鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

安康天皇~押木の玉縵~(記紀点描㉗)

2021-10-22 21:23:38 | 記紀点描
安康天皇は允恭天皇と皇后オオナカツヒメとの間に生まれた5皇子4皇女のうち、第3皇子である。

幼名は穴穂皇子で、本来なら太子となるべき長兄の木梨軽皇子が失脚した後を受けて即位している。

この天皇の時代で特記しなければならないのが「押木の玉縵(おしきのたまかずら)」である。

「押木の玉縵」というのは注釈ではどんなものか不明とされているが、私は「金冠」のことだと思っている。

まず「押木」だが、これは「押金」だろうと考える。つまり金を延ばして板状にしたものを「押型」(金型)で打ち抜くことを意味していると解釈する。

次に「玉縵(たまかずら)」だが、押し型で抜いた形が「縵(かずら)」のようにくねくねと上に伸び、その縵(かずら)に多数の玉をあしらう。

それを頭に巻く鉢巻のように丸くした金の板上の物に取り付けると出来上がる「金製の冠」であろう。



土台に当たる鉢巻状の金の輪から立ち上がる「縵(かずら)」とそこに付けられた多数の玉が見事である。この手の金冠は5世紀から6世紀の新羅の王墓から多数見つかっている。仲哀天皇の「クマソ征伐説話」で、神がクマソよりか「金銀をはじめ目映い種々の宝物がたくさんある国を討て」と言ったのは新羅のことであった。

この「押木の玉縵」を所有していたのは、仁徳天皇の妃となった南九州出身の髪長媛が産んだ「大日下王」(大草香皇子)であった。

金冠は王様クラスの者が被る装飾品で、なぜ大草香皇子が持っていたのだろうか。

私は髪長媛の出身地である古日向(南九州)の王者、端的に言えば当時の髪長媛の父である「諸県君牛諸井」が半島とのつながりの中で入手したものと考える。機内王権が手に入れにくい、あるいは、機内王権より先に半島からの到来物を手に入れることが可能だったことを「押木の玉縵」が証明しているのだ。

その金冠「押木の玉縵」を巡っては概略次のような経緯がある。

<安康天皇は弟の大長谷(おおはつせ)皇子(のちの雄略天皇)の配偶者として、大草香皇子の妹若日下皇女を考えていた。そこで根臣(ねのおみ)を遣わして申し込んだところ、大草香皇子はそれを受け入れ、証拠の品として「押木の玉縵」を差し出した。

ところが使いの根臣は「押木の玉縵」に目がくらんで我が物としたうえに、「大草香皇子は同族といえども妹はやれない」と断ったと讒言したのであった。

安康天皇はそれを聞いて怒り、大草香皇子を亡き者にし、あろうことか大草香皇子の妻「ナカシヒメ」を自分の皇后にしてしまう。>

ところがあに図らんや、ナカシヒメの連れ子である「眉輪王(まよわのきみ)」に殺されるという大失態のために、即位後わずか3年で安康天皇の時代は終わるのである。

(※これは「親の仇を討つ」の類だが、在位中に天皇が暗殺されたことがはっきり書いてあるのは、この安康天皇と崇峻天皇の2例しかない。安康天皇は皇后の連れ子によるが、崇峻天皇の場合は蘇我馬子にそそのかされた東漢直駒(ひがしのあやのあたい・こま)という臣下による暗殺であった。)

南九州(古日向)からやって来た髪長媛の血を引く大草香皇子が弑逆され、その妻が皇后になるという事件は、古日向勢力と安康王権との相克であろうとの見方も成り立つ。しかし肝心の天皇自身が暗殺されてしまっては元も子もないだろう。

允恭天皇~探湯と琴と~(記紀点描㉖)

2021-10-21 21:22:55 | 記紀点描
允恭天皇は仁徳天皇と磐之媛の間に生まれた4皇子の末子で、病弱だったのだが、新羅からの使節の中に薬師がいて、その処方によって快癒したという経歴を持つ。

その後は精力旺盛だったのか、皇后オオナカツ姫との間に9人の子を授かっている(このうち二人が安康天皇と雄略天皇となる)。

允恭天皇の事績で最も優れたものが「氏姓(うじかばね)」の乱れを回復したことである。

氏は家の名で、姓は古くから皇室によって与えられた称号のようなもので、時代が下がるにつれて勝手に名乗る者が多くなった。これを「探湯(くがたち)」によって正そうとしたのであった。

即位して4年目に次のように詔勅を出している。

<群卿や諸国の国造たちは「帝室に連なる家系であり、天降った家である」と言ったりしている。(中略)一つの氏が繁栄して、そこから多くの姓が生まれ、実情が分からなくなっている。そこで諸氏は斎戒沐浴して盟神探湯せよ。>

ここでは探湯の本来の意味である「盟神探湯」、すなわち「神に誓って湯を探る」という作法を髣髴とする言葉を使っているが、要するに、煮え湯に手を入れて火傷をしなければその者は正しいとする行為である。拷問的な刑罰と言ってよい。

実際に煮え湯に手を入れたらどのくらいの割合で火傷を負ったものがいたかは記録されていないが、偽っている者の多くは怖気づいて、手を入れようとしなかったとあり、その後は偽りが正され、もう偽ろうとする者はいなくなったようである。

7年目に、允恭天皇も自ら琴を弾いたという記事があるので紹介しておきたい。

<7年の冬12月に、新室に宴(うたげ)す。天皇、みずから琴を弾きたもう。皇后、起(た)ちて舞いたまう。>

何かを新築した際の祝いの宴で、允恭天皇自らが琴を弾き、それに合わせて皇后のオオナカツヒメが舞いを舞ったというのである。

天皇または高位の者が琴を弾くという描写があるのは、仲哀天皇、神功皇后、武内宿祢の3人がおり、この允恭天皇を入れて4人ということになる。仲哀天皇と神功皇后はそもそも半島の弁韓すなわち伽耶から九州に渡来した王であり、伽耶琴を弾くことはできておかしくない。また武内宿祢は筑紫(九州)から半島の弁韓まで勢力圏としていたことがあり、伽耶琴に触れて習熟した可能性がある。

ところが允恭天皇と半島との関りは薄い。それなのに琴を弾くことができたのは、母の父、つまり祖父の葛城襲津彦(ソツヒコ)がたびたび半島に使者として遣わされたことに由来がありそうである。ソツヒコが琴を招来したのかもしれないのだ。それなら触れている可能性が高い。

さて、新築祝いの話の続きだが、舞いを舞った後には必ず女子を天皇に紹介しあてがう決まりがあり、皇后は妹の「オトヒメ」を紹介した。オトヒメの美しさは衣装を通しても光り輝くほどのものであり、それゆえ別名を「衣通娘女(そとおしのいらつめ)」と言ったという。

天皇は衣通娘女のために河内に「茅渟宮(ちぬのみや)」を造り、またのちには「藤原宮」も造り、寵愛した。

23年には皇子の木梨軽皇子(きなしかるのみこ)を皇太子に立てるのだが、軽皇子は実の妹の軽大郎女と深い仲になって、世を揺るがし、古事記では二人ともに死んだとし、書紀では軽大郎女だけが、伊予の国に流されたとしている。

そんな世情の中で、天皇は42年に突然死んでいる。

<42年の春正月の戊子(14日)、天皇崩御せり。時に年若干。>(允恭天皇紀、42年条)

普通、天皇が崩御する際には「病が重くなって」など前触れの記事が書かれるのだが、この天皇に限ってはいきなりの崩御記事であり、しかも崩御の時の年齢が「年は若干」とあいまいな書きぶりである。首をかしげるところである。

古事記では<天皇の御年、78歳。>とあり、その直後の割注で「甲午の年の正月15日にかむあがりましき」としてあるので、西暦454年に78歳で崩御したことが分かる。

書紀の允恭紀がなぜ崩御の年を「若干」としか書かないのかは謎とする他ない。

(※古事記によれば、仁徳天皇の崩御年は427年、履中天皇は432年、反正天皇は437年、そして允恭天皇は454年であり、この西暦年はほぼ正確なのではないかと思われる。)

総選挙2021に突入

2021-10-20 13:45:47 | 日本の時事風景
昨日、いよいよ衆議院選挙が公示され、31日の投票に向けて12日間の選挙運動が始まった。

今度の選挙は「政権選択選挙」だと、地元古参の保守系の候補者が言っていた。

なるほど現在の自民・公明連立政権か、立憲民主党を軸にして政策協定を結んだ「野党共闘」政権か、の食うか食われるかの争いになった。

今回は共産党も後者と政策協定を結んだのだが、仮に野党共闘が勝利して組閣してもそれには加わらない「閣外協力」を貫くという。

革新勢力でも共産党とは水と油の関係である場合がほとんどで、それを共産党は分かっていて、あえて小選挙区では「野党共闘」に票をあげるというのだ。何としてでも自公民政権を終わらせたいという言わば「捨て身の戦法」を採ったわけだ。

見上げたものだと言いたいところだが、共産党は「赤旗新聞」など独自のメディアを保有しており、政権に関われなくても意に介さないのだろう。ゴーイング・マイ・ウェイなのだ。政党助成金もただ一党だけ受け取りを拒否しているくらいだから、資金的にも潤沢なのだろう。

(※日米安保廃止を謳っているのも共産党だけで、これには私も賛成なのだが、なにしろ皇室を認めないのも共産党だけなので困る。)

もう選挙戦は始まっているのだが、候補者はまずは人口密集地を回っているようで、当地のような田舎は嵐の前の静けさである。

今度の選挙の焦点は「脱コロナ対策」「ウィズコロナ対策」がトップだという。これについては実は各党でさほど明確な差は見られない。どの政党も「〇〇兆円の対策」や「給付金〇〇円を支給」など大盤振る舞いのオンパレードだ。財務省の事務次官が雑誌に危機感を訴えたのも、完全無視の様相である。

次は経済政策で、成長か分配か、どちらもか、で幅が大きいのだが、大きく言えば「新自由主義からの脱却」では各党が一致している。

自民党の小泉政権下での「郵政改革」、安倍政権下での「異次元の金融緩和」が、日本の大規模資産である郵貯資金や銀行が保有する国債を金(日銀券)に換えて、大量に放出したことで、金のあるファンドや大企業への分配(大盤振る舞い)がますます進行した。

その儲けた資金が「トリクルダウン」すれば分配に寄与したのだろうが、そうはならなかった。持てる者と持たざる者との格差がのっぴきならないものになってしまったのだ。

何でもかんでも金に換算して「このイベントを開けば○○という金が動く」というアメリカ譲りの「金主主義」はもういい加減にやめよう。天国に金は持って行けないのだ。

国民の記念日を「ハッピーマンデー」とかいう消費喚起策にしてしまった愚策もやめにしよう。何のためにその日を記念日にしたのか、訳が分からくなっている。国民、特に高齢者の反発は大きい。

三つ目は外交・安全保障。

現政権はもちろんだが、立民なども「アメリカとの安全保障条約は不可欠だ」としている。

前々政権の安倍元首相も、「他国に頼らない自国による安全確保こそが大切だ」と言いながら、結局、日米安保による国の安泰を保障することに終始した。そして1960年の安保改定の時に、爺さんの岸信介総理が強行した安保改定を追認し、「爺さん(岸信介)はそれまで占領軍に等しかった米軍の存在を、日本側の要求に合わせた存在に変えた」と、自慢げに話していいた。

しかしそれは自慢するほどのものではないだろう。詰まるところ安全確保はアメリカ次第、つまりアメリカが動かなければ、保障されないということである。しかも日米地位協定によって「米軍の治外法権性」が担保されてしまったのだ。

そもそも二国間の軍事同盟はやめにして、集団で安全保障を確かなものにしようというのが「国連憲章」の精神だったはず。

日本がアメリカ(連合軍)の占領から解放されることになった1951年9月のサンフランシスコ平和条約を締結したと同時に「日米安保」を結んだのは、朝鮮半島の動乱(1950年6月~1951年7月)が背景にあったからだ。今はもうそんな動乱は過去になった。曲がりなりにも「休戦協定」が結ばれている。

だからもう日米同盟は本質的には「過去の遺物」になっている。後生大事に「これなくしては日本の安全は守れない」というのは間違っている。洗脳されていると言ってもいい。

日本には日本独自の世界から求められている役割がある。

その役割とは、欧米の搾取的な植民地主義によって差別されていた多くの発展途上国を、あるべき姿になるよう支援することである。その国の国民が最も幸せになれるよう、その国の発展段階に合わせて協力を惜しまない姿勢を貫くことだ。

世界はそれを待っている。



邪馬台国とは「天津日継の国」(邪馬台国関連㉕)

2021-10-17 21:11:16 | 邪馬台国関連
今日の午後、東地区学習センターで「史話の会」10月例会を開いた。

「神武東征の真相」というのが今日のテーマである。

【第21代雄略天皇からは確実な存在】

神武東征を史学会では全く認めていない。雄略天皇からは史実だろうというのが日本史学会の定説であり、それ以前の天皇系譜は眉唾だというのである。

確かに、雄略天皇以前の天皇の紀年は飛び飛びでしかない。例えば仁徳天皇は治世は87年としながら、実際に事績の記事があったのは27年分でしかない。明らかに治世の期間を引き延ばしている。この傾向は仁徳の子とされる履中、反正、允恭まで引き継がれている。

ところが雄略天皇になると紀年の飛びは見られず、治世23年の全てにわたって事績が記されている。雄略天皇の治世は23年として間違いはない。

このことと、崎玉古墳群から出土した太刀に刻まれた「由緒書き」と、熊本県玉名市の江田船山古墳から発見された太刀に刻まれた「由来書き」の発見は、雄略天皇(ワカタケル大王)治世の時代状況を如実に示していた。

雄略天皇の時代になって、日本列島はようやく北海道を除く全土にわって天皇の統治が行われるようになったようである。

この点に関しては史学会のお墨付きが得られ、雄略天皇こそ大和の統一王権として確実(史実)であろう――となった。

ただ雄略の統一王権すなわち中央集権的な統治は、この後も続くかと思えば残念ながらそうは行かなかった。

雄略が余りにも一族の有力者を廃絶したため、その反発が天皇家をゆるがしたのである。

この点に関して詳しくは「記紀点描シリーズ」で書くことにする。

【天津日継と邪馬台国】

倭人がいつから「天」を知ったのだろうか?

天とは地上に対する概念で、地上は有為転変極まりないが、天は変わらない。中国では「快刀乱神を語らず」という言い回しがあり、「天」の存在は確固としたものではなかった。あくまでも中心は人間であった。

天という概念を取り入れたのは、毎日天を仰いで気候を占う農耕民ではなく、航海民、すなわち交易のために、しきりに朝鮮半島を訪れて、鉄資源の開発や加工に取り組んでいた水運事業者であったろう。

半島では魏志倭人伝の頃(180年~240年)に、大量の避難民が大陸から押し寄せていた。その中には漢籍に通じた者がいたはずで、交易業者は彼らとも否応なしに交流があった。「門前の小僧習わぬ経を読む」のことわざを挙げるまでもないが、慣れ親しんでいるうちに自ずから中国語と漢文に不自由しなくなったのだろう。

このように、中国の「天」を倭人は「あま・あめ」という概念に使用したわけだが、その最初の使用者は先進文化に触れていた航海民であったというのが私の考えである。

「天御中主」、「天照大神」、「天津日継」というように倭人は「天」をすべて倭語である「あま・あめ」を当てている。航海民にとって海は「天」でもあったから、「海人(ウミンチュ)」も「あま」と呼ばれた。

倭人は「天」を中国から学びながら、独特の使い方を編み出した。

それは「天津日」であり、「天津日継」である。

聖(ひじり)の語源は「日知り」であり、日の運行(暦)を知っているのは聖人たる統治者の資格だが、「日」そのものはどう表現したらよいだろうか。

その「極聖」というべき日(太陽)の威力を地上に留めておきたいという人間の心理的欲求の表れが、「天津日継」なのである。

「日」はまた「穂」にも通じている。秋に収穫したモミ(稲穂)を次の年の春にまくと芽が出て、春夏の成長、生殖を経て再びモミ(穂)になる。この循環を「穂継ぎ」とすれば、農夫にも「日継ぎ」は理解可能となる。

それゆえ、「天津日継」の概念は大方の支持を得て違和感なく定着したのだろう。

また、「邪馬台国」という国名は、当時の中国人史家・陳寿が倭人の発音を捉えて中国人なりに漢字を当て嵌めたのだが、倭人としては次のように発音したのではないかと思っている。

(女王卑弥呼の国は)「天津日継ぎのヒメミコのおわします国」と。

これをローマ字化すると、<amatu-hitugi-no-himemiko-no-owasimasu-kuni> となる。

これを聞いた中国人は、先頭の母音始まりは発音しにくいので「Y」を付けて、「Yamatu-hitugi」(ヤマツヒ)と発音した。これが「邪馬台」となり国名が「邪馬台国」になったと思われる。

つまり邪馬台国女王のヒミコは太陽神アマテラスオオカミを身に降ろせるほどの大巫女だった、ということに他ならない。

(※卑弥呼は247年頃に魏の使いが狗奴国との争乱を鎮めようと「黄幢(錦の御旗)」をもたらした際に、おそらく自死だと思うのだが、亡くなり、その後を継いだのが13歳のトヨであった。このトヨは266年以後に狗奴国の攻略にあって豊前の宇佐に逃れ、「トヨスキイリヒメ」(豊の城に入ったヒメ)と呼ばれ、崇神天皇時代に大和に招聘されて伊勢神宮に奉仕したと思われる。卑弥呼同様、大巫女であったのだ。)





ご祝儀支持率頼み解散(2021)

2021-10-16 22:55:22 | 日本の時事風景
10月14日衆議院が解散された。

岸田新内閣は10月4日に成立し、お披露目されたのだが、10日後には雲散霧消したことになる。

新内閣は「老・壮・青」を万遍なく起用するという前触れ通り、確かにその通りになっている。

特に注目すべきはデジタル担当大臣、経済安全保障担当大臣など新しく打ち出した政策を担う大臣に、当選3回生を3人も起用したことだろう。

老の方は最高齢だった麻生財務大臣の代わりに麻生氏の妹の配偶者である鈴木俊一氏(68歳)を採用しているので、かなり若返ったと言える。

その一方で党役員の要である幹事長は72歳の甘利明氏が就任した。前の二階氏が82歳だったのに比べれば、これも若返ってはいる。

今度の選挙の争点は、まずは新型コロナ対策がトップだろう。これからのウイズ・コロナの時代にどう向き合うかが最大の関心事には違いない。

それから岸田氏が真っ先に掲げた「新自由主義路線の転換」だが、氏の目指す「新しい資本主義」とは具体的に何をどうするのか、が次の大きな争点だ。

前々代の小泉改革の柱は「郵政改革」で、国有の郵便事業を株式会社化したことが最大の成果だった。株式では政府が最大の株主だが、それ以外の株はおおむね種々のファンドの持ち分となった。アメリカ等外国の名立たるファンドによる取得も多い。

2008年のリーマンショック後には世界同時不況が発生したが、日本も直撃を受け、政権が野党民主党に移るきっかけとなった。

2012年には再び自民党が多数を占め、安倍内閣が発足した。

安倍内閣がやったもっとも大きな政策は、「金融の異次元の緩和」と「安全保障法の成立」であった。

前者は大きな金を握るファンドや富有層を利し、彼らをまず富ませ、その「おこぼれ」が中間層や低所得者に行き渡ればよい—―というコンセプトで、おこぼれの結果物価が2パーセント上昇し、国内消費に好循環をもたらすと言われた。

しかし何年たっても「2パーセントの物価上昇」は達成されなかった。提唱者の黒田日銀総裁は何ら責任を取っていない。「2パーセントの物価上昇」とはいったい何のためだったのか、いまだに首をひねる。株の取引で儲かった富裕層がジャンジャン金を使うことが前提だったのだろうか。

岸田首相はこのようなミリオネアたちへの税金を高率にして国庫収入を増やそうとしたが、首相になった途端、触れようとしなくなった。

首相になる前から、岸田氏の「変わり身」(ブレ)はいくつか指摘されている。

森友学園に関する文書改ざん問題についても、再調査と言っていたのだが、不問に付してしまった。広島選挙区で行われた買収事件も、党からの資金1億5千万円は買収には使われていなかったと線引きしてしまった。

岸田氏の話術は、前首相の菅さんよりはるかに聞こえが良く、弁舌も滑らかなのだが、逆に弱点なり争点なりを糊塗してしまう向きが感じられてならない。

これでは安倍・菅路線の「隠ぺい体質」と選ぶところはない。そのため世論調査での支持率は60パーセントを切っている。菅さんの総理就任直後の支持率を下回った。

それでも過半数はあるので、支持率の高いうちに総選挙をしようということらしい。

10月19日に総選挙の公示があり、12日間の選挙運動ののち、31日に投票が行われ、その日に当落が判明する。

今度の解散と選挙のキャッチフレーズは与党側は「未来選択選挙」だが、野党は「逃げ切り解散」「ぼろ隠し解散」と厳しい。

私は政権発足時の「ご祝儀高支持率」に因んで「ご祝儀支持率頼み解散」としたい。

それにしても慌ただしい解散・総選挙だ。第100代内閣総理大臣の就任期間はわずか4週間しかなかった。