細い枯れ草の茎に止まったエサ捕り場、下には多摩川に注ぐ支流で、二ヶ領用水の取水口です。しばらく止まって、いろいろな表情を見せてくれました。
標題は物々しく、世間に伝えるようなものではないが、家系図の作成を通して、自分を見つめ直し、その過程で、自らが生きた時代の尊属や卑属との関わり合いを思い起こしてみたいと思った次第である。最近の自分史出版ブームの自分史は、他人が読んでも決しておもしろいものではない。まして、平凡な生活の中で、記録すべき重大な事象に出くわすことや、他人に感動を与えることなどには、ほとんど無縁といえる。
では、「人はどうして、自己満足にすぎない自分史を作ろうと思うのか?」、「誰に何を伝えたいのか?」、「伝えることによって、何がどう変わり、何に影響するのか?」等々、無駄なことをと思いつつ、何か形あるものを残すことへの執着を捨てきれないのは、たぶん、年を重ねたせいばかりではなく、生きた証を求めているのかも知れない。認知症になってからでは遅いので、記憶が残っている間にと思うのも自然の道理といえる。
人は誰しも生誕地、両親や性別、生まれてくる時代、家系等を選べない。すべて偶然のなせる技であり、賜である。誕生する前には個人情報など何も無い。生まれた後の後天的な諸事に我が身を投ずることによって付加され、人格を形成し、自我の成長で人間生活を営んでいるが、親や祖父母に体型や仕草が似るように、遺伝的情報や、先天的な性行は無視できるものではない。
この世に生まれると、命名され、同時に、家族に属し、家系に配置されることになる。死を迎え、この世に我が身が尽きるまで、自らの存在は改名や、離縁や養子縁組など戸籍上の変更や抹消を行ったとしても、実態として別人が存在するわけではなく、生誕時のしがらみから逃れられるものでもなく、幸か不幸か一生涯持ち続けることになる。