続いて、秋山寛行さんより標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
『群馬歴史民俗』第37号に掲載された《研究ノート》の内容を発展させるかたちで、嘉永4年(1851)宿組合編成後の動向を、嘉永5年(1852)長崎上使中山道通行を主な素材にしつつ検討されています。
続いて、秋山寛行さんより標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
『群馬歴史民俗』第37号に掲載された《研究ノート》の内容を発展させるかたちで、嘉永4年(1851)宿組合編成後の動向を、嘉永5年(1852)長崎上使中山道通行を主な素材にしつつ検討されています。
交通史学会の例会でお世話になっている秋山寛行さんより、群馬歴史民俗研究会『群馬歴史民俗』第37号(2016年3月)に掲載された標記《研究ノート》の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
秋山さんは、ペリー来航の2年前に当たる嘉永4年(1851)、五街道で「宿組合を編成し、取締役を置くことが通達される」(掲載誌60頁)としたうえで、中山道の事例から、宿場の機能維持という編成の目的を検討されています。
おそらく、今後議論をよぶと思われるのが、秋山さん自身も述べているように宿組合は、嘉永4年から60年以上前の天明7年(1787)に編成されている点です。すでに編成されているものを、嘉永4年に編成したというのは、正確にどう解釈すべきなのでしょうか。
すでに編成していたものを一度バラバラにして編成しなおした(=再編成?)という意味なのか、それとも、バラバラにしたわけでなく従来のものを嘉永4年も継続する、すなわち書類手続き上の再編成なのか、特に私も研究対象にしている東海道については興味深いと思いました。