鴨頭の掲示板

日本史学関係の個人的な備忘録として使用します。

【受贈】 東昇「海軍・谷本馬太郎と由良神社・由良村の交流」『君尾山光明寺文化財調査報告Ⅱ 由良神社文化財調査報告―京都府立大学文化遺産叢書第27集―』(2024年3月)

2024年04月23日 12時20分55秒 | いち研究者としての日記
東昇先生より標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
表題にある由良神社とは、現在の京都府宮津市旧由良村域に遅くとも江戸時代半ばには創建されていた神社であり、戦前には府社へ昇格していました。その昇格をめぐり推薦書で後押ししたのが軍艦由良の艦長歴を有する豊田副武(とよだそえむ、明治18〔1885〕~昭和32年〔1957〕、由良艦長:大正15年〔1926〕11月~昭和2年〔1927〕11月)です。
対してこの論文では、海軍と由良神社ないし由良村との交流の観点でいえば、広島県福山市出身で同じく由良の艦長を務めた谷本馬太郎(たにもとうまたろう、明治19年〔1886〕~昭和17年〔1942〕、由良艦長:同6年〔1931〕12月~同7年〔1932〕11月)が、さらに重要だと提起しています。その論拠となりうる史料として、谷本を含む海軍関係者と由良神社・由良村とのあいだの書簡群をリスト化し提示しました。
個人的な感想としては、導入部分にあたる1「海軍関係者の由良神社への参拝」から2「由良艦長谷本馬太郎」にかけての作文が、たくさんの情報を詰め込みすぎてパッと見でテーマへの接続がわかりにくいと感じます。導入部分を整理しなおすのが望ましいと思いました。
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【受贈】 東昇「第2章『文化期通信使対馬来聘と郡方支配の展開』」(中野等編『中近世九州・西国史研究』、吉川弘文館、2024年3月)

2024年04月22日 04時09分13秒 | いち研究者としての日記
東昇先生より標記論文の抜刷を1つ、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

標記の論文では、それまで将軍就任のたび江戸まで登っていた朝鮮通信使につき、経済的事情により対馬(現長崎県対馬市)までの行程に短縮・節約されたいわゆる「易地聘礼」(えきちへいれい、文化8年〔1811〕、論文では「対馬来聘」とも表記)をテーマに取りあげ、対馬藩による地域支配の、その前後における変化を説明しようとしています。
結論を簡潔にいえば対馬藩の地域社会は、いわゆる「四つの口」の1つとしてそれまで信使迎接などの御用で多量の貨幣が投入されるなどして、貨幣経済にもとづく被支配層の階層分化が進んでいました。ところが、その準備のなかで天明の飢饉(1780年代)を経験したときのような農村社会への回帰・再興が促され、その翌年、文化9年(1812)より対馬藩の郡奉行所を中心としさらにこうした政策を推し進めていくと、指摘しています。

以下の3点は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。
1つ、地域社会への公金投下を正しく評価するうえで肝腎な情報を補っていくこと。第1~2節で、藩領社会の構成や朝鮮通信使の迎接をめぐる支配層からの褒賞の内容を記述しているものの、門外漢の読者が当時島民1人あたりの収益(もちろん正確な実態把握は困難でしょうから、ある程度の見積もり)を理解するうえで重要な情報までは整理されていません。例えば、掲載書210頁で「夫役では、幕府役人への付人数合計二千七百九十九人、普請や運漕水夫などの徴発郷夫役は約二十七万人とあり、多くの領民が動員された」とあります。これは、のべ人数なのか、そうでないのでしょうか。対馬の人口規模を加味すればおそらく前者でしょう。ならば約27万人とはいうものの、2,700人が100回なのか、270人が1,000回なのかで、地域への貨幣の行き渡り方が異なってきます。当時の島の人口、水夫(通史的には「水主」とよぶ地域が多い)の登録者数などの情報も他史料で補いながら、実際の支給対象数を見通しやすくするのが好ましいでしょう。
2つめは、1つめに関連して、貨幣での支給額の根拠となる計算式は何かです。論文では、実際に支給された金額などを明記していますが、これはどのような計算式で算出された数値なのか。そして、計算式は時代のなかでいかに変更されるものかは、対馬の社会史を貨幣経済の視座で見通すうえで重要な論点でしょう。私が専門的に取り組む瀬戸内海伊予国域島嶼部の場合では、支給額の計算にあたり米1石あたりの貨幣換算のレートが公定されて、このレートにもとづき貨幣あるいは米現物の支給量が決められていました。しかも、ここでのレートは、私が読んだ史料の場合だと、一般的な相場より少し高めに設定されています。では、対馬藩の場合どのような仕組みなのでしょうか。朝鮮通信使など国家的な迎接の場合だと、おそらく、実際には〝どんぶり勘定〟的な計算もあったでしょうけど、当時の経済状況と正しく見比べるうえで不可欠な情報だと考えます。
そして3つめは、2つめに述べたことと関連して、現物と貨幣2つの経済のあいだにおけるバランスの歴史です。くり返しになりますが今回の論文は、有名な全国的大飢饉が生じた天明年間から易地聘礼があった文化年間までの変化を対象とし、大雑把にいえば、地域社会で現物の経済が潤うと貨幣経済が発展し、貨幣経済が社会の不都合を生むと現物重視の政索へ揺り戻そうとする藩政の本質を指摘しました。しかし、こうした流れが以前から周期性をもって連続するものなのか否かは、対馬の歴史を正しく理解するうえで重要な論点でしょう。おそらく、個人的な予想としては前者であり、現物と貨幣のあいだで重点を交互に揺り戻しながらバランスを取ってきたのが対馬の近世史ではないかと考えます。もし予想どおり周期性をもつものならば、文化年間の現物重視化は、易地聘礼を超えた動き(=変化のきっかけの1つにすぎない)である可能性も出てくるのではないでしょうか。
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【受贈】 東昇「第5章『近世孝子褒賞史料・刑罰記録にみる障害表現—乱心・不平気・気分不揃—』」(障害史研究会『障害史へのアプローチ』、2024年3月)

2024年04月21日 00時20分47秒 | いち研究者としての日記
東昇先生より標記論文の別刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
まず、この論文は、2019~23年度『科研費』基盤研究A「障害の歴史性に関する学際統合研究―比較史的な日本観察―」(研究代表者:高野信治、課題番号:19H00540)の一環を公表するものです。九州大学の大学文書館内で障害史研究会が設立されており、科研費研究の成果を、その会誌『障害史研究』の別冊としてまとめた模様です。


東先生の論文は、幕府直轄地の長崎と藩領の対馬・紀伊田辺とに関する孝子褒賞史料・刑罰記録を読み込み「乱心」をはじめとする精神障害の表現の変化や地域差を見通そうとしました。結論を簡潔にいえば、精神障害の表現は幕府法により「乱心」で統一されていく流れだったのが、化政期の1820年代以降の史料でさまざまな表現が検出されるとともに、表現用語の統一化・整序を促す動きも見られるようになったとのことです。すなわち、19世紀前半なりに、多様性をもつ精神障害への理解が深まっていくとともに、精神障害の問題を国内社会の共通認識にしやすくしようとする動きが生じたと見通せられましょう。

私個人的には、次の2点が気になりました。
1つは、生まれつきでもつ精神障害と、健常者として生まれ育ったものの成長後に精神障害を患う場合との分別がいかにつけられるようになったかです。現代社会では広く認識されている発達障害・鬱・認知症・酒乱などの症状が、江戸時代の場合、時期的変化とともにどう認識され、法に反映されるようになったのでしょうか。そして、こうした変化が論文で指摘される1820年代以降の変化といかに相関するのかを、今後の課題点に挙げられましょう。
2つめは、幕府法の用語として定着した「乱心」の意味が江戸時代の約260年間、社会一般で本当に意味が変わらぬままだったのかです。現代人の感覚的に法律用語は、一度法文で定義づけさえすれば、何年経とうが意味は変わらぬものに思えましょう。しかし、それはインターネットや辞・事典など、根拠の情報をすぐ確認できる手段が手許にある時代だからこそ言えることでもあります。このような手段が無い江戸時代、全地域で変わらぬままだったのでしょうか。「乱心」は地域社会で差別用語的に広まっていきうるものだけに、法律用語と各地域社会での実際との齟齬の可能性が気になりました。
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【受贈】 三重県『三重県史研究』第39号(2024年3月)

2024年04月20日 01時05分49秒 | いち研究者としての日記

藤谷彰さんより標記の完成誌を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

この学術誌には

藤谷彰《研究ノート》「四郷商工会の設立とその意義」

が掲載されています。表題にある四郷とは、今日の三重県四日市市域の南西部に存立していた八王子・室山・西日野・東日野4集落の総称です。日露戦争期にあたる明治39年(1906)、県・市ではなく1つの地域レベルで設立されたその商工会について、個性や歴史的意義を、日本近代における商工会史と照らし合わせもしながら見とおしています。明治末期・大正時代・昭和初期と、段階ごとの変化が読みやすいです。

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【備忘】 本ブログののべ訪問者数が15万に到達

2024年04月19日 01時14分40秒 | いち研究者としての日記

本ブログにつき、久しぶりにアクセス解析をチェックすれば、開設からののべ訪問者数が15万を超えていました。のべPV数は28万に到達です。

本ブログは、長いブランクだと2ヶ月に1本となるぐらいの不定期投稿ゆえ、一日平均のべ約29人のアクセス数なのですけど、さすがに開設から5,180日(14年と2ヶ月半)以上も経てばそれほどの数になるのですね。

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【受贈】 三重県総合博物館『研究紀要』№10(2024年3月)

2024年04月19日 01時11分54秒 | いち研究者としての日記

藤谷彰さんより標記の完成誌(A4判ソフトカバー)を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。この紀要には

藤谷彰《研究ノート》「神戸藩の年貢政策と徴租法―高宮村・河田村を事例として―」

が掲載されています。

タイトルにある「神戸」は、国内で「こうべ」「ごうど」などさまざまな読み方の地名が現存するものの、ここでは「かんべ」と読みます。今日の三重県鈴鹿市域に本拠を置き、17世紀に支配の交替が相次ぐものの幕末まで存続した、石高約1.5万のいわゆる小藩です。17世紀初めの江戸幕藩体制成立期の一時期、藩主を務めた一人が、のちに伊予国西条藩(現愛媛県西条市域)を治める一柳直盛です。研究ノートでは、現鈴鹿市域にあたる2つの村につき残された年貢関係史料を解析しながら、小藩ならではの年貢制度事情を見通しました。

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【受贈】 行田市・桑名市・白河市合同企画展実行委員会ほか編『武門の遺産(レガシー)―徳川家を支えた忍・桑名・白河―』(2023年8月)

2024年04月18日 00時31分57秒 | いち研究者としての日記

藤谷彰さんより標記企画展用資料集(A4判ソフトカバー、全96頁)の完成版を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

日本近世の通史で教科書に載るほど有名な領知替(領主のトレード)といえば、天保11年(1840)の武蔵国川越藩主⇔出羽国庄内藩主⇔越後国長岡藩主の三角トレードが挙げられましょう。それに準ずるものとして、文政6年(1823)伊勢国桑名藩主⇔陸奥国白河藩主⇔武蔵国忍藩(おし)の三角トレードもあり、令和5年(2023)に200周年を迎えました。これを記念して今日ある行政機関、三重県桑名市・福島県白河市・埼玉県行田市が友好都市を締結していたのですが、締結からも25年目を迎えたとのことです。

標記の企画展は、これらを記念して3市合同で催すものであり、3藩に関係する文献・文化財・美術品を目録化するとともに、書名にある「徳川家を支えた」という観点から資料的価値を解説しました。併せて、59~65頁には論考、藤谷彰「文政六年三方領知と桑名町の動向」も掲載しています。

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【受贈】 藤谷彰《資料紹介》「津藩伊賀国領の年貢関係史料について―古山界外村中村家襖下張り文書から―」『三重の古文化』109(2024年)

2024年04月17日 00時32分06秒 | いち研究者としての日記

藤谷彰さんより標記小論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。

まず、今のところ伊賀国域津藩領で発給され現存する年貢割付状としては最古とされる正保3年(1646)推定「界外村年貢割付状」を紹介しました。現物の撮影写真を掲載するとともに翻刻して、古文書学の視点を踏まえつつ考察を加えています。関連して、慶安元年(1648)「免状」、貞享元年(1684)「年貢請取通」(古文書学一般でいう「年貢皆済目録」に相当)などの翻刻文も掲げながら、検証がなかなか困難な17世紀農政史の研究を一歩進めました。

ちなみに、タイトルにある地名「古山界外」は「ふるやまかいげ」と読み、近鉄系の駅で有名な名張と伊賀上野とを直通する道路沿い、三重県伊賀市域にあります。

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【受贈】 藤谷彰「紀州勢州三領の年貢動向と徴租法―松坂領村落を事例に―」『ふびと』第74号(2024年1月)

2024年04月16日 00時58分41秒 | いち研究者としての日記

藤谷彰さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

江戸時代、紀州藩は紀伊半島の東部、伊勢国域にも複数の領地を有していました。論文では、その伊勢国域の村落につき江戸時代前半における年貢の割付・徴収の動向を、定免・検見の制度的変遷を踏まえつつ年次ごとに分析しています。こうして、紀州藩本領における年貢徴収量との相関性まで展望しました。

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【受贈】 岡本健一郎《年次大会共通論題》「京都鉄道博物館の活動と鉄道文化財の保存」(2023年度『年次大会 企業の社会連携活動について考える』、京都鉄道博物館)

2024年04月15日 00時01分00秒 | いち研究者としての日記

岡本健一郎さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

課題「企業の社会連携活動」に対し、鉄道省・日本国有鉄道(国鉄)・西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)が設置した鉄道系博物館の取り組みを、鉄道文化財の保存問題を踏まえつつ検討しています。そして、今後の課題点にJR各社の、すなわち平成時代の記録・史料をいかに引き継ぎ保存していくかを挙げました。論文では、施設・構造物など文化財に重点を置いていますが、もちろん文字の記録(アーカイブ)も重要になってくるでしょう。ただ、その前に文化財の保存をいかに負担少なく効率的におこなっていくか、道筋をつけていきたいようです。確かに、施設・建造物をなんでもかんでも永久保存していくのは関係機関の負担を増やすばかりであり、適切な選択と方法論を求められますね。

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【受贈】 岡本健一郎「対馬藩の諸船対応と郷村構造」(長崎歴史文化博物館『研究紀要』第18号、2024年3月)

2024年04月14日 00時58分13秒 | いち研究者としての日記

岡本健一郎さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

17世紀半ば~18世紀前半という日本近世史研究では一般的に史料の残存状況がよくないとされる時期につき、対馬藩(現長崎県域)の郷村社会における海事の対応を「対馬宗家文書」を丹念に分析しながら検討しています。その際、当時国内一般的な海村とは異なって朝鮮国との通信・貿易の窓口を担う特性と先行の対馬藩領郷村構造論とを踏まえながら、当該社会ならではの対応を位置づけようとしました。

以下は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。

1.研究史における位置づけかたについて。対馬藩領における海事といえば、大まかに(1)国内船の海難事故処理、(2)朝鮮船・唐船を中心とする外国船が漂着事故をした場合の処理、(3)朝鮮船を中心とする外国船の来航補助、(4)国外に漂流した国内船の送還対応、の4種類が挙げられます。論文では(1)(2)に重点を置きつつ史料分析に取り組んでいますが、これら(1)(2)の全国的実態研究を1冊の書にまとめ日本近世史研究で海難救助制度史をテーマ化させたといえるのは金指正三『近世海難救助制度の研究』(吉川弘文館、1968年)でしょう。その出版のあと、1970~80年代にかけ全国各地で自治体史誌編さん事業の本格化にともなって史料の収集・調査も進展し、地域ごとに実態を説明する研究論著が発表されるようになりました。つまり、1960年代以降に全国レベルで細かく枝分かれが進んだテーマの1つなのです。ゆえに、研究史の整理においては、金指氏の研究を基準点としそこからいかに枝分かれしていったのかまで踏まえれば、論文の位置づけがよりわかりやすくなると思います。

2.テーマとした郷村構造の説明方法について。史料を分析した結果、藩庁と現場とのあいだでいかなる上意下達・下意上達の構造が築かれたといえるのか、意思疎通の構図を1点提示すれば読者はわかりやすくなると思います。特に、当該地域ならではの役の名称が複数あるので、対馬藩史を専門としない者に対してはなおさら重要でしょう。

3.上記2に関連し、意思疎通と公費の移動との相関について。論文でも国内漂着朝鮮船への対応で褒美を与えられたことに触れていますが(掲載誌15~16頁)、公費の流れの構造も、論文のテーマにおいては重要です。上記1.(1)~(4)について、同じ海事といえども、それぞれで現場への公費支給の仕組みに相違があると思われます。大雑把にいえば、日常一般的な海事ならば支給されない対応の作業でも、これが幕府海事だと、請求に応じ公費分を支給される場合があるのです。そこで重要なのは、海事をめぐっていかなる公費支給の制度が整えられ、郷村社会の誰が代表して藩庁に請求することになっているかです。大抵の人間なら生活のため、公費支給対象となる対応に作業の力点を移すものでしょう(今日のサラリーマン組織にも通ずる話なのか、何とも言えませんが……)。ゆえに、公務を差配して、実績を取りまとめ、そして藩庁に請求する役割を担う人間が実は、支配構造の本質を物語るキーマンなのです。

4.これはおそらく、規定の字数へすでに達していたこと、関係史料の分量が多数あり分析にまだまだ時間がかかること、を要因として次稿以降の課題へ先送りしたのでしょうけど、同じ時期における朝鮮通信使迎接の場合との対比です。史料の残存状況からして、当時一般的な海事と朝鮮通信使の迎接とを詳しく対比できる地域は対馬ぐらいに限られているので、日本近世海事史の研究においても貴重だといっても過言でありません。今後の研究が本当に楽しみです。

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【受贈】 下田悠真「慶応三年の坂本龍馬―動向・身分・構想―」『法政史論』第51号(2024年2月)

2024年04月13日 01時40分40秒 | いち研究者としての日記

下田悠真さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

先行研究が多数あり一般的な歴史ファンのあいだでも著名な坂本龍馬につき、彼が襲撃されて死去する慶応3年(1867)における動向・身分・構想を検討しています。最先端の議論とそれに対する筆者の見解を、興味深く読ませていただきました。

以下は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。

1.論文の構成を整理しなおす余地があるのでは、と思います。「はじめに」を読めば、

筆者が挙げる論点の1点目は……「第三章で論じる」

2点目は……「第二章で論じる」

3点目は……「第四章で論じる」

その他として「上海渡航説について再検討」を……「第一章で」(掲載誌2頁)

と、パッと見で錯綜しているように感じます。論文は、時系列、設定する論点、章立ていずれもが整列され、専門外の人間でも水流のごとくスムースに頭のなかへ入るよう設計するのが好ましいでしょう。

2.第4章で述べる「大政奉還宣言後の坂本は土佐藩士として不戦論での新政府樹立を目指した行動をとっていたが、内心では確実に朝廷と幕府による戦争が勃発することを予見していた」(掲載誌18頁下段)について。予備知識のない立場で史料を読めば、何となく違和感が残ります。幕府方へつく越前藩に属するものの坂本龍馬の旧友である由利公正と会談したことを記す史料には、坂本自身が「不戦ナリ」と回答するのに対し、由利いわく「戦ヒヨリ為ザルハ既ニ解セリ、若戦ヲ起サバ之ニ応ズルノ策何レニ在ルヤ」。坂本いわく「之最至難事ナリ」…とあります(掲載誌17頁)。会話の流れからすれば「我」は坂本側、新政府軍というか朝廷軍を(現代人が会話で使う「自分」みたいなものヵ)、対して「彼」が幕府軍を、それぞれ指すでしょう。ならば、坂本自身がいっているのは、あくまで新政府軍のほうから戦闘を仕掛けない(直後の文言より、弱いから仕掛けられない)までであり、由利との会談においても、戦争が勃発するであろうことを内心にしまっていたといえないのではないでしょうか。

すなわち、史料にある「不戦ナリ」は「不戦論での新政府樹立を目指した」まで意味するものでなく、素直に自分たちから戦闘を仕掛ける状況にない、というレベルに訳される可能性もありましょう。むろん、論文で挙げた部分以外も読めば筆者の解釈が適当と、証明される可能性はあります。

まっ、いずれにせよ、今さら検証の困難な人間の内心を最終章にもって来るならば、筆者のいう「不戦論での新政府樹立」が、戦争は可能だけど犠牲者を出さずして新政府を樹立したい意味なのか、それとも、本心で戦争に勝てぬと思っているから戦争以外の方法で何とか新政府を樹立したい意味なのかを、別の史料で説明できるようにしておきたいところですね。

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【受贈】 下田悠真「真木和泉と幕末政局―尊王攘夷論としての『討幕』の意義に注目して―」『法政史論』第50号(2023年2月)

2024年04月12日 22時11分57秒 | いち研究者としての日記

下田悠真さんより標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。

表題にある真木和泉(本名:保臣〔やすおみ〕、文化10〔1813〕~元治元年〔1864〕8月)は、筑後国久留米藩士としてキャリアをスタートさせ、薩摩藩や長州藩とも接近しながら討幕と尊王攘夷で活動した幕末の志士の一人です。論文では、こうした立場を一貫させたわけでなく、晩年は尊王攘夷の理想を追求しつつ、討幕については「幕末政局の変動に伴って主張を柔軟に変え」(掲載誌33頁上段)たことを指摘しています。

以下は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。

1.「はじめに」で真木和泉のプロフィールに触れていないので、一見、幕末維新史研究者のあいだではわざわざそれを説明するまでもないほどの人物なのかと思いきや……第1章で触れています。あとの第1章で触れるぐらいならば「はじめに」で、何者なのか簡潔に触れておくほうが、予備知識のない者にとってはわかりやすくなるでしょう。

2.26~27頁、史料を1.5頁分もの文字数を用いながら書き下していますけど、長文ゆえに直後の解説がただちにわかりにくいと感じました。あとの解説で個別に該当箇所を再引するよりは、該当箇所に傍線とこのナンバーとを施しながら順に説明していくほうが、読者はわかりやすいと思います。

3.端的にいえば、肝腎な結論で、私を含む門外漢や一般的な幕末史ファンが率直に思う疑問点に触れていないため、専門外の歴史ファンほどモヤモヤした感じになるのではないでしょうか。もしかしたら「幕末政局の変動に伴って」は、幕末維新史研究者のあいだで現在ホットな論点であり、下田さんはその学界動向に順応しただけなのかもしれませんが……。一般的な幕末史ファンは、真木和泉の主張が変化する時期と薩英戦争・下関戦争すなわち西洋との実戦が重なっているのに、学界でこれは関係ないという見解なのかと、考えてしまいます。

以下、関係することがらを順に整理します。

(1)文久2年(1862)3月 真木、薩摩藩の要人に対し討幕の「義挙三策」を提示して、その実践第一段階をおこなうべく上方へ(30~31頁)

(2)同上年4月の寺田屋騒動によって●真木、幽閉となる(31頁上段)

(3)同上年8月 薩英戦争の原因となる生麦事件が発生

(4)以降 薩摩藩とイギリスのあいだで、幕府も巻き込みつつ和解交渉

(5)文久3年(1863)3月 真木、久留米藩によって罪を許される(31頁上段)

(6)同じ時期 ●真木に討幕の手段を見直しつつある姿勢(31頁下段)

(7)同上年5月 下関戦争

(8)同上年7月 薩英戦争

(9)同上月 薩英戦争終結し、再び双方で交渉

(10)同上年10月 幕府が賠償金を準備して薩英和解

(11)元治元年(1863)3月 ●真木「方今四夷を攘斥するには、海防専要にて」と、討幕から海防(海岸防備)へと主張に変化(32~33頁)

(12)同上年7月 再び下関戦争

このように流れを整理すれば、当時を生きた人間の肌感覚として、討幕どころの状況ではなかったことをうかがえましょう。海に囲まれた国すなわちすさまじい長さの海岸線を有する国で、上記(2)→(11)にかけ、いつどこに西洋の海軍が攻めて来るのかわからぬ状況へと変化したのです。ならば、そんな長い海外線すべての防備を指揮できるのはどこなのか。知識人ならば当然、天秤(幕府or朝廷)にかけながら考えるでしょう。

以上を要するに「政局」という熟語自体の指す範囲がそもそも曖昧なだけに、安易に「政局の変動に伴って」と語るのでなく、国内の動向と外圧との双方に注目しながら整理するのが望ましいと思いました。まっ、あとは薩英戦争の賠償金を準備した主体を、当時どれほど知られていたかでしょう。

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【受贈】 岩下哲典「『ペリー来航予告情報』と薩摩藩―別段風説書と藩主斉彬・弟久光、家老・長崎聞役、藩外協力者箕作阮甫など―」『青山史学』第41号(2023年3月)

2024年04月11日 14時08分24秒 | いち研究者としての日記

岩下哲典先生より標記論文の別刷を1冊、再び贈ってくださりました。ありがとうございます。

この別刷は昨年3月すでにいただいているのですが……おそらく、あまりにも多方面に、誰に贈ったか覚えきれないぐらいの冊数を発送されているのだろうと思います。しかしながら、この論文は私の専門的な研究テーマと結びつくものなので、すでにいただいている1冊を疑問点のメモ書き用に、今回いただいた2冊目は永久保存用に、それぞれ取っておこうと考えます。

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【備忘】 researchmap>資料公開「××都道府県内の自治体史誌と近世史用語『異国船』」一覧表の追加

2024年04月07日 10時31分58秒 | いち研究者としての日記

researchmapの資料公開コーナーにおいて「××都道府県内の自治体史誌と近世史用語『異国船』」一覧表を追加しました。

追加したのは、江戸時代「鎖国」期に外国船対応で重要な歴史を有するといえよう和歌山・新潟・神奈川・福岡・長崎・宮崎・鹿児島・兵庫の8県です。先月投稿済みの北海道・千葉と合わせて計10道・県になりました。なぜ宮崎県が入るのか訝しく感じるでしょうが、宮崎県域は山口・福岡・長崎・鹿児島県などと比べれば「鎖国」期に外国船と応接した件数こそ少ないものの、その割に唐船漂着事件をテーマとした研究論著の発表数が多くあり、自治体史誌における言及との相関が注目されるゆえです。

 ※リンクは下記。

https://researchmap.jp/kamoga4ra/published_works

 

コーナーにも注記したとおり、投稿資料は「平成の大合併」ピーク直前にあたる同15年(2003)4月時点で存立し、かつ当時海に面していた自治体を対象とし、近世通史編を含む冊を採録しています。そして「異国船」を検索キーワードに設定しすべて読んだ結果を一覧表に整理しました。8年前の同28年度(2016)に調査したものですので、この年度以降に刊行された史誌は採録できていません。

なお、投稿資料は正式発表前の試作品ですので、転載を禁止としています。

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