地理学者の林泰正さんより標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
東海地方を流れる木曽川の中流域につき、近代以前から続く舟運(川舟)が鉄道敷設の影響を受けて衰退し観光業へシフトしていくなか、流域の社会(川湊)で生じた変化を、土地所有の視点を踏まえながら考察しています。林さんの研究手法は、対象の社会で生じた変化を10年単位で、数値・ビジュアルの両面より見やすく、地理学者以外の人間にとっても学びやすいものと思います。
地理学者の林泰正さんより標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
東海地方を流れる木曽川の中流域につき、近代以前から続く舟運(川舟)が鉄道敷設の影響を受けて衰退し観光業へシフトしていくなか、流域の社会(川湊)で生じた変化を、土地所有の視点を踏まえながら考察しています。林さんの研究手法は、対象の社会で生じた変化を10年単位で、数値・ビジュアルの両面より見やすく、地理学者以外の人間にとっても学びやすいものと思います。
地理学者の林泰正さんより標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。林さんとは、今年5月に宇都宮大学で開催された交通史学会大会で知り合いました。
鉄道ファンの一人としては「可児」「広見」といえば、すぐ名鉄を連想します。しかし、この地域をめぐり昭和初期、鉄道網再編にともなって東農鉄道の路線廃止がありました。その線路敷地が廃止後いかに解体されていったのかを、土地所有の視点を踏まえつつ分析しています。こうして、戦後高度経済成長で宅地化が進む前の時代は、農地としての評価の高低が地域ごとに跡地解体の相違を生んでいくと、見とおしました。
岩下哲典先生より、標記記事の写しを私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
この記事も、同じ年3月発行の『白山史学』第59号掲載論文につながるものです。学界に身を置く一人として思ったのは、1つの史料分析を新聞記事化→学会誌で論文発表→もう1つの史料分析を別に新聞記事化、の流れは初めて見たので、そのようなパターンもありなのかということですね。
岩下哲典先生より標記記事の写しを、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
江戸幕末史で有名な安政7年(万延元、1860)3月「桜田門外の変」に関して、岩下先生自身が京都の古書店をつうじ入手した史料の分析成果が紹介されています。この成果を具体的に論説したのが、同じ年3月発行『白山史学』第59号掲載の岩下哲典・小林哲也「桜田門外の変および近藤長次郎に関する新『史料』について」なのです。
岩下哲典先生より、標記新聞記事のコピーを私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
江戸幕末の戊辰戦争時、江戸の上野寛永寺に立てこもる彰義隊を新政府軍が撃破した、いわゆる「上野戦争」について、その前日に西郷隆盛が書いたとされる書簡が見つかり、公開されました。記事のなかで岩下先生は、西郷の人間性や指揮官としての評価に関し解説を述べています。
岩下哲典先生より標記《活動記録》の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
おそらく、同じ会誌の別記事で明記するゆえ書くのを省略したことから、いつ開催されたか不明なのですが……洋学史学会監修『洋学史研究事典』(思文閣出版、2021年)刊行を記念して開かれた洋学史学会・オランダ王国大使館共催の講演会(リモート会議システムを利用)につき、概要と実際に参加しての所感とを記述しています。
東昇先生より、標記新刊の研究成果を私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
本自体は伊予史談会の創立110周年を記念し、愛媛県在来の研究者を中心に執筆陣を構成した編著書です。そのなかで東先生は、現在の愛媛県大洲市域を主な領地にした伊予国大洲藩を対象としつつ、近世後期に編さんされた農書・地誌あるいは旧記などを分析しながら、独自にいかなる歴史・地域の意識を育もうとしたのかを考察しています。
東先生へのお礼を兼ね、同じシリーズである山内譲編『古代・中世伊予の人と地域』(2010年)に続いて書評を学術誌へ投稿しようと思います。ただ、古代・中世編が近隣地域との交流をテーマにする論文を収録するゆえ私が委員を務める交通史学会『交通史研究』で発表したのに対し、近世・近代編の場合は、交通史研究に結びつく論文を含んでおらず、同じ学会誌への投稿は不適当になります。よって、今回は別の学会誌へ投稿しようと考えます。
岩下哲典先生より、標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
京都にある「あがたの森書房」から入手した新史料につき、検証を試みつつ書き下しをしながら、解説されています。具体的には、桜田門外の変関係の覚書2つと、土佐藩の近藤長次郎・坂本龍馬に関する手紙とを継いだものであり、岩下先生の見解としては、両者は時期的に関係しないものの、偽文書(ぎもんじょ)とは考えにくいとのことです。
岩下哲典先生より標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
200年以上も続く江戸幕藩体制を江戸・大坂・京都の留守居と同様に公的情報の面で支えたと考えられる長崎聞役(研究者によっては「長崎留守居」と表現した人もいる)につき、学界レベルで研究を一歩進めたといえよう成果です。江戸時代をつうじて長崎聞役の組合に加入したとされる「西国十四藩」の1つ薩摩藩の聞役が、ペリー来航の予告情報を入手したことと、その歴史的な意味とを論説しました。
ただ、かかる研究に携わる一人として、基本的な部分と専門的な部分との双方で疑問点・課題点が残ったように感じます。これらは、重要ゆえ私的なネット掲示板でなく公的な学会誌のなかで、説明していく所存です。
松浦章先生より、標記の中国語歴史研究書を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
奥付より、この書は、松浦先生が日本語で記された原稿を中国で中国人が翻訳したうえで、中国の出版社により発行されたものと推定されます。書名は、中国の明王朝~清王朝時代におけるマカオと日本の関係史を商業貿易の視角から分析する、と和訳されましょう。書名にもある明~清王朝の交代期すなわち17世紀半ばについて、日本の対外関係は、港・浦の地域社会で書き残された文書の残存率が低く、幕・藩の行政記録に偏りながら歴史を描きだす傾向にあります。ゆえに、私を含む地域社会に残る古文書を軸に研究する者のあいだでは、明清交代期に重大な変化があったと承知しつつ、なかなかその研究論文を量産できないのが実情です。
いただいた本書は、ならばこれからどうするか、を考えるうえで重要な学びを得るものと考えます。
岡本健一郎さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
岡本さんは、私がちょうど二十歳代ラストに当たる平成20年(2008)3月、似たようなテーマの論文「近世中期の中国船対策と沿岸警備」『たたら製鉄・石見銀山と地域社会―近世近代の中国地方―』(清文堂出版)を発表しています。私自身、それを読んで「鎖国」下外国船対応史を専門の研究テーマに組み入れようと考えた経緯があるだけに、ある意味懐かしいテーマとも感じました。
さて、論文の内容は、前年に発表した長崎歴史文化博物館『研究紀要』第16号掲載論文と読み比べれば記述の変化がわかりやすくて、私自身いろいろ考えさせられます。前号のものでは史料用語「唐船」をイコール中国船と直訳する箇所が認められたのに対し、今回のものだと、そう直訳すればさすがに説明がつかぬゆえか本文中でも「唐船」と、表記しつづけています。また、前号で「沿岸警備」「沿岸防備」を、江戸時代に見られた変化のビフォー・アフターで区別をつけつつ論じたのに対し、今回の場合は「沿岸警備(防備)体制」と、読者に類義語の印象を与えるような表記をしています。
このように1年間で記述が揺れ動くのはおそらく、第16号掲載論文で基礎的な先行研究に位置づけた上白石実『幕末期対外関係の研究』(吉川弘文館、2011年)につき、初出論文への反応まで踏まえられていないことが要因にあるのでしょう。その初出論文は2000年代初頭を中心に発表されたのですが、実はその発表から数年後、対馬以外の藩を分析対象としつつ上白石氏の提起内容に批判的な内容の研究論著が、複数発表されているのです。つまり、上白石氏の提起内容は、確定的なものではなかったのです。これらまで踏まえながら第16号・第17号掲載論文の記述内容を整理しなおせば、対馬藩を正しく位置づけられるようになると思います。
岡本健一郎さんより、標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
対馬藩領社会の17~18世紀にかけた外国船対応の体制史を、巡見使記録を分析しながら見通そうとしています。
ただ、全体的な研究動向と論述内容とを照らし合わせれば、肝腎な部分で疑問点が残りました。史料(特に、江戸時代後半における幕府通達の)に出てくる用語「唐船」をそのままイコール「中国船」と直訳してしまうのは、やや危険かなと感じます。この点に気を付けつつ史料を読みなおせば、語られる歴史像が変わってくるのでは、と思いました。
あと、論文中では、江戸時代の「じゅんけんし」を「巡検使」と表記しています。それは、近現代の国語ならば適当なのでしょうけど、近世の史料用語としては「巡見使」のほうが適当な表記でしょう。ちょうど、先日オンラインで出席した交通史学会の編集委員会でも「巡検」「巡見」の違いが話題になったばかりで、印象に残っておりました。
岡本健一郎さんより、標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
タイトルにこそ明記されていないもののこの論文は、対馬藩領漂着朝鮮人の長崎移送を主な対象事例に定めつつ、対馬藩長崎聞役の長崎における活動を、長崎に諸藩が大名屋敷を設置しつづけた理由を念頭に置きながら論じています。それは、私自身が専門的に取り組む研究テーマに直結するものであって、重要な示唆を得ました。実は、今年4月下旬における広島大学大学院時代指導教員の先生の古希祝いの会で座席が隣同士になり最も熱心に話し合ったのが、そのテーマについてだったのです。
岡本健一郎さんより標記論文の抜刷を1冊、広島大学大学院時代指導教員の先生の古希祝いの会に同席した際、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
長崎歴史文化博物館所蔵の長崎県庁関係文書群に所収の知事交代記録(いわゆる引継文書群)明治期分を読解しつつ、交代期ごとに県政の課題点とその特徴とを見通しました。
GW前4月下旬に催された広島大学大学院時代指導教員の先生の古希祝いの会より現在に至るまで、複数の方々からいくつもの研究成果を贈っていただきました。
本日から一日につき1点のペースで、順に紹介していきます。