鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

クリスマス商戦以前

2016年12月26日 00時00分01秒 | 提言

 キリスト教のキリスト生誕を祝うことの始まりは、前夜祭という儀式を仏教徒が多い我が国に定着し、プレゼント交換や、家屋のイルミメーション、商店街はクリスマスケーキの販売等教会とは別の方向で活性化している。どうも気になるのであるが、仏教や神道の儀式は、商戦が起こるほどの活況が見られないし、年々大衆の心から離れて行っているようである。

 

 仏式や神道での結婚式や葬儀はあるものの、この変化は著しい。昨今、仏式の葬儀といえば家族葬が浸透している。数は少ないものの、墓を持たない樹木葬や、海への散骨等形が変わってきている。神社ではあまり問題があるとは思えないが、廃寺や、檀家の縮小によって、経営が成り立たない寺が出てきている。古くからあるお彼岸やお盆は律儀に先祖や亡くなった親族の供養を行う家庭は多いものの、仏教の創始者である釈迦や神道の天照大御神はその生誕を祝うことはないし、クリスマスのような華やかさはない。

 

 今更どのように変えていくのか、名案があるわけではなく、今の流れを注視するだけであるが、関係者の大衆離れというか、ありがたさや尊さの心情に変化があり、身近に感じなくなってきたかもしれない。都会は特にその傾向が強い。人心から離れた宗教は単なる古い神社・仏閣など観光資源となっているし、心のよりどころではない存在と変わってきた。大衆が持つ交通安全、合格祈願、家内安全、商売繁盛等の願いは変わってきたわけではないし、新年を迎えるにあたっては、来る年が良い年となるよう願うのは至極当然なこととなっている。

 

 では、仏教や神道の教義といえば、どちらも大衆には分かりづらいし、現代風ではない。ことさら、哲学的な深さばかりが目につき、大衆受けできない高さまで上り詰めた感がある。必要なのは、基本的な行動であり、相手を思う気持ちであり、先祖を敬う等の心情でもある。一般大衆の生活から遊離することではなく、本音で当たらなければ、益々人心から離れてしまう。考えなければならないのは、見かけの儀式にこだわる宗教者の姿勢なのである。オープンな施設であることも大切なことであり、敷居が高ければ低くするほかはなく、率先して現在浮上している社会問題に対峙し、例えば、高齢者介護や、若い世代の育児等へ踏み込めるかが大切なポイントとなろう。

 

 関係者に対しては、何もしないで現在に至ったわけではないであろうが、大衆を巻き込む施策なり方策が見える形で取り組んでほしいと願っている。