一カ所から2輪咲いたカトレアを時間を追って撮影しました。
8月に入ると毎年、広島や長崎に投下された原爆投下で被災し、原爆症でなくなった方への鎮魂とご冥福を願う式典が催される。終戦記念日や旧盆とも関係してか、祈りや死者への弔いが盛んとなる。終戦後70年が経ると多くの方が亡くなり、大戦の経験者は年々少なくなっている。このことは戦争が引き起こした数々の体験が後世に伝わらない、又は伝わりにくい状況を生んでいる。
特に戦争体験者や原爆体験者が口を揃えていうことは二度と戦争を起こしてはならないということに尽きる。幸い、戦後に生まれ、戦争の記憶が全くない世代が殆どとなると、戦争の記憶や戦争が産む悲惨さは日々遠のく。言葉としては受験戦争や、現在も継続している資源争奪戦争、中東IS(イスラム国)戦争等規模の大小はあれ、新聞紙上で伝わってくる。戦争とはいわないまでも、人間同士が殺し合うことは良くないこととされていても、厳に起こっている状況はノスタルジックな話ではなく、リアリティのある実態である。
今世紀に入っても殺戮兵器の開発は留まるところはなく、近隣国においても核兵器を保有し、我が国の脅威となっているのは疑いようもない。我が国は戦後生まれた憲法で、戦争の放棄を謳っている。現在、国会での集団的自衛権を恒久法とする議決案が衆議院を経過し、参議院で審議が成されている。憲法擁護への道筋を変える判断が成されているが、何れは成立することであろう。
確かに、我が国から攻撃することはないにしても、国益に反する行為や、国民に被害が及ぶ様な周辺事態は、可能性として有る以上、十分な防備を行うことは自然であり、当然であろう。
そこで、世界で唯一原子爆弾の被害を受けた我が国が、機会あるたびに世界へ対し核兵器の拡散の防止を叫んでみても、一向に核兵器が減らない実態をどのように見ればよいのか、戦争体験の悲惨さを訴え続けること、外交を通じてトップレベルでの協議や提案、はよいとしても、賛同を得て、我が国と共に協働する国が増えているとは到底思えない。伝承の大切さは分かっていても、将来、戦争のない世界が人類にとって最も必要であると力説するだけでは、実現性は低いし、その虚しさは拭えない。
衣食住が揃って礼節を知るとの中国の古い諺があるが、世界には我が国の様な衣食住が揃っている国は少ない。多くの国が、戦争の火種を抱え、困難な状況に置かれている。我が国は国連への拠出や、発言力を増す各種の施策は継続し、拡大していく必要がある。将に今、我が国が現実を見据えた行動しなければならないときであり、重要な局面に立っているとの認識を持ち、近隣国との融和は当然で、国を挙げて、国民の積極的な取り組みが答えを導くことになろう。