キンクロハジロも時々見られるようになりました。
毎年の恒例であり、制度自体をとやかく言う必要はないが、安易になりすぎているきらいがある。非常にストレートな方便で、早い話が、無心である。何らかの事情で、社会福祉の支援に頼らざるを得ない人々がいるのは事実であり、義援金という形をとるのは、古くからあった。記憶に残っているのは、社会鍋(広場に三脚を立て、そこに大きな鍋をつるす。いうなれば賽銭箱である。)というキリスト教徒が作る慈善組織で、確か、救世軍といっていた。最近はほとんど見ることもないが、解散したのか、現在でも続けているのかは定かではない。
欧米に比べて、一般人が自然災害を除き、義援金を出す習慣はないが、年末に限らず、町内会からのルートで、半ば強制的に、寄付金を集めている。赤十字社がその受け入れ窓口になっている。しかしながら、集まった金額の使途については、ほとんどが明確にされない使途であり、何処かで収支を公表されているのであろうが、関心がなければ、わからないし、あまり詮索もされていない。おおらかといえばそれまでであるが、自慢ではないが、ちゃんと集金できるシステムは確立している。
そのバックグラウンドといえば、利益の一部を社会へ還元するといった思想が定着していないわが国だからかもしれない。欧米のキリスト教社会では、毎週の礼拝時には、必ず、教会への寄付が行われている。企業ばかりではなく、キリスト教徒全員が子供のころからしつけられる慈善という行為であるからだ。
では、イスラム教徒についてはどうであろうか。これはイスラム教徒も同じで、教徒が行う五行の一つにザカート、日本語にすれば喜捨である。貧しい人のために施しを行うことである。さらに、もっと貧しい人には貧しい人からの喜捨がある。宗教観なので何とも申し上げられないが、喜捨することが善行であるからで、これに異論を唱える人もいないようである。
一方、仏教は、確かに喜捨という言葉が日本語にある以上、行われている。東南アジアの仏教徒では、修行僧や坊さんへは、托鉢時に、炊いたご飯や金銭、蓮の花などを手渡している。我が国では一部、永平寺などで修行僧が托鉢を行っていて、各家を回り、食材を集めることが行われているが、自分の住む地域では多くの寺社においては全くそのようなことは見られないし、行われていない。その意味では裕福であり、住職自らが托鉢に歩くことは皆無に近い。ともあれ、ボランティアも定着してきたが、金銭だけに頼らない善行について再度考えてみたい。