神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[映画] 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN

2015-08-08 22:28:27 | 映画

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』


[c]2015 映画「進撃の巨人」製作委員会 [c]諫山創/講談社

 

立川シネマシティ(シネマツー)の極上爆音上映にて。

一部で酷評されるけれども、そんなに悪くなかった。原作やアニメの『進撃の巨人』のどこが好きだったのか、何に期待していたのかで、大幅に評価は異なるのだろう。

特に、キャラ好きのファンに不評なのは理解できる。どうせなら、全員の名前を変えてしまえば、エレンもミカサも出てこないならと、見に行く人は減っただろうに。(それじゃダメか!)

シナリオ改変も不評だけれど、実はこれはこれでかなり練られた構成になっていると思う。それが成功しているかどうかは、各人に評価をゆだねるにしても。あからさまなダメダメシナリオでも、作品に愛が無いわけでもないよ。

とにかく問題なのは尺。全後編二部作編成とはいえ、徹底的に尺が足りない。そこで時間のかかるエピソードはすべて省く。それでいて、『進撃の巨人』としてのストーリーを成立させる。今回の実写版におけるストーリー上の改変は、ほぼそのためのものだろう。

エレンとミカサの関係については共同脚本の町山氏が事前に述べていた通り。
「町山智浩 実写版映画『進撃の巨人』を語る」

ミカサがあれだけエレンを慕う理由を尺の中で描ききれないから、巨人来襲後のエピソードでそれを組み上げようとした。それが、エレンの地獄と贖罪。ミカサを助けられなかったエレンと、エレンに見捨てられたと思ったミカサだが、再会の果てに立場が逆転する。残酷な世界は二人の絆を強くする。

そして、過酷な訓練を描く時間が無いからこそ、調査兵団は精鋭部隊ではなく、巨人の餌として同行する素人集団になった。これで調査兵団の隊員が阿呆すぎなのはシナリオ上の要請となった。

石原さとみ演じるハンジだって、今のところ原作よりも無知で、ただのエキセントリックなお荷物キャラ扱いっぽい。リヴァイじゃなくてシキシマの方が、よっぽど真相を知っていそうな気がする。

これだけ改変されていても、原作どおりのシーンや台詞が登場するのが、返ってパロディっぽくておかしかったが、限られた時間の中で、どこまで何を再現するのかを徹底的に考え抜いた結果がこのシナリオだったんじゃなかろうか。

逆に、そこから切り捨てられた部分や、改変された部分に思い入れがある人には受け入れ難いだろう。

あと、まったく『進撃の巨人』を知らない人にも、何が起こっているのかわからないから、粗ばかりが目立ってポカンとする状況になるかも。そういう意味ではターゲットが狭すぎという感じではある。

しかしながら、これらの改変はすべて、原作者である諫山創の許可済みどころか、一部のネタは本人の発案だからな。原作レイプと言っているやつは、ちょっとピントが外れている。

個人的には、原作とは違う結末を迎えることが約束されたこの映画が、地下室も雌型の巨人も無い中で、どのような結末を迎えるのかに俄然興味が出てきた。すべての評価は、それ次第だ。

後編も、ぜひ見に行こう。もちろん、極爆で!

 


[SF] ゼンデギ

2015-08-08 22:17:15 | SF

『ゼンデギ』 グレッグ・イーガン (ハヤカワ文庫SF)

 

イーガンの新作だと思って期待して読んだら、ちょっとびっくりした。

第一部の舞台となる2012年(原書刊行は2010年)のイランにおける市民革命は前振りだとして、2027年の第2部ではイーガン流のぶっ飛んだ理論が見られるのかと思いきや、主人公マーティンの余命が短くなるにつれて残りページ数も少なくなり……。

扱っているネタは『順列都市』や『ディアスポラ』に近いのだけれど、その扱い方がまるで正反対。古くは人間なんか添え物といった物語を展開していたのに、今度はなんと人間の心、気持ちが焦点だ。イーガンって、人間的倫理なんてくそくらえって作風じゃなかったっけ?

ゼンデギとはペルシア語で“人生”を表す言葉であり、より具体的には、作中に登場するバーチャル空間を示す。ユーザはヘッドマウントディスプレイやフィードバックグローブをつけ、ランニングマシーンのように床の動くカプセル状の空間に入って体感ゲームや参加型ムービーを楽しむという趣向。

ここで重要になってくるのが、ユーザやネットワーク経由の参加者以外の、いわゆるモブといわれるNPC。ドラクエなんかでは「ようこそ、○○へ」とか、「僕は悪い魔物じゃないよ」とか、固定した台詞しかいえないモブキャラが、AIの進化によってある程度、人間と変わりない反応を示すようになる。

そして、その先で問題となるのは、どうやったら人間のように反応するAIを作ることができるのか。どこまでなにをシミュレートしたら、人間と区別が付かなくなるのか、ということだ。

この物語中では複数のアプローチや考え方が紹介され、重要なキーポイントになっているところが興味深い。特に、人間と区別が付かなければいいという考え方は、古典的なチューリングテストの概念を発展させたもので、とにかく計算量の許す限り何でもシミュレーションしようという概念とは異なる開き直りがあって面白い。そこでは意識とは何かという問題は華麗に切り捨てられている。

で、結局のところ、SF的ネタや意識や知性の問題は背景に過ぎなく、死にゆくマーティンが息子に何を残せるのかと葛藤する物語になっている。過去のイーガン作品から考えると、短編を無理矢理長編に引き伸ばしたような感じがして、どうもにも違和感があった。求めているのはそうじゃないというか、それならイーガンじゃ無くてもいいというか。

でも、短編にはこの手の作品もいろいろあるので、イーガンの作家としての本質はこっち側なのかもしれないね。