我が家のサギソウは2輪咲いた後、猛暑が続き写真を撮るまで行きませんでした。3年前の写真ですがバックを色替えしています。
訂正や変更は業務に携わるかどうかにかかわらず、また、十分考察したにもかかわらず、判断後や選択後に起こり得る。間違いは誰にでもあり、起こりえることとして、最小限にする努力は欠かせない。間違えたことを錯誤というが、法律に基づいて、人知を尽くしたことであっても、法律において、錯誤は認められている。かといって、度重なった場合や、不注意や、ケアレスミスで片付けるには許されない場合もあり、謝るだけでは済まされなくなる。信用問題に発展するからである。
では、どのようにして間違えを起こさないようにするかであるが、経験をベースとした独断と偏見を捨てることであろう。物事の判断は日常に存在することで、例えば、室外に洗濯物を干して出かけたら、暫くして雨が降り始めた。天気予報では雨は降らないとの予想であったが、傘を持って出かけなかった。交差点で横断歩道が青であったが、途中で赤に変わり、車の影にいたバイクにはねられた。等経験が時として通用しないことがあり、最悪の事態を招くこともある。
判断の甘さが結果を招くのであり、予測はあくまでも確率であって、100%を保証するものではない。交通事故は、相手があり、事故を起こす確率は自分一人であれば100%安全であっても、人数や様子が変わるとその確率は落ちる。常に過去の経験は役に立たないと考え、その場の状況を新たな事象として認識する必要がある。
雨に打たれて洗濯物が濡れても、傘を持たずに雨に打たれることなど、大したことではないが、自分の判断ミスで、大きな事故を起こせば、その損害の責任は免れない。人命を失うことに繋がれば、その補償たるもの一生涯働いても返済出来ない額となる場合もあり、責任回避は出来なくなり、錯誤では許されない。
喩え従業員が起こした事故であっても、組織を代表する者が謝罪しても、刑事、民事の訴訟の対象となり、職を辞さなければならない例は多くある。法律は個人を守るのであるが、逆に、被害を及ぼせば、物であれば損害賠償が発生し、現状に復帰することが出来れば良いが、人命については生きていれば得ることが出来たであろう金額に慰謝料を含め補償することになる。
生活していると多くの事柄に遭遇する。過去の経験で済ませることも多いが、常にその通りとは行かない。経験とはそのようなもので、判断に至る過程では条件を考え、選択肢が幾通りもあるとの立場で、対処せざるを得ない。経験は信じるに値しない場合もあることを認識すべきであろう。