ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

3ヶ月ぶりの句会!兼題は〝茄子の花〟

2020年06月03日 | 俳句

 6月になった途端に予定があれこれと入り…また以前の忙しさが戻りつつあります。それで、ブログの方にも手が回りませんでした、と言い訳するなんて…、いけませんよね。ゴメンナサ~イ!

 早速ですが、昨日はO教室での句会。5月の時は1時間という制約でしたが、6月からは3時間までOKになりました。当然3密は避けて…ということで、広い部屋に1メートル以上の間隔をとって、窓は開けるというように。さらに椅子や机などは消毒液で拭きました。私じゃなく皆さんがですけどね。アハッ

 しかし、昨日の最高気温は26度、湿度も高くって何とも蒸し暑い一日…やっぱりマスクでぶっ通しで話すのは大変!皆さんに断って後半はマスクを外してやらせていただきました。不織布のマスクは息が籠もって段々中が濡れてきますので、余計に息苦しくなるのです。だからといって喋らない訳にはいきませんし、どうしようもないのです。これじゃあ真夏は熱中症になってしまうかもねとみんなで言い合い、納得です。

 句会は3ヶ月振りでしたので、〝私もですが、皆さんも頭の回転が鈍くなっていますね~〟といいますと大笑い。そうなんですね。本当に笑い事ではないんですよ。ピアノでもよく言うでしょう。3日間練習しないと、指がスムーズに動かなくなって、それを取り戻すには2倍も3倍も練習しなければならないと…これ、どこかで聞いたような。

 俳句だって一緒なんです。句を作ることをサボっていたら頭の中のピアノはすぐに錆び付いて鳴らなくなります。たとえもし鳴ったとしても、今度は不協和音を出してまともな演奏になりません。それと同じように、五七五の言葉が上手く絡み合って美しいハーモニーを生み出すことが出来なくなってしまうのです。全て何事も日々精進ですよ。

 ところで、今回の兼題は〝茄子の花〟でした。もちろん夏の季語。

  うたたねの泪(なみだ)大事に茄子の花       飯島晴子

 以前にも書きましたが、晴子俳句は難しい!なぜ?どうして?と、いくら発信してもそう易々とは応えてはくれませんもの。〝目にみえるものの向うに目に見えないものを見ようとする―見ようとするというより、見えてくるといった方がよいのかもしれない―のが、写生といわれる方法の本来の在り方なのではあるまいかと思う〟(「現代俳句と写生」)と述べているように、彼女にしか見えていない〝目に見えないもの〟が詠われているとするならば、それを理解しようとするのは私には到底無理のような気がします。

 晴子さんは、写生から入って写生で死んだといってもいいかも知れません。ご本人を全く知らないのですが、なぜ最後は自死という方法をとって俳句と決別せねばならなかったのかという…私の頭ではどう考えても及ばないことなんです。

 作句を始めた頃の彼女の「写生」は、実物・実景を見て、そっくりそのまま伝えられるような言葉を探すという作業だったといいます。ところが、ある日、意味を伝達する道具以上の言葉というもののありように気づき、その言葉の不思議さに取りつかれて、かつのめり込んでいったようです。

 〝言葉の偶然の組み合わせから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕(た)ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを経験した。そこに顕ってくるのは、私から少しずれている私であり、私の予定できない、私の未見の世界であった。〟(「言葉の現れるとき」)と述べているように、〝未見の世界〟を何とか現わそうとして〝言葉の深淵〟を覗き、そこに嵌まってしまったことが、最後は死へと向かわせたのでしょうか。

 〝形にして言い出されたことは今まで一度もないことを、形にしてみたい。詩人は詩で、小説家は小説で、それを追っているのであろう。そのなかには、俳句という特殊な釣針でなければ上げることの出来ないものが、必ずあるという強い畏れを感じる。〟(「女流俳人の抱負」)という。そういいながら〝俳句〟という釣針で未見の世界を釣りあげようとしているうちに身動き取れなくなっていったのでは…。いうならば、五七五と戦って、ついには御しきれぬということを悟り、最後は言葉と〝無理心中〟したような気もします。

 そんな彼女が、〝茄子の花〟を通してどんな世界を見たのでしょうか。それはそう簡単には説明できそうにありません。が、私には、あの茄子の花の楚々とした色合いや下向きに咲くという控えめな姿が、何となく〈泪〉に通じているのでは…そして、泪といえばやはり女性でしょう。ここはうたた寝から覚めたときの泪ですから、何か悲しいことがあってというのではないのです。人間は欠伸をしても目が潤むことがあるんですもの。

 そもそも泪というのは、眼球の涙腺から分泌される液体で、常に眼を湿し、かつ洗う役目のもの。それが、精神の感動や諸刺激によって分泌が盛んになります。しかし、この句ではそういう感情的な高ぶりはなく、平常の時なんです。それが〝大事〟といえるのは、そういう泪のでる我が身をいとおしく思っているからに違いありません。ほら、泪も出なくなったらもうおしまいよとなんて、よく言うでしょう。

 うたた寝から目が覚めると、あら泪が…と拭いた目に、大好きな茄子の花が見えた…、そういう何気ない日常生活の一齣。やはり〈大事に〉といったところに晴子さん独自の世界があり、それを象徴しているのが季語〈茄子の花〉だと。何だか分かったような分からないような解釈で…ゴメンナサイ!あとはあなたの感性で鑑賞して下さいね。

 句会の話はまたにしましょう。今日は病院の連チャンで疲れました。では、また…

 写真は、〝茄子の花〟です。残念ながら我が家は茄子を植えていませんので、写真はお借りしました。ゴメンナサイ!

 

コメント (6)
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