われた百済救援の半島出兵、つまり新羅・唐連合軍との戦い(白村江戦役)で完敗を喫したことによる九州の水軍の没落が反映している。
どういうことかと言えば、九州水軍の一大勢力であった南九州の水軍(鴨族)が戦敗によって著しく勢力を落とした上に、敗戦の「戦犯」扱いされることになった。要するに「賊軍」となったわけである。
その結果、勢力を温存した仁徳王権とそれを引き継いだ履中王権のもとで、南九州に本拠を持つ人間は「隷属」する他なかった。ソバカリ(サシヒレ)はそういった過去を持つ武人だったのであろう。
ただ、賊軍化したとはいえ南九州の曽人は、かつて神武王権(私見では投馬国王権)を開いたことのある由緒ある家柄でもある。しかも軍人として歴戦を経ており、胆力や霊力があると信じられていた。「隼」とは、四神思想上の南を守護する「朱雀(すざく)」に匹敵し、さらに「素早い」という属性を加味して名付けられた。したがって「隼人」は南九州の曽の武人にふさわしい名辞だったと言える。
ところで、同じスミノエ皇子に仕えた隼人の名が、古事記では「ソバカリ」と書かれ、書紀では「サシヒレ」と書かれたのはなぜだろうか?
実はこの2種の名は同じことを表しているのである。
まず古事記の「ソバカリ」だが、これは「ソバ」と「カリ」に分けられる。「カリ」の方から言うと、話は天孫降臨神話の中の「葦原中国の平定」の場面から始める必要がある。
高天原から皇孫を降下させる前に、先遣隊として「天菩比神」と「天若日子(アメノワカヒコ)」とを下して交渉させようとしたのだが、大国主の娘下照姫を妻にしたアメノワカヒコは8年たっても高天原に帰って来なかったので、天佐具売(アメノサグメ)という雉を遣わして帰りを慫慂しようとしたのだが、逆に雉は殺されてしまい、そのためワカヒコ自身も「返し矢」に当たって死ぬ。
そのアメノワカヒコの葬儀にやって来たのがオオクニヌシの子のアジシキタカヒコネで、この人はワカヒコにそっくりだったので皆が「ワカヒコが生き返った」と大騒ぎになった。だが、タカヒコネは「冗談じゃない、死人と間違うなんて!」と怒り、下げていた刀で喪屋を切り倒してしまう。
この時に使った太刀を古事記では「大量(オオハカリ)」と言った。この漢字ではよく分からないが、書紀ではこれを「大葉刈」と書いているので、「カリ」とは「刈る物」すなわち刀剣のことだと判明する。
そこで後回しになった「ソバ」だが、これは「側(そば)」の意であろう。そこで「ソバカリ」とは「カリ(刀剣)を側(そば)に持つ者」と解釈できる。
では書紀の「サシヒレ」はどう解釈できるだろうか。
これは「サシ」と「ヒレ」とに分けられる。「サシ」は「刺」と漢字が当てられており、これは「差す」と同義で、「武士が刀を差す」という時の「差す」に違いない。
「ヒレ」は漢字では「領巾」と当てられているので、何か「頭から肩にかけて被るもの(布)」というイメージだが、それでは「刺す」という感じとマッチしない。
ところで古事記の応神天皇記には、アメノヒボコ(天之日矛)の説話が載っている。書紀では垂仁天皇時代のことになっているのだが、今ここでは詮索せず、そのアメノヒボコが半島から招来したという「八種の神宝」が紹介されているのだが、それは、
<珠(たま)二貫(ふたつら)。また、浪振る領巾、浪切る領巾、風振る領巾、風切る領巾。また、奥津鏡、辺津鏡、併せて八種なり。>
というものであった。玉が2種、領巾が4種、そして鏡が2種である。
この中で「領巾(ヒレ)」の4種が注目される。浪(波)と風を振ったり、切ったりする神宝なのだが、振るは確かに「布を振る」というイメージだが、「切る」方はどうだろうか。
参照すべきは日本書紀のアメノヒボコの渡来伝説で、書紀ではヒボコが招来した神宝は七種であり、内訳は玉が3種、刀1種、矛1種、そして鏡1種、神具1種であった。(垂仁天皇3年3月条)
これを見ると布製の領巾は無い。玉と刀(矛)と鏡、および神具である。上の古事記の「八種の神宝」には、ここにはある「刀・矛」という太刀・剣の類が無いことに気付かされる。
そうなると領巾(ヒレ)は布製の被り物ではなく、太刀・剣のことではないかと思わざるを得ない。「(波や風を)切る」という表現は、確かに刀剣の類に似合う。
以上から「サシヒレ」とは「ヒレ(刀剣)をサシ(差し)ている者」というイメージになる。
さて、先の「ソバカリ」は「カリ(刀)を側に持つ者」であり、後の「サシヒレ」は「ヒレ(刀剣)をサシ(差し)ている者」と解釈でき、同義であることが判明する。つまりは同一人物なのだが、古事記と日本書紀で見た目(聞いた音)でなぜこのような違いが生じたのかは今のところ、原史料上で違っていたのだとする他ない。
【結語】としては次のようである。
隼人という名辞が特定の人物として登場したのは履中天皇時代だが、これは天武天皇以降の記紀の編纂時代にできた「南九州の曽人=隼人」を過去に(履中時代にまで)さかのぼらせた使用であり、正確には「南九州曽人」とすべきである。
また古事記では「ソバカリ」、書紀では「サシヒレ」と書くスミノエ皇子の近習は、「刀剣を身に帯びて仕える者」という意味である。(※後世の「帯刀(たてわき・たちはき)」がこれに近い身分上の名称である。また横綱の土俵入りの時に近侍する「太刀持ち」も同じ概念だろう。)
「南九州の曽人」が仁徳王権(仁徳・履中・反正・允恭・・・)時代に皇族の近習として仕えたのは、南九州を本拠地として九州一円を支配し、三韓(半島南部の馬韓・弁韓・辰韓)まで勢力圏とした武内宿祢の後継である応神王権が、半島出兵の負荷によって疲弊し劣勢になったため、仁徳王権の配下に入ったからと考えられよう。