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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

伝承の考察その4

2015年08月13日 00時00分01秒 | 提言

 現在の教育や教育訓練は広い意味で伝承の範疇にはいると思っている。我が国の教育はそもそも後天的教育を念頭に置き、よく言われている先天的な個人が本来持っている能力に対して、本人の個性を勘案して育むことは行ってこなかったのである。教育対象者を集団で捉えれば、出る釘は打たれるし、伸びる要素は無視され、摘み取られる。画一化された指導要領に沿った時間割通りに授業をこなす方式を続けてきた。

 

 個人の秘めたる能力は、探求される機会や試みはなく、教師陣が行ってきたのは外見上の違いを能力差と錯覚して、つまり、ベーシックな外見上に現れた幾つかの物理的な要素を内面的な性格として混同してきたことに他ならず、決して踏み込んで、内面的な要素を把握してこなかった。心理的なテストを行ったとしても、点数化し、個別的な教育の適応に利用するのではなく、単なる成績の一部として計上してきたに過ぎない。集団教育が大学卒業まで続くため、世界一従順で、集団化する特性(ドングリの背比べ)、普遍性や合理性を強調する形式陶冶といわれる部分で、その方向に沿った人間が出来上がったため、新たな挑戦や、答えのない、又は複数解がある世の中には不適応現象を生じる。ストレス社会現象が生じている状況を見過ごすわけにはいかない。

 

 伝承の負の部分が、教育にも多いに影響している。特に道徳、古文、日本史、世界史等の教科は過去の出来事を現代にも適合出来るとするとの考えであり、時代による変化(過去の事象と現代の事象が同じではなく、普遍性・再現性も殆ど無い)が十分考慮されてはいないため、過去の出来事と将来起こる可能性が異なる点については、学習者独自が判断しなければならず、ミスリードする結果を招いている。

 

 教師は一般的に世間を見る目が狭く、社会を知らない。ベースとなる形式陶冶及び実質陶冶を含め、教師という職業を産むシステムが余りにも柔軟性を欠いた世界であることは、多くの知識人が認めるところであり、教室での一人親方すなわち独断性と権威を兼ね備える環境に置かれる。決して良い教育環境を産むとはいえず、むしろ、伝承等の不確定要素が高い教科を教わった者からすれば、反面教師として卑下されていることがまかり通っているのも納得出来る。

 

 過去の事象は事象として認めることと、普遍性・再現性への誘導は全く次元が異なるのであるが、都合良い語り部は脚色を排除しても尚信じるに値しない尾ひれがついて回ることは避けられない。特に、不幸な目に遭えば、同情をかう気持ちが生じる。だからといってミスリードは厳に慎まなければならないのである。