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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

意思・責任・権力

2020-04-25 02:11:21 | 社会

(略)
>その通りだと思う。責任をとらずに済ませるから、過ちを繰り返す。 > 福島原発事故も同様だ。 >あれだけの事故を起こしたにもかかわらず、誰も責任をとらない。 >なぜ事故が起きたのか。 >なぜ事前に津波や電源喪失の危険を指摘されていたにもかかわらず、対応しなかったのか。 > 事故が起きたのは偶然じゃない。 >必然だ。 >事故を未然に防ぐ努力を怠った人間がいる。 >なぜそうした人間に責任をとらせ、刑罰を与えないのか。 >安全だとウソをついた人間も同様だ。 >あれだけの原発事故を起こしても、誰も罪に問われない。 >だからまた平然と原発再稼働をする。 >しかも原発再稼働しても誰も責任をとらないようになっている。というかみな責任の押し付け合いをしている。

実に不思議な現象ですね。
日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。意思の無い人間ばかりでは、責任の所在はつかめない。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので日本人は意思 (will) の表明はできない。だから、日本人には意思がない。

>電力会社なのか。>政治家なのか。>官僚なのか。>地元住民なのか。>県知事なのか。>「安全だから動かす」といいながら、事故が起きたら「それは自分の責任じゃない」と、みんなで責任の押し付け合いをしている。

そうですね。日本人には意思がない。だから責任もない。責任観念すら存在しない。 ‘無いない尽く’ しですね。
利口そうに見える日本人も、実は信頼できない人間ですね。

>責任をとらないくせに、目の前の金欲しさに原発を再稼働する。> 再稼働するならもし事故が起きたら誰が悪いのか、責任を明確にしろよ。>その上で、事故が起きたら誰がその損害を弁償するのか、責任を明確にしろよ。> 事故が起きたら加害者のくせして、みな被害者ずらして金をせびる。>とんでもない横暴だ。

そうですね。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)  

(略)

> 犯人探しをせず、責任をうやむやにすれば、また同じ過ちを繰り返すことになる。>誰が悪かったのか。>誰が決定したのか。>誰に責任をとらせるべきなのか。>そういう視点でニュースを見て、責任を明確にしていかないと、日本は再び愚かなる戦争、愚かなる原発事故、愚かなる企業不祥事、愚かなる税金の無駄遣いを繰り返し、自滅していくだけだと思う。

そうですね。
 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)


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がんじがらめ

2020-04-24 14:30:48 | 社会
>日本での生活は、がんじがらめ。

そうですね。日本人には意思がない。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから日本人には意思 (will) がない。意思の無い人間は他人からの指示を待っている。いわゆる指示待ち人間である。こうした人間には、がんじがらめの感がある。

>違和感・不整合感が腹の底でたまってる。

自由とは、意思の自由のことである。意思の無い人間には自由の価値もない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ の暮らしをしている。自由世界の中での不自由な暮らしには違和感がある。言語に基づく不整合感は説明が難しいので腹の底にたまったままになる。

>・・・日本人はまた我慢強いから、表に出さない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には意思がない。仕方がないから無為無策でいる。だから、我慢強くなくてはならない。座して死を待つのか。泣けてくる。

> 街を行く人や電車に乗っている人の表情が暗いのも、自分の中に溜めているから。

そうですね。我慢していても希望がやってくることは無い。だから、我慢の先に光が見えない。意欲減退する中で、’頑張って’、’お疲れ様’ とお互いに声を掛け合って励まし合って働いている。

>でもだんだん我慢できなくなってきた。

そうでしょうね。そのうちに爆発しますね。ガス抜きが必要ですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。Seeing is believing. 簡単である。考える必要がない。答えはただ一つ存在する。楽ちんである。
非現実・考えの内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。その内容を知るには文法に従ってその文章を理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常文章の理解はしない。
日本人は理解の代わりに忖度 (推察) を使っている。そして、日本人特有の忖度を理解だと思いこんでいる。だから、欧米人との対等な付き合いができない。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)  



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無責任体制

2020-04-23 11:41:57 | 社会

>307638 無責任体制が日本を壊滅させる。・・・①>松本幸二 ( 60代 事務 )   15/09/10 PM08 【印刷用へ】
>違憲法案、東芝粉飾会計、新国立計画・五輪エンブレム白紙撤回等々問題現象を見ていくと、日本の社会現象として何処に問題の原因や責任の所在を誤魔化す風潮。 >それを紹介します。 > 『戦争も東芝も原発も新国立競技場もすべては無責任体制~なぜ日本はバカな過ちを繰り返すのか』 > BLOGOS⇒リンク >以下転載開始 >・・・・・・・・・・・・
>戦後70年が過ぎ、再び戦争を始めようとしている日本。 >原爆を2度も落とされ、絶対に安全だと言いはったのに、世界最悪の原発事故を起こしたにもかかわらず、火山活動が活発になっている鹿児島で原発再稼働をする日本。 >なぜ日本はバカな過ちを繰り返し、自滅を繰り返すのか。

それは、日本人が真面目な反省をしないからでしょうね。

>それは無責任体制だからだ。

そうですね。とかくこの世は無責任ですね。

>誰も責任をとらない。

日本人には当事者能力のある人は見あたらないですからね。

>誰も責任をとらせない。

わが国には、意思というものが存在しない。であるから、人に責任を取らせるわけにはいけませんね。

>責任がどこにあるか明確にされない。

意思がなければ責任自体もない。責任者がどこにいるかを指し示すわけにはいきませんね。

>誰も処罰されない。

責任のある人が存在しなければ、その人の無責任を処罰することもできませんね。全てわが国においては ’ナイナイ尽くし’ ですね。世の中は、過不足なくなりたっています。

>だから問題が起きても、うやむやなまま、また同じ過ちを何度となく繰り返すのだ。

そうですね。日本人の言動は意思によるものではない。 それは、事の次第・成り行きにより決まるものですからね。
責任とは、英語で考えれば応答可能性 (responsibility) のことである。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 
だが、日本人には意思がない。だから、日本人は仕方なく無為無策でいる。そして、応答可能性もない。
意思は未来時制の文章内容である。しかし、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。意思の無い人には責任もない。
これは、ちょうど死刑執行人の場合と似ている。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意というものがないからである。
意思の有無は有罪・無罪の決め手になる。日本人はその決め手を欠いている。だから、その言動にとりとめがない。

日本人が意思決定に難渋していることは、明治以前から外国人により知られていた。
フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)  

我々日本人は、日本語と英語を良く学び、時制の重要性を深く理解する必要がありますね。さすれば、自己の意思の表明も可能になり、外国人とも意思の疎通が可能になります。外国人からも信頼も得られます。国際協力により未来社会の建設に主な役割を果たすことができます。
英米人は日本語を話す時でも閉塞感に苛まれたり、自己の意思の表明に難渋することはありません。彼らは日本語に頼らずに考えることができるからです。我々も彼らのやり方を真似れば国際社会においても理解が得られます。これが我々の努力すべき道でしょうね。

(略)


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行動

2020-04-22 22:34:53 | 社会

>この星は、行動の星だよっていつも言ってるんです。> 地球は行動の星なんです。

難しい表現ですね。

>どういうことかって言ったら、例えば幸せになりたかったら、行動しなきゃいけないってことなんです。> 待っていても、誰かが幸せにしてくれるわけじゃないんです。

そうですね。’他力本願・神頼み’ では幸せは達成されませんね。

> 行動することが意志なんです。>で、間違ってたら直ちにやめるのが意志なんです。

そうですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 

> 間違ってても、「我(が)」を通して言い張ったり、なかなかやめようとしなかったりするのを頑固っていうんだよね。 

日本人には意思がないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂としている。

>だから間違ってたら、すぐやめればいいの。

分かっちゃいるけどやめられない。

>だから、行動しながら「自分は間違ってるんじゃないか」って常に疑問を持ってて、間違ったらすぐやめる。>いったんやめたら、そのままずっとやめちゃうんじゃないよ。 >やめて、間違ってたところを改めて、また挑戦するっていうこと。

そうですね。矛盾を含む文章は、その矛盾を取れ除けば正しい考えを示すものとなる。この目的には、対話・議論が役に立ちます。ですから、対話・議論を盛んにしましょう。

> 頑固な人は、それをやろうとしないの。> 間違っててもやめようとしないからみんなが迷惑しちゃうんです。

そうですね。

> 例えば、自分がいじめられたら、すぐ先生に言う、警察に言う、親に言うんです。 >10円取られても脅し取られたとか、触られただけでも殴られたとかね。 >ともかく、嫌なやつ、自分をいじめるやつにとって嫌な人間になるように努力すれば、絶対変えていけるんだよ。 >だんだんいじめられなくなる。 >で、この世で自分を助けるのは自分なんだって思って行動するの。

Heaven helps those who help themselves. 天は自ら助くる者を助く。

> 自分の力だけでどうしようもなかったら、周りを、例えば親なり先生なりを巻き込むんです。 

集団安全保障の原理ですね。

>そのための行動が必要なんです。

そうですね。自己の自由意思の内容を行動に移す必要がありますね。

>けんかで勝てないんだったら、周りを巻き込んで、正義の戦いをするという、勝ち方をしていかないといけないんです。 > 正しき者は必ず勝つ。 >おまわりさんが守ってくれるからね。 >おまわりさんは全員ピストルを持っているからね。 > 自分にはすごい味方がいるんだと思って、堂々と戦う。 > 『成功力』マキノ出版 

‘正義は力’ ですね。Might is right. アメリカは日本に勝利した。

>どんなにいいアイデアでも、どんなにいいことでも、それを行動に移さなかったらそれはないのと一緒。 > 頭の中にしまっておくだけだったら、誰もわからないし、状況は何も変わらない。

そうですね。

> 例えば、「いじめ」の問題で、一人さんは「嫌な奴にとって、嫌な人間になるように行動する」という。 >それが、まわりを巻き込んで騒ぎを大きくするということ。 >この地球上のすべてのトラブルや困難や嫌なことは、行動によってしか解決しない。 > 頭で考えているということは、評論家や、傍観者(ぼうかんしゃ)や、ただの観客でいるということ。

そうですね。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者になる。表明しなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから孤高の人になる。
意思は未来時制の文章内容である。しかし、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。

>また、「現状維持」という言い方で、問題に蓋(ふた)をして、先送りするというのも、行動しないこと。

そうですね。英語には時制というものがある。だから、英米人の考え (非現実) の内容は、過去・現在・未来へと先の方向に進まざるを得ない。そして、それぞれ世界の内容は互いに独立した違ったものになる。この内容は、世界観 (world view) と呼ばれている。
ところが日本語の文法には時制というものがないので、日本人の考えの内容は時間的に変化を強制的に受けることはない。だから、’お変わりのないことは何よりのことです’ という結論で皆が一致している。来るべき世界の内容は、どの日本人にも想定外になっている。

> 行動とは、現状を打破する姿勢のこと。

全く違った内容の未来が存在すれば、現状の打破は必然と見える。現在の続きに未来があるとするならば、現状打破は必要ないことになる。

> 行動しないということは、現状維持の姿勢のこと。

お変わりの無いことは何よりなことですね。

>どんなときも、この地球では行動が必要だ。

はたしてどんなものでしょうかね。


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地域再生

2020-04-22 20:00:16 | 社会

>330433 「ないものねだり」から「あるもの活かし」へ  >竹村誠一 ( 40代♂ 営業 )  17/10/15 PM10 【印刷用へ】
>地域再生、地域活性化に向けた試行錯誤が全国で進んでいますが、もともと根無し草的な人たちの集まりである都市部においては「地域」のイメージが湧きにくいという壁があります。

そうですね。

>そんな中、福岡県福岡市では市内に140ある小学校の通学区域のうち3つの通学区域において、自治会などと広く協働した「おたがいさまコミュニティ」という地域活動が展開されています。> 以下、「未来がみえた!:10人のメンバーがみた地域発『チーム力』」(プレジデント社・筒井義信とチームみらい著)より、活動のベースとなっている考え方の部分を紹介します。

勉強になりますね。

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>  福岡市経済調査協会の南さんも「協働事業をつくることも一つの目的だが、それ以上に大事なのが、住民自身が『地域に必要なこと』を生み出していく自発性。そうした発想や行動の力を、地域に根づかせることが大切だ」と話す。

そうですね。自発性が成否のカギになりますね。

>  三つの通学区域の「おたがいさまコミュニティ」を巡ってみて、そうした意識や地域の文化も重要なテーマとなっていることには、少なからず驚かされた。

意識・文化への着眼は大切ですね。

>もちろん、賛成だ。 > 「おひとりさま」から「おたがいさま」へ >「一人で頑張る」から「みんなで持ち寄る」へ >「ないものねだり」から「あるもの活かし」へ >「できないこと批判」から「できること試し」へ >「金のために時間を売る働き方」から「時間を寄付・交換する働き方」へ >「自分たちだけで」から「まわりの力を借りて」へ >「地域住民だけで」から「法人市民も含めて」へ

「まわりの力を借りて」は「まわりの力を貸し借りして」の方がより良いでしょうね。

> こうした活動の標語も、頷くことばかりだ。 > いま日本では、自分たちが暮らす地域であっても、多くの人が「傍観者」のようになっている、と映る。

そうですね。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者となる。表明しなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから協力が難しい。
意思は未来時制の文章内容である。しかし、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思がない。無為無策でいる。
 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

>「隣に誰が住んでいるのかも知らない」「自分のこと、家族のことだけで精一杯で、地域のことまで考える余裕はない」・・・とくに都市部などで聞く声だ。 >自分も、同様だった。 >でも、「おたがいさまコミュニティ」の現場を訪ねてみて、地域活動への見方が変わった。

‘自分はどのような世界に暮らしたいか’ を真剣に考えてみることも大切ですね。

>「上から目線」「供給者の論理」のような街づくりではなく、「他人事」ではなく「自分事」として、必要なこと、できること、やりたいことを自分たちでやる。

自分に考え (非現実) の内容がないと、実際の街づくり (現実) も 「他人事」になりますね。自分に意思の無い日本人は、他人任せが多いですね。だから「上からの目線」と「供給者の論理」しか存在しないことになります。

>「素晴らしいな」と思った。 >少子高齢化や人口減少が進み、単身世帯が増えるなか、地域活動は、これまで以上に重要となる。>家族で支え合う「家族力」が低下しても、それを補う「地域力」に期待できれば、未来も見えてくる。

そうですね。未来の世界の内容の表現には未来時制の文章が必要ですね。日本語の文法には時制がないので、未来の内容は我々の想定外になっています。来年のことを言えば鬼が笑います。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

> 「おたがいさまコミュミニティ」のような活動が、全国に広がっていってほしい、と願う。

同感です。正しい考えを求めるときに日本語には不利な条件があることを知っておいた方が良いですね。これは単に ‘国民性’ という言葉では片づけられないものですね。

> ******************************
>この中でも、「ないものねだり」から「あるもの活かし」へという発想が重要に思えます。

そうですね。

>そもそも都市生活者は地域にあるものを知らない。>一方で、他の地域にあるものでないものにばかり意識が向いてしまう。

ものは無いと不自由することが多いですからね。無い物ねだりは歌詠みの意識ですね。

>まずは地域に「あるもの」(人財も含めて)を知るところから始まるのではないでしょうか。

‘立っている者は親でも使え’ ですね。


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