藤谷彰さんより標記の完成誌を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
この学術誌には
藤谷彰《研究ノート》「四郷商工会の設立とその意義」
が掲載されています。表題にある四郷とは、今日の三重県四日市市域の南西部に存立していた八王子・室山・西日野・東日野4集落の総称です。日露戦争期にあたる明治39年(1906)、県・市ではなく1つの地域レベルで設立されたその商工会について、個性や歴史的意義を、日本近代における商工会史と照らし合わせもしながら見とおしています。明治末期・大正時代・昭和初期と、段階ごとの変化が読みやすいです。
本ブログにつき、久しぶりにアクセス解析をチェックすれば、開設からののべ訪問者数が15万を超えていました。のべPV数は28万に到達です。
本ブログは、長いブランクだと2ヶ月に1本となるぐらいの不定期投稿ゆえ、一日平均のべ約29人のアクセス数なのですけど、さすがに開設から5,180日(14年と2ヶ月半)以上も経てばそれほどの数になるのですね。
藤谷彰さんより標記の完成誌(A4判ソフトカバー)を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。この紀要には
藤谷彰《研究ノート》「神戸藩の年貢政策と徴租法―高宮村・河田村を事例として―」
が掲載されています。
タイトルにある「神戸」は、国内で「こうべ」「ごうど」などさまざまな読み方の地名が現存するものの、ここでは「かんべ」と読みます。今日の三重県鈴鹿市域に本拠を置き、17世紀に支配の交替が相次ぐものの幕末まで存続した、石高約1.5万のいわゆる小藩です。17世紀初めの江戸幕藩体制成立期の一時期、藩主を務めた一人が、のちに伊予国西条藩(現愛媛県西条市域)を治める一柳直盛です。研究ノートでは、現鈴鹿市域にあたる2つの村につき残された年貢関係史料を解析しながら、小藩ならではの年貢制度事情を見通しました。
藤谷彰さんより標記企画展用資料集(A4判ソフトカバー、全96頁)の完成版を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
日本近世の通史で教科書に載るほど有名な領知替(領主のトレード)といえば、天保11年(1840)の武蔵国川越藩主⇔出羽国庄内藩主⇔越後国長岡藩主の三角トレードが挙げられましょう。それに準ずるものとして、文政6年(1823)伊勢国桑名藩主⇔陸奥国白河藩主⇔武蔵国忍藩(おし)の三角トレードもあり、令和5年(2023)に200周年を迎えました。これを記念して今日ある行政機関、三重県桑名市・福島県白河市・埼玉県行田市が友好都市を締結していたのですが、締結からも25年目を迎えたとのことです。
標記の企画展は、これらを記念して3市合同で催すものであり、3藩に関係する文献・文化財・美術品を目録化するとともに、書名にある「徳川家を支えた」という観点から資料的価値を解説しました。併せて、59~65頁には論考、藤谷彰「文政六年三方領知と桑名町の動向」も掲載しています。
藤谷彰さんより標記小論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
まず、今のところ伊賀国域津藩領で発給され現存する年貢割付状としては最古とされる正保3年(1646)推定「界外村年貢割付状」を紹介しました。現物の撮影写真を掲載するとともに翻刻して、古文書学の視点を踏まえつつ考察を加えています。関連して、慶安元年(1648)「免状」、貞享元年(1684)「年貢請取通」(古文書学一般でいう「年貢皆済目録」に相当)などの翻刻文も掲げながら、検証がなかなか困難な17世紀農政史の研究を一歩進めました。
ちなみに、タイトルにある地名「古山界外」は「ふるやまかいげ」と読み、近鉄系の駅で有名な名張と伊賀上野とを直通する道路沿い、三重県伊賀市域にあります。
藤谷彰さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
江戸時代、紀州藩は紀伊半島の東部、伊勢国域にも複数の領地を有していました。論文では、その伊勢国域の村落につき江戸時代前半における年貢の割付・徴収の動向を、定免・検見の制度的変遷を踏まえつつ年次ごとに分析しています。こうして、紀州藩本領における年貢徴収量との相関性まで展望しました。
岡本健一郎さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
課題「企業の社会連携活動」に対し、鉄道省・日本国有鉄道(国鉄)・西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)が設置した鉄道系博物館の取り組みを、鉄道文化財の保存問題を踏まえつつ検討しています。そして、今後の課題点にJR各社の、すなわち平成時代の記録・史料をいかに引き継ぎ保存していくかを挙げました。論文では、施設・構造物など文化財に重点を置いていますが、もちろん文字の記録(アーカイブ)も重要になってくるでしょう。ただ、その前に文化財の保存をいかに負担少なく効率的におこなっていくか、道筋をつけていきたいようです。確かに、施設・建造物をなんでもかんでも永久保存していくのは関係機関の負担を増やすばかりであり、適切な選択と方法論を求められますね。
岡本健一郎さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
17世紀半ば~18世紀前半という日本近世史研究では一般的に史料の残存状況がよくないとされる時期につき、対馬藩(現長崎県域)の郷村社会における海事の対応を「対馬宗家文書」を丹念に分析しながら検討しています。その際、当時国内一般的な海村とは異なって朝鮮国との通信・貿易の窓口を担う特性と先行の対馬藩領郷村構造論とを踏まえながら、当該社会ならではの対応を位置づけようとしました。
以下は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。
1.研究史における位置づけかたについて。対馬藩領における海事といえば、大まかに(1)国内船の海難事故処理、(2)朝鮮船・唐船を中心とする外国船が漂着事故をした場合の処理、(3)朝鮮船を中心とする外国船の来航補助、(4)国外に漂流した国内船の送還対応、の4種類が挙げられます。論文では(1)(2)に重点を置きつつ史料分析に取り組んでいますが、これら(1)(2)の全国的実態研究を1冊の書にまとめ日本近世史研究で海難救助制度史をテーマ化させたといえるのは金指正三『近世海難救助制度の研究』(吉川弘文館、1968年)でしょう。その出版のあと、1970~80年代にかけ全国各地で自治体史誌編さん事業の本格化にともなって史料の収集・調査も進展し、地域ごとに実態を説明する研究論著が発表されるようになりました。つまり、1960年代以降に全国レベルで細かく枝分かれが進んだテーマの1つなのです。ゆえに、研究史の整理においては、金指氏の研究を基準点としそこからいかに枝分かれしていったのかまで踏まえれば、論文の位置づけがよりわかりやすくなると思います。
2.テーマとした郷村構造の説明方法について。史料を分析した結果、藩庁と現場とのあいだでいかなる上意下達・下意上達の構造が築かれたといえるのか、意思疎通の構図を1点提示すれば読者はわかりやすくなると思います。特に、当該地域ならではの役の名称が複数あるので、対馬藩史を専門としない者に対してはなおさら重要でしょう。
3.上記2に関連し、意思疎通と公費の移動との相関について。論文でも国内漂着朝鮮船への対応で褒美を与えられたことに触れていますが(掲載誌15~16頁)、公費の流れの構造も、論文のテーマにおいては重要です。上記1.(1)~(4)について、同じ海事といえども、それぞれで現場への公費支給の仕組みに相違があると思われます。大雑把にいえば、日常一般的な海事ならば支給されない対応の作業でも、これが幕府海事だと、請求に応じ公費分を支給される場合があるのです。そこで重要なのは、海事をめぐっていかなる公費支給の制度が整えられ、郷村社会の誰が代表して藩庁に請求することになっているかです。大抵の人間なら生活のため、公費支給対象となる対応に作業の力点を移すものでしょう(今日のサラリーマン組織にも通ずる話なのか、何とも言えませんが……)。ゆえに、公務を差配して、実績を取りまとめ、そして藩庁に請求する役割を担う人間が実は、支配構造の本質を物語るキーマンなのです。
4.これはおそらく、規定の字数へすでに達していたこと、関係史料の分量が多数あり分析にまだまだ時間がかかること、を要因として次稿以降の課題へ先送りしたのでしょうけど、同じ時期における朝鮮通信使迎接の場合との対比です。史料の残存状況からして、当時一般的な海事と朝鮮通信使の迎接とを詳しく対比できる地域は対馬ぐらいに限られているので、日本近世海事史の研究においても貴重だといっても過言でありません。今後の研究が本当に楽しみです。
下田悠真さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
先行研究が多数あり一般的な歴史ファンのあいだでも著名な坂本龍馬につき、彼が襲撃されて死去する慶応3年(1867)における動向・身分・構想を検討しています。最先端の議論とそれに対する筆者の見解を、興味深く読ませていただきました。
以下は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。
1.論文の構成を整理しなおす余地があるのでは、と思います。「はじめに」を読めば、
筆者が挙げる論点の1点目は……「第三章で論じる」
2点目は……「第二章で論じる」
3点目は……「第四章で論じる」
その他として「上海渡航説について再検討」を……「第一章で」(掲載誌2頁)
と、パッと見で錯綜しているように感じます。論文は、時系列、設定する論点、章立ていずれもが整列され、専門外の人間でも水流のごとくスムースに頭のなかへ入るよう設計するのが好ましいでしょう。
2.第4章で述べる「大政奉還宣言後の坂本は土佐藩士として不戦論での新政府樹立を目指した行動をとっていたが、内心では確実に朝廷と幕府による戦争が勃発することを予見していた」(掲載誌18頁下段)について。予備知識のない立場で史料を読めば、何となく違和感が残ります。幕府方へつく越前藩に属するものの坂本龍馬の旧友である由利公正と会談したことを記す史料には、坂本自身が「不戦ナリ」と回答するのに対し、由利いわく「戦ヒ我ヨリ為ザルハ既ニ解セリ、若彼戦ヲ起サバ之ニ応ズルノ策何レニ在ルヤ」。坂本いわく「之最至難事ナリ」…とあります(掲載誌17頁)。会話の流れからすれば「我」は坂本側、新政府軍というか朝廷軍を(現代人が会話で使う「自分」みたいなものヵ)、対して「彼」が幕府軍を、それぞれ指すでしょう。ならば、坂本自身がいっているのは、あくまで新政府軍のほうから戦闘を仕掛けない(直後の文言より、弱いから仕掛けられない)までであり、由利との会談においても、戦争が勃発するであろうことを内心にしまっていたといえないのではないでしょうか。
すなわち、史料にある「不戦ナリ」は「不戦論での新政府樹立を目指した」まで意味するものでなく、素直に自分たちから戦闘を仕掛ける状況にない、というレベルに訳される可能性もありましょう。むろん、論文で挙げた部分以外も読めば筆者の解釈が適当と、証明される可能性はあります。
まっ、いずれにせよ、今さら検証の困難な人間の内心を最終章にもって来るならば、筆者のいう「不戦論での新政府樹立」が、戦争は可能だけど犠牲者を出さずして新政府を樹立したい意味なのか、それとも、本心で戦争に勝てぬと思っているから戦争以外の方法で何とか新政府を樹立したい意味なのかを、別の史料で説明できるようにしておきたいところですね。
下田悠真さんより標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
表題にある真木和泉(本名:保臣〔やすおみ〕、文化10〔1813〕~元治元年〔1864〕8月)は、筑後国久留米藩士としてキャリアをスタートさせ、薩摩藩や長州藩とも接近しながら討幕と尊王攘夷で活動した幕末の志士の一人です。論文では、こうした立場を一貫させたわけでなく、晩年は尊王攘夷の理想を追求しつつ、討幕については「幕末政局の変動に伴って主張を柔軟に変え」(掲載誌33頁上段)たことを指摘しています。
以下は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。
1.「はじめに」で真木和泉のプロフィールに触れていないので、一見、幕末維新史研究者のあいだではわざわざそれを説明するまでもないほどの人物なのかと思いきや……第1章で触れています。あとの第1章で触れるぐらいならば「はじめに」で、何者なのか簡潔に触れておくほうが、予備知識のない者にとってはわかりやすくなるでしょう。
2.26~27頁、史料を1.5頁分もの文字数を用いながら書き下していますけど、長文ゆえに直後の解説がただちにわかりにくいと感じました。あとの解説で個別に該当箇所を再引するよりは、該当箇所に傍線とこのナンバーとを施しながら順に説明していくほうが、読者はわかりやすいと思います。
3.端的にいえば、肝腎な結論で、私を含む門外漢や一般的な幕末史ファンが率直に思う疑問点に触れていないため、専門外の歴史ファンほどモヤモヤした感じになるのではないでしょうか。もしかしたら「幕末政局の変動に伴って」は、幕末維新史研究者のあいだで現在ホットな論点であり、下田さんはその学界動向に順応しただけなのかもしれませんが……。一般的な幕末史ファンは、真木和泉の主張が変化する時期と薩英戦争・下関戦争すなわち西洋との実戦が重なっているのに、学界でこれは関係ないという見解なのかと、考えてしまいます。
以下、関係することがらを順に整理します。
(1)文久2年(1862)3月 真木、薩摩藩の要人に対し討幕の「義挙三策」を提示して、その実践第一段階をおこなうべく上方へ(30~31頁)
(2)同上年4月の寺田屋騒動によって●真木、幽閉となる(31頁上段)
(3)同上年8月 薩英戦争の原因となる生麦事件が発生
(4)以降 薩摩藩とイギリスのあいだで、幕府も巻き込みつつ和解交渉
(5)文久3年(1863)3月 真木、久留米藩によって罪を許される(31頁上段)
(6)同じ時期 ●真木に討幕の手段を見直しつつある姿勢(31頁下段)
(7)同上年5月 下関戦争
(8)同上年7月 薩英戦争
(9)同上月 薩英戦争終結し、再び双方で交渉
(10)同上年10月 幕府が賠償金を準備して薩英和解
(11)元治元年(1863)3月 ●真木「方今四夷を攘斥するには、海防専要にて」と、討幕から海防(海岸防備)へと主張に変化(32~33頁)
(12)同上年7月 再び下関戦争
このように流れを整理すれば、当時を生きた人間の肌感覚として、討幕どころの状況ではなかったことをうかがえましょう。海に囲まれた国すなわちすさまじい長さの海岸線を有する国で、上記(2)→(11)にかけ、いつどこに西洋の海軍が攻めて来るのかわからぬ状況へと変化したのです。ならば、そんな長い海外線すべての防備を指揮できるのはどこなのか。知識人ならば当然、天秤(幕府or朝廷)にかけながら考えるでしょう。
以上を要するに「政局」という熟語自体の指す範囲がそもそも曖昧なだけに、安易に「政局の変動に伴って」と語るのでなく、国内の動向と外圧との双方に注目しながら整理するのが望ましいと思いました。まっ、あとは薩英戦争の賠償金を準備した主体を、当時どれほど知られていたかでしょう。
岩下哲典先生より標記論文の別刷を1冊、再び贈ってくださりました。ありがとうございます。
この別刷は昨年3月すでにいただいているのですが……おそらく、あまりにも多方面に、誰に贈ったか覚えきれないぐらいの冊数を発送されているのだろうと思います。しかしながら、この論文は私の専門的な研究テーマと結びつくものなので、すでにいただいている1冊を疑問点のメモ書き用に、今回いただいた2冊目は永久保存用に、それぞれ取っておこうと考えます。
researchmapの資料公開コーナーにおいて「××都道府県内の自治体史誌と近世史用語『異国船』」一覧表を追加しました。
追加したのは、江戸時代「鎖国」期に外国船対応で重要な歴史を有するといえよう和歌山・新潟・神奈川・福岡・長崎・宮崎・鹿児島・兵庫の8県です。先月投稿済みの北海道・千葉と合わせて計10道・県になりました。なぜ宮崎県が入るのか訝しく感じるでしょうが、宮崎県域は山口・福岡・長崎・鹿児島県などと比べれば「鎖国」期に外国船と応接した件数こそ少ないものの、その割に唐船漂着事件をテーマとした研究論著の発表数が多くあり、自治体史誌における言及との相関が注目されるゆえです。
※リンクは下記。
https://researchmap.jp/kamoga4ra/published_works
コーナーにも注記したとおり、投稿資料は「平成の大合併」ピーク直前にあたる同15年(2003)4月時点で存立し、かつ当時海に面していた自治体を対象とし、近世通史編を含む冊を採録しています。そして「異国船」を検索キーワードに設定しすべて読んだ結果を一覧表に整理しました。8年前の同28年度(2016)に調査したものですので、この年度以降に刊行された史誌は採録できていません。
なお、投稿資料は正式発表前の試作品ですので、転載を禁止としています。