神代植物園の温室は現在改装中です。この写真は昨年撮ったモノです。
青森、弘前のねぶた祭り、山形花笠祭り、秋田の竿灯祭り、仙台の七夕祭り、岩手のさんさ踊り等東北の夏は祭りで盛り上がる。祭り好きの御仁にはたまらない魅力があるらしいが、ツアーやパックにした旅も人気がある。暑い時期を東北、北海道で過ごそうと思うのは避暑感覚があるのかも知れない。必ずしも涼しいわけではなく、この時期は、東北でも30℃を超える暑さが続く。山背(やませ)が吹くと一気に気温が低下することもあり、冷夏による農作物被害が出ることもある。
本来の素朴な祭りが、発展して、イベント化され、集客の手段となるのは致し方ないが、8月は旧盆、盂蘭盆会との関係が強いのであるが、見えないものへの感謝の気持ちが根底にあることは確かで、盛大に祝う又は、壮大な形に変わっていき、見物から自分が主役となり、演じる世界が産まれる。参加することの一体感は現実からの逃避も含む感情の現れかも知れない。リオのカーニバルは将にその代表ともいえ、1年間働いた賃金の多くをカーニバルに投入するといわれている。グループ同士が意匠や企画で競争し、賞金も用意されている。泡沫(うたかた)の気持ちの高まりを享受するのである。
イベントが持つ魅力は、その継続性や何かの理由で消滅した祭りの復活などを聞くに付け、日本人は外見からすると真面目で、物静かな国民であるとの評判は、祭りになると豹変するのは何故であろうか、大勢の参加者に囲まれて自らの存在を確認するためか、鬱積した日頃の抑圧からの発散であるのか、現実逃避であるのか、ハレとケの使い分けをしているのか、信心深く、祭りに秘める根源に敬意を示す行為であるのか等思い付く原因を考えてみたが、どれも当たっているものの、一言では表現出来ない、カオス的な混同と交錯があるようで、むしろ、一言に絞ることの意味はないのであろう。
我が家ではこの時期、ささやかではあるも、先祖の霊を迎える。岐阜提灯も納戸の奥に仕舞ってしまい、この時期出すこともなくなった。近所の市営墓地に墓掃除には行くが、地元の寺の檀家ではないため、住職を呼ぶことはない。親戚も遠方にいるか、多くは他界し、従兄弟との行き来も殆ど無いため、お盆だからと雖も平日と全く変わらなくなってしまった。そうなることを防ぐ知恵で、敢えて祭りという形を作ってきたのであろうか、先祖返りは、未来を確定出来ない人の世の不安を、歩んできた過去を確認することによって、平安であるとの思いを確実にする手段でもあるとの思いに至っている。