安康天皇は允恭天皇と皇后オオナカツヒメとの間に生まれた5皇子4皇女のうち、第3皇子である。
幼名は穴穂皇子で、本来なら太子となるべき長兄の木梨軽皇子が失脚した後を受けて即位している。
この天皇の時代で特記しなければならないのが「押木の玉縵(おしきのたまかずら)」である。
「押木の玉縵」というのは注釈ではどんなものか不明とされているが、私は「金冠」のことだと思っている。
まず「押木」だが、これは「押金」だろうと考える。つまり金を延ばして板状にしたものを「押型」(金型)で打ち抜くことを意味していると解釈する。
次に「玉縵(たまかずら)」だが、押し型で抜いた形が「縵(かずら)」のようにくねくねと上に伸び、その縵(かずら)に多数の玉をあしらう。
それを頭に巻く鉢巻のように丸くした金の板上の物に取り付けると出来上がる「金製の冠」であろう。
土台に当たる鉢巻状の金の輪から立ち上がる「縵(かずら)」とそこに付けられた多数の玉が見事である。この手の金冠は5世紀から6世紀の新羅の王墓から多数見つかっている。仲哀天皇の「クマソ征伐説話」で、神がクマソよりか「金銀をはじめ目映い種々の宝物がたくさんある国を討て」と言ったのは新羅のことであった。
この「押木の玉縵」を所有していたのは、仁徳天皇の妃となった南九州出身の髪長媛が産んだ「大日下王」(大草香皇子)であった。
金冠は王様クラスの者が被る装飾品で、なぜ大草香皇子が持っていたのだろうか。
私は髪長媛の出身地である古日向(南九州)の王者、端的に言えば当時の髪長媛の父である「諸県君牛諸井」が半島とのつながりの中で入手したものと考える。機内王権が手に入れにくい、あるいは、機内王権より先に半島からの到来物を手に入れることが可能だったことを「押木の玉縵」が証明しているのだ。
その金冠「押木の玉縵」を巡っては概略次のような経緯がある。
<安康天皇は弟の大長谷(おおはつせ)皇子(のちの雄略天皇)の配偶者として、大草香皇子の妹若日下皇女を考えていた。そこで根臣(ねのおみ)を遣わして申し込んだところ、大草香皇子はそれを受け入れ、証拠の品として「押木の玉縵」を差し出した。
ところが使いの根臣は「押木の玉縵」に目がくらんで我が物としたうえに、「大草香皇子は同族といえども妹はやれない」と断ったと讒言したのであった。
安康天皇はそれを聞いて怒り、大草香皇子を亡き者にし、あろうことか大草香皇子の妻「ナカシヒメ」を自分の皇后にしてしまう。>
ところがあに図らんや、ナカシヒメの連れ子である「眉輪王(まよわのきみ)」に殺されるという大失態のために、即位後わずか3年で安康天皇の時代は終わるのである。
(※これは「親の仇を討つ」の類だが、在位中に天皇が暗殺されたことがはっきり書いてあるのは、この安康天皇と崇峻天皇の2例しかない。安康天皇は皇后の連れ子によるが、崇峻天皇の場合は蘇我馬子にそそのかされた東漢直駒(ひがしのあやのあたい・こま)という臣下による暗殺であった。)
南九州(古日向)からやって来た髪長媛の血を引く大草香皇子が弑逆され、その妻が皇后になるという事件は、古日向勢力と安康王権との相克であろうとの見方も成り立つ。しかし肝心の天皇自身が暗殺されてしまっては元も子もないだろう。
幼名は穴穂皇子で、本来なら太子となるべき長兄の木梨軽皇子が失脚した後を受けて即位している。
この天皇の時代で特記しなければならないのが「押木の玉縵(おしきのたまかずら)」である。
「押木の玉縵」というのは注釈ではどんなものか不明とされているが、私は「金冠」のことだと思っている。
まず「押木」だが、これは「押金」だろうと考える。つまり金を延ばして板状にしたものを「押型」(金型)で打ち抜くことを意味していると解釈する。
次に「玉縵(たまかずら)」だが、押し型で抜いた形が「縵(かずら)」のようにくねくねと上に伸び、その縵(かずら)に多数の玉をあしらう。
それを頭に巻く鉢巻のように丸くした金の板上の物に取り付けると出来上がる「金製の冠」であろう。
土台に当たる鉢巻状の金の輪から立ち上がる「縵(かずら)」とそこに付けられた多数の玉が見事である。この手の金冠は5世紀から6世紀の新羅の王墓から多数見つかっている。仲哀天皇の「クマソ征伐説話」で、神がクマソよりか「金銀をはじめ目映い種々の宝物がたくさんある国を討て」と言ったのは新羅のことであった。
この「押木の玉縵」を所有していたのは、仁徳天皇の妃となった南九州出身の髪長媛が産んだ「大日下王」(大草香皇子)であった。
金冠は王様クラスの者が被る装飾品で、なぜ大草香皇子が持っていたのだろうか。
私は髪長媛の出身地である古日向(南九州)の王者、端的に言えば当時の髪長媛の父である「諸県君牛諸井」が半島とのつながりの中で入手したものと考える。機内王権が手に入れにくい、あるいは、機内王権より先に半島からの到来物を手に入れることが可能だったことを「押木の玉縵」が証明しているのだ。
その金冠「押木の玉縵」を巡っては概略次のような経緯がある。
<安康天皇は弟の大長谷(おおはつせ)皇子(のちの雄略天皇)の配偶者として、大草香皇子の妹若日下皇女を考えていた。そこで根臣(ねのおみ)を遣わして申し込んだところ、大草香皇子はそれを受け入れ、証拠の品として「押木の玉縵」を差し出した。
ところが使いの根臣は「押木の玉縵」に目がくらんで我が物としたうえに、「大草香皇子は同族といえども妹はやれない」と断ったと讒言したのであった。
安康天皇はそれを聞いて怒り、大草香皇子を亡き者にし、あろうことか大草香皇子の妻「ナカシヒメ」を自分の皇后にしてしまう。>
ところがあに図らんや、ナカシヒメの連れ子である「眉輪王(まよわのきみ)」に殺されるという大失態のために、即位後わずか3年で安康天皇の時代は終わるのである。
(※これは「親の仇を討つ」の類だが、在位中に天皇が暗殺されたことがはっきり書いてあるのは、この安康天皇と崇峻天皇の2例しかない。安康天皇は皇后の連れ子によるが、崇峻天皇の場合は蘇我馬子にそそのかされた東漢直駒(ひがしのあやのあたい・こま)という臣下による暗殺であった。)
南九州(古日向)からやって来た髪長媛の血を引く大草香皇子が弑逆され、その妻が皇后になるという事件は、古日向勢力と安康王権との相克であろうとの見方も成り立つ。しかし肝心の天皇自身が暗殺されてしまっては元も子もないだろう。