今日は暑かった!最高気温30度と、久し振りに大台に乗りました。なんせ湿度が高いので、不快指数も高い!午後からの俳句教室に出掛ける時、車に乗ると車内温度はナンと36度と…
どうにか日曜日を挟んでの句会4連チャンをクリアーしました。これで今月は終り…でも、今からの1週間は原稿書きと添削指導で潰れますし、31日には恒例の〝夏休み子供俳句教室〟がありますので、そうはのんびりとできません。
さて、今日の兼題は「夏休み」でした。今年は殆どの学校が19日の終業式で夏休みに入りましたので、例年より長い44日間という休みになったんです。ところが、来年からは宇部市も普通教室でエアコンの利用が出来るようになるということで、全小中学校の二学期を1週間早めて8月25日開始と発表しましたので、子供たちはガッカリしていましたね。
黒板にわが文字のこす夏休み 福永耕二
以前にも書きましたが、福永耕二は「馬醉木」の大先輩です。いろんな話を今でも耳にしますので、本当に一度お会いして見たかったなあと思います。昭和13年(1938)生れですから、ご存命なら81歳。十分可能な年齢ですものね。
昭和55年(1980)敗血症に心内膜炎を併発し、42歳という若さで亡くなられていますので、私が俳句を始める7年ほど前です。かつて若手と言われて耕二の指導を受けていた人たちが、現在馬醉木を支えて頑張っておられますので、時々話を聞くことがあるのです。馬醉木にとって本当に惜しい人を亡くしたんだと私にも分かりますから、残念至極。
せっかくですので、彼についての経歴を書いておきますね。
鹿児島県川辺町出身。私立ラ・サール高等学校在学中より「馬醉木」に投句。昭和31年(1956)鹿児島大学入学、俳誌「ざぼん」に参加、編集を手がける。その間20歳で馬醉木の巻頭をとる。卒業後地元の高校教師として奉職するも、昭和40年(1965)、能村登四郞の推薦により上京、登四郞、林翔の勤める千葉県の私立市川高等学校に勤務する。昭和44年(1969)「馬醉木」同人。昭和45年(1970)、登四郞の「沖」創刊に参加するも、同年「馬醉木」編集長となる。昭和47年(1972)、馬酔木賞、沖賞受賞。句集に『鳥語』(1972年)、『踏歌』(1980年)、『散木』(1982年)がある。昭和55年(1980)、『踏歌』により第4回俳人協会新人賞を死後に受賞。
上掲の句は上京してからの句でしょうか。耕二は、登四郞、翔とともに国語教師、且つ俳人として市川高校の三羽烏と言われていました。私もそうですが、昔の夏休みは結構のんびりとできて、教師にとってもいい息抜きができました。最近の先生たちの話を聞くと本当に大変そうです。黒板に残した文字が目に入るのは次の登校日…それまでは何もなければ自宅研修と…それも名ばかりでしたので、好きな俳句作りにあちらこちらと出掛けたんじゃないでしょうか。もちろん母の待つ故郷鹿児島へも帰ったでしょうからね。教師は大変だけど、この夏休みがあるからガマンできると思っていましたもの。いい時代でした。でも、更にその昔は〝教師〟という職業はもっと良かったんですってよ。みんなから尊敬の目で見られて…。
写真は、我が家の収穫した〝ブルーベリー〟。今年は実がよく生っています。現在この籠の3杯を収穫しましたが、またかなり熟れていましたから、摘まないといけません。しかし、前摘んだとき、知らずにゲジゲジのような虫に刺されてしまって、それがいつまでも痛がゆくてたまりません。今度は気を付けないと…今までのは冷凍していますので、あと何回か収穫してからジャムを作ろうと思っています。できたらブログに載せますね。お楽しみに!