神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[映画] エンダーのゲーム

2014-02-04 23:30:38 | 映画

『エンダーのゲーム』


映画化権が売られたと聞いたのはずいぶん前のことだったので、もう永遠に実現することは無いと思っていた『エンダーのゲーム』の映画化だったが、遂に日本でも公開された。

オースン・スコット・カードの原作小説のファンなので、実は地雷作品じゃないかと思って警戒していた。なので、SF方面からでも割と好意的な作品紹介が多いことを確認してから観に行った。

映画のストーリーとしては、原作をほぼ踏襲している。しかし、残念ながら2時間に詰め込むには分量があり過ぎたようだ。薄っぺらにストーリーをなぞるだけに終わった感じ。これならば、TVドラマシリーズでやってもらうか、要素の数を減らしてもうちょっと深みを出してもらった方が良かったかもしれない。

特に、ただの粗暴な兄で終わってしまったピーターが不憫でならない。まぁ、あの当時のエンダーから見れば、粗暴な兄以外のなにものでもなかったのかもしれないけれど(笑)

映像的にはCGがなかなか綺麗だった。バトルスクールの窓から見える地球とか、バガーの生物っぽい編隊飛行だとか、女王の複眼や口元だとか。ゲーム内に登場するヴァレンタインの姿もリアルっぽいけれども、はっきりCGとわかるゲーム的な表現になっていて、ちゃんとわかっているスタッフが作っているのだなと感心した。

一方で、ボンソーの配役はどうかと思った。顔つきはいかめしいけれど、ビーン役よりちっちゃいおっさんじゃないか。なんだかイメージが違いすぎる。

バトルスクールでのエンダーと仲間たちの活躍は楽しかったけれど、エンダーやビーンの特殊な優秀さは出し切れてなかったような気がする。何より、あの有名な足を自分で撃つシーンが無いじゃないか。ビーンのぐるぐるはあったけれどさ。

しかしそれでも、「ゲートが下だ」に代表される名台詞たちはそのままで、それを聞く(字幕だったから読むだけれど)だけでもワクワクした。原作ファンにとっては、それだけで良かったかも。

問題なのは、あの唐突なラストを原作未読の観客がちゃんと理解できたのかということなんだけれど……。Movie Walkerのレビューを読む限り、大丈夫そうだ。本当に原作未読でそこまでわかるのかという疑問はあるのだけれど、映画ファンを甘く見過ぎですか。すみません。

でも、原作小説の方が絶対に面白いから。未読の方はぜひ!

 

 


[SF] 第二ファウンデーション

2014-02-04 22:50:09 | SF

『銀河帝国興亡史[3] 第二ファウンデーション』 アイザック・アシモフ (ハヤカワ文庫)

 

第1部が「ミュールによる探索」、第2部が「ファウンデーションによる探索」となっているが、これらの初出タイトルがそれぞれ、“Now You See It”、“― And Now You Don't”というのが素晴らしい。このままの方がよかったのに。

そのタイトル通り、第二ファウンデーションの正体を探るミステリ。

第1部では、銀河帝国を乗っ取り、ファウンデーションまでもを支配したミュータント、ミュールによる第二ファウンデーションの大規模な探索。そして、第2部では、ミュールが倒れた後に再興したファウンデーションで、ひとりの科学者の妄執と、その娘の冒険による第二ファウンデーションの探索が描かれる。

解説によると、アシモフは銀河帝国興亡史シリーズのプロットについて、行き当たりばったりだったと語っている。まさに、そんな感じ。おそらく、第二ファウンデーションの正体がこんな形になるとは、アシモフも当初は考えていなかったに違いない。

というのも、第二ファウンデーションの人々はミュールと同じような精神操作の能力を持つという妙な設定が、あまりにアシモフっぽくないからだ。どちらかというと、ヴォークトやハインラインのような感じ。さらに第2部の主人公が16歳の少女というのもハインラインのジュブナイル的。

第二ファウンデーションは第一ファウンデーションが失敗した場合の保険でも、第一ファウンデーションを囮とした本体でもなかった。その真実は、第一ファウンデーションを含め、銀河帝国とその周辺諸国の歴史がセルダン・プランから外れないように操る影の秘密結社だったのだ。なに、その陰謀論(笑)

でも、そうすると、銀河帝国の歴史はセルダンが心理歴史学で予見したものではなく、第二ファウンデーションに操作された歴史ということになるので、はたしてセルダンの予見が当たっていたのかどうかわからなくなるという矛盾をはらんだ結末になってしまっているのではないか。

もともと、セルダンの予見は銀河帝国が崩壊して3万年にわたる暗黒時代(知識や科学技術が失われた時代)が訪れるという危機だ。これを、1千年に縮めるために、セルダン・プランが練られ、その実現のためにファウンデーション(第一と第二)が作られたのだった。

しかし、第一ファウンデーションだけでも暗黒時代は防げたように思うのだが、第二ファウンデーションは何のために必要だったのか。たとえば、ミュールの支配が続いたとして、そのままでも科学技術が失われる暗黒時代が到来するようなことはなかったのではないかと思える。

最後にに否定された、「実は第二ファウンデーションなんか無かった」という説が個人的には一番納得がいく説明だった。第二ファウンデーションが存在するという人々の思いが、希望や倫理を生み出す礎になっていたのではないか。

個人の未来は予見できないが、集団の未来は数学によって予見できるとする心理歴史学の存在は、ともすれば(ひとりの力は小さいという意味において)自由意志の否定にも取れるが、精神操作を可能とする第二ファウンデーションの存在は、さらに自由意志を輪をかけて否定する。その意思は本当にお前の中から生まれてきたものなのか。ミュールや第二ファウンデーションに操られたものではないのか。

そう考えると、なんだかうすら寒い結末のようにも思えるのだけれど。

 


[SF] ファウンデーション対帝国

2014-02-04 22:47:11 | SF

『銀河帝国興亡史[2] ファウンデーション対帝国』 アイザック・アシモフ (ハヤカワ文庫)

 

落ち目とはいえ、ただでは滅亡しない銀河帝国。その再復興の中でファウンデーションとの対決が始まる。

この時代、ハリ・セルダンは忘れ去られたわけではないが、その予言の内容は万人に浸透しているわけでもなく、はたしてファウンデーションが生き残れるかどうかに確信が持てなくなっている。

しかし、最終的に、セルダン危機のレベルにさえ達せず、帝国は自滅してしまう。この自滅の仕方はあまりにもあっさりとしており、主人公たちの活躍や葛藤が無意味になってしまう様は滑稽でもあり、哀れでもある。

やはり、歴史的一般論と、ご都合主義の物語にしか、まだ読めない。ただ、主人公たちの活躍の無意味さが、微妙にズレを見せている。これは第一ファウンデーションの限界が徐々に姿を見せ始めたということか。

 

続いて、ハリ・セルダンのプランを突き崩す男、ミュールがついに登場。他人の感情をコントロールできるという超能力によって、銀河帝国を支配し、ファウンデーションをも打ち破る。

物語はミュールの正体と、第二ファウンデーションの位置をめぐるミステリとなっていく。

ここで心理歴史学の限界が明示される。分子ひとつひとつの動きと気体の性質の比喩に従えば、ミュールの存在は気体に加えられる外部エネルギーとでも言うべきか。これにより、人類の歴史はセルダンの予見から外れていくことになる。

しかし、おそらく、セルダンはこの事態をもすでに予見しており、これに対する方策として第二ファウンデーションを用意したということ。ここからアシモフがどんなトリックを仕掛けてきたのかに期待がかかるが、第二ファウンデーションの真実については、第3巻へ持ち越し。

 

さて、ファウンデーションの人々が考えるセルダン危機というのはどういうものか。セルダンはあまりにも天才的であったために、未来の歴史をほぼ正しく予見し、それに対する正しい方策を準備することができた。それが故に、セルダン危機は“ほうっておけば解決する問題”に過ぎなくなってしまった。

「天は自ら助くる者を助く」の言葉通り、天命に頼って何もしなくなったことがファウンデーション弱体化の原因なのか。たとえば、何もしないで流されていればお金持ちになれるよと予言された少年がいたとすれば、こんな感じになるのかもね。

でも、運命というのは、実際問題として、そんなにうまくいくものじゃないということだ。

 


[SF] ファウンデーション

2014-02-04 22:43:58 | SF

『銀河帝国興亡史[1] ファウンデーション』 アイザック・アシモフ (ハヤカワ文庫)

 

積読消化。

実は大学生のころに創元版を読んでいるのだけれど、いまひとつピンとこなかった。今回は新銀河帝国興亡史まで含めて揃えたので、このシリーズがどうしてそこまで人気があったのか確認してみることにする。

第1作の『ファウンデーション』を読んだレベルだと、感想は以前とあまり変わらない感じ。詳しい内容はほとんど覚えていなかったとはいえ、うーんといったところ。

まず、心理歴史学の万能性と胡散臭さが気になる。『ファウンデーション』のレベルだと、歴史心理学による予言性というよりは、ただの統計学ですらなく、常識的な一般論にしか聞こえてこない。

これが、第二ファウンデーションの位置付けや、はるか未来までを見据えた計略が明らかになった時点で、本当にすげーと思えるかどうかがカギなんだろう。

しかし、心理歴史学とハリ・セルダンの予言を差っ引き、未来叙事詩と見た場合にはそれなりに興味深い。天下三分の計ではないが、4か国の睨み合いを利用した外交の安定化戦略。宗教による支配から、貿易経済による支配への変遷。こういった過去の歴史を普遍的事実として外挿することによって生まれる未来の物語。

しかし、このままでは、まだ心理歴史学なんてものを持ち出すまでも無い、一般論でしかないのだよね。もっと、驚くような仕掛けが待っていると信じたい。

一方で、各エピソードの魅力はというと、ちょっと説明的な記述が多すぎて、スリリングさに欠けるような気がする。アシモフの短編だとどうしてもそうなってしまうのかもしれないが、ハリ・セルダンの予言もあって、必ず成功が約束されている感じがしてしまう安心感の方が強い。結局、興味は、問題がどのように解決されたのかというところに移ってしまうのだが、このあたりもご都合主義といえなくもないレベル。

それが、ご都合主義ではなく、心理歴史学として予言されていたということがこの物語のミソなのではあるが、そうなると今度は心理歴史学が万能の魔法になってしまうという……。

ということなので、昔読んだのと同じように、いまひとつ乗り切れない感想のまま、『ファウンデーション対帝国』へと進むのであった。