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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

事大主義・小中華

2017-09-14 20:10:26 | 国際・政治
>夷狄とは文明化しない、すなわち儒教化しない野蛮人であり、禽獣とは人間ではなく獣に等しい存在をいう。

そうでしょうね。

>17世紀以降、コリア半島の指導者たちは女真系の清を徹底的に蔑む一方で、事大主義に基づいて、その夷狄・禽獣に朝貢を行なって冊封関係に入るという矛盾した世界観と行動様式を維持してきた。

そうですね。
現実の内容を ‘上とみるか、下とみるか’ で判断するのは、難しいでしようね。
日本語と同様に、朝鮮語には階称 (言葉遣い) というものがあります。だから、自分の考えを話す時には、’上とみるか、下とみるか’ の上下判断は欠かせません。
すると、彼らは矛盾した世界観と行動様式から抜け出すことが出来ません。ですから、激高しやすいですね。
特亜三国 (日本・韓国・中国) には、リーズン (理性・理由・適当) というものがありません。ですから、リーズンによる判断ができません。リーズナブル (理性的な・理由になる・適当な) な答えが得られないので、相手から信頼が得られません。説得力がありません。信なくば立たず。

>この屈折したコンプレックスの塊とも思えるコリア半島の住民の民族性は、李氏朝鮮以降、事大主義という劣等感と小中華思想という優越感を、心中で巧みに均衡させることによって維持されてきたのではないだろうか。

そうですね。相手によって自分の態度を大きくしたり、小さくしたりして均衡を保ってきたのでしょうね。

>そう考えれば、激高しやすい韓国の国民性の理由も理解できるだろう。

そうですね。自分の序列の価値判断が相手に通じていないと、いらいらしますからね。

>ならば、コリア半島の住人のこの屈折・矛盾した「事大主義・小中華」的世界観は、最近の韓国外交が大きく変節した原因なのだろうか。

個人主義の今の世の中で、没個性的な序列制度の考えを維持するのは、時代錯誤でしょう。それぞれの個性に着目しない考え方は、きわめて危険ですね。

>韓国は中国との関係をほんとうに全面的に見直すつもりなのだろうか。

何事も上下の枠にはめて考えない方が良いですね。そうでないと、何回見直しても矛盾から抜け出すことは難しいです。


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文脈の高低

2017-07-06 21:49:53 | 国際・政治
>日本語と欧米の言語の違いを調べていて「高・低文脈文化」という分類があることを知った。(ウィキペディア:リンク ) 一部抜粋。
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>この概念は、アメリカ合衆国の文化人類学者エドワード・ホールが『文化を超えて』(1976年)で世界中の言語コミュニケーションの型を高文脈文化と低文脈文化に分類したことに始まる。

独創的な分類ですね。英語や日本語の勉強に役立ちそうですね。

>高文脈文化のコミュニケーションとは、実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される(理解したと思われる)内容のほうが豊かな伝達方式であり、その最極端な言語として日本語を挙げている。

阿吽の呼吸ですね。相手にどう受け取られても仕方がないと言っています。

>一方の低文脈文化のコミュニケーションでは、言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる。最極端な言語としてはドイツ語を挙げている。

私には、ドイツ語は分かりませんが、西ゲルマン語 (West Germanic) に属する英語ならわかります。言わないことは無いことですね。黙っていれば、それで ‘勝負あった’ となります。

>(※ここでいう“高”“低”は優劣を表すものではない)

エドワード・ホール博士は、低文脈を使って、文脈の高低の存在を説明しましたね。外国人にも理解できる内容ですね。高文脈ではこうした発想はできないでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――

>上記リンクには高・低文脈文化を比較対照する表がある。高文脈文化 最極端の日本語と低文脈文化 最極端のドイツ語。以下を見ると、言語を用いる前提が全く違うことが鮮明になる。

       [高文脈文化と低文脈文化の比較の例]
     《高文脈文化》  |No|   《低文脈文化》
   ───────────────────────────
   言葉以外に状況や文脈も|1|伝達される情報は言葉の中で
   情報を伝達する。   | |全て提示される。
   重要な情報でも言葉に表| |
   現されないことがある。| |
   ───────────────────────────
   曖昧な言語      |2|正確性が必要とされる言語
              | |
   ───────────────────────────
   一般的な共通認識に  |3|言語に基づく
   基づく        | |
              | |
   ───────────────────────────
   双方の合意に基づいた |4|双方の合意に基づいた契約
   契約でも状況によって | |の変更は容易ではない。
   柔軟に変更される。  | |
   ───────────────────────────
   感情的に意思決定される|5|論理的に意思決定される
              | |
   ───────────────────────────
   沈黙は不快ではない  |6|沈黙はコミュニケーションの途絶
              | |として不快
              | |
   ───────────────────────────

>同じく意思を伝え合うための言語でも、ここまで正反対の方向で発展して現在に至るというのは、大変興味深い。

興味がわきますね。日本人の場合は意思ではなくて恣意 (私意・我がまま・身勝手) でしょう。

>上表から、高文脈文化:日本語の特徴は、一般的な共通認識があることが前提になっている。平たく言うと「相手と自分が同じ」であることを前提としている。相手と自分が同じというのは安心感に通ずるから、曖昧で許されるし、契約は変更可能だし、沈黙も不快ではない。

日本人には、個人個人で考えの内容がちがうという個人主義の理解が難しい。建前と本音の活用で、相手と自分が同じになります。

>一方、低文脈文化:ドイツ語は、その真逆だ。相手が自分と同じであるとは限らない。そこに警戒心が生じる。曖昧な言葉では不利益をこうむるかもしれない。そのため、正確に語る必要がある。また、警戒心(≒否定視)があっては、相手を正確に察することができない。結果として、言語だけで意思疎通を行う必要性が生じる。ロジカルであるというのは、言語だけを頼りに意思疎通をしてきた結果だろう。正確な言葉、正確な論理によってしか合意に至らない(納得できない)。そのようにして合意に至った契約が「容易に変更ができない」というのは当然といえば当然だ。

ドイツ人には、忖度 (推察) による恣意疎通は、考えられないでしょうね。まったく別世界の出来事なのでしょうね。

>このようにしてみると、両極端の言語にみる隔たりは、進化の途上にあった人類が言葉を必要とし発展(進化)させる過程に大きな隔たりがある、ということだろう。すなわち、語弊を恐れずに言えば「島国で仲良く暮らしていた日本人」と「侵略と服属を繰り返してきたドイツ人」の隔たりだ。こう考えて大きく外れていないと思う。

"太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず" ですか。日本人は、異人さんの取り扱いには苦労します。
ドイツ人は大英帝国を作らなかった。彼らは、アングロ・サクソンとはどこが違うのでしょうかね。地政学的な問題が関係しているのでしょうかね。

>『使う言語によって「性格」まで変わる』304395というのは事実のようだ。が、だからといって、言語の違いが直ちに相容れない人間性の隔たりとはならない。互いの歴史背景の違いを踏まえたうえで、寛容でありたいと思う。

そうですね。互いの歴史背景の違いを踏まえて理解しあうことが必要ですね。だから、私達は英語と日本語の両方を学ばなくてはなりません。
我々は国際協力により、大同となる未来社会を建設することが必要です。ですから、何が小異であるかを見極める必要もあります。
初めから大同小異であると考えて粗末な対応をすると、我々は国際関係において大けがをすることになるでしょう。


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日本語を普及させよう

2017-01-28 06:07:18 | 国際・政治
>開発途上国等には、経済発展・産業振興の担い手となる人材の育成を行うために、先進国の進んだ技能・技術・知識(以下「技能等」という。)を修得させようとするニーズがあります。
>我が国では、このニーズに応えるため、諸外国の青壮年労働者を一定期間産業界に受け入れて、産業上の技能等を修得してもらう「外国人技能実習制度」という仕組みがあります。
>この制度は、技能実習生へ技能等の移転を図り、その国の経済発展を担う人材育成を目的としたもので、我が国の国際協力・国際貢献の重要な一翼を担っています。

日本社会のユニークな価値観は日本語に由来している。せっかくの技能移転も ‘仏作って、魂入れず’ にならぬように気をつけなくてはならない。
芸は身を助く。日本語が世界に普及すれば、人類はさらに豊かになるだろう。教育分野での我が国の国際協力・国際貢献になる。
ユニークな価値観とは、以下の四つが考えられる。

1.団結性 相対敬語を使い他の序列を排除している。横の連絡が取れない縦社会を作っているので団結性が強い。日本語の社会でなければ、序列人間は存在しない。
2.信頼性 自己判断ができない。自分に意思がないので独自の方法が見つけられない。そういった意味での信頼性が高い。
3.仕事熱 目先・手先の仕事に精神を集中できる。哲学がないので、実学・実業に力が入る。空想・妄想も発展して、我が国は漫画・アニメの大国になった。
4.忠誠心 縦社会の序列差法は礼儀作法になっている。序列判断は、強迫観念になっているので上位に対する忠誠心は強い。

日本語の ‘かな・漢字’ 表記は音読が難しい。漢字は数が多く、語意が外来の横文字文化に対応していない。折角、海外から技術研修に来ても、語学の成果が上がらない。言語による資格検定が難しいので、我が国の基準は世界基準となりにくい。読み書きの不自由な人たちの文化は、書き残すことが出来ないので、継続・発展させる事が難しい。’今だけ、金だけ、自分だけ’ の暮らしで、はかない処世術になる。
音読できない言語となっていては、日本語は世界に普及しにくい。とはいえ、カナ文字使用もよくない。我々はカナ書きの外来語を多くして、外国通になったつもりでいるが、カナ文字は日本以外のどこの国でも通用しない。だから、国際協力・国際貢献の手段としては役に立たない。カナ文字に頼った国際協力・国際協調は孤立無援で労多くして益が少ない。袋小路の行き止まりである。
日本語をローマ字 (alphabet) 表記にして、非漢字圏の国々にも普及させ易くするとよい。さすれば、国際的な意見交換もずっと容易になる。外国人との話し合いが国際協力・国際協調の基礎である。日本語は、実用的な第二言語となり、内外の民の暮らしは豊かさを加速する。



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闘争本能

2017-01-24 16:49:20 | 国際・政治

>■今まで日本人は、協調性を意識しすぎた

‘和をもって貴しとなす’ ということですか。

 >世界に目を転じると、宗教問題、歴史問題、領土問題、人種問題で、絶対に妥協できない対立が激しくぶつかり合っていて、血で血を洗うような事態が起きている。

そうですね。

 >これらのすべての問題は民族のアイデンティティに直結しているので、話し合いも成立しないし、譲り合いも成立しない。譲れば民族としての存続が不可能になるので、絶対に譲れないのである。

現実の内容は、小異である。現実の内容は頭の外にあるので、見ればわかる。’小異を捨てて、大同につく’ のが建設的な態度でありますが、結果はどうでしょうか。
大同の内容は、非現実である。非現実の内容は頭の中にあるので、見せることが出来ない。だが、話にはなる。話を聞いてもわかる場合もあるし、わからない場合もある。その話は現実離れがしていて、信じることが難しい。だから、我々には大同を示すことは容易でない。大同なくして小異を捨て去ることもできないので、小異の争いに明け暮れている。

 >折しも情報化時代に入っているので、こうした衝突は言論の場にも持ち込まれるわけで、だからこそ歴史プロパガンダが猛威を振るうようになっている。

商業主義の影響なのかな。議論をするためには、喧嘩が必要か。喧嘩をするためには、議論をしなければならないのか。

 >欧米とロシアのプロパガンダ合戦、欧米とイスラム国家のプロパガンダ合戦、グローバリストとナショナリストのプロパガンダ合戦、アメリカ国内でのリベラルと保守のプロパガンダ合戦は日々、深刻なものになっている。

同感です。意見の正解は一つではない。暗記ものの勉強では片付かない。自分自身の判断が必要ですね。

 >東アジアでも、中国・韓国・北朝鮮が日本に対して執拗かつ粘着的な捏造歴史プロパガンダ戦争を仕掛けており、日本人に対する誹謗中傷、批判、攻撃が恒常的に行われるようになっているのだ。

小異をことあげして、自国の利益を得ようとするのですね。

 >もう現代社会は「きれいごと」を言っているだけでは渡っていけない世の中になった。これから日本人も凄まじい言論対立に巻き込まれていく。

我々は、歌詠みではいられませんね。’きれいごと’ とは、空理空論のことですかね。

 >だからこそ、私たちは日本人としての主張を「押し通す」必要が生まれてきている。今までの理解・平和・協調から脱して、いよいよ闘争本能に目覚めなければならないのである。

自分に大同が無ければ実のある主張はできませんね。小異の主張と闘争本能だけでは、国際平和は保てないでしょう。

 >歴史問題は、何も言わないと相手の都合の良い主張が世界の歴史になる。領土問題は妥協していると次々と土地を奪われていくことになる。

各国が自国に都合の良い歴史ばかりを作っていては、北東アジアの不安定要因は増すばかりですね。膠着状態になっている。

>重要なところで妥協してしまうと、日本人の尊厳も領土もすべて奪われる。だから、民族の存続をかけて、きれいごとから去らなければならなくなっている。

特亜三国 (日本・韓国・中国) の民には、’あるべき姿’ の勉強が必要ですね。

 >今まで日本人は、協調性を意識しすぎた。

自分自身の ‘あるべき姿’ の内容を考えることなく、’協調か対立か’ のみを考えていたのでは、救いはありませんね。

 >批判することを恐れ、主張することを恐れ、復讐することを恐れ、バッシングされることを恐れ、修復不可能になることを恐れてきた。

もしもあなた批判することがあるならば、自由に批判して頂きましょう。もしもあなたに意見があるのなら、それを自由に主張して頂きましょう。それに対する復習・バッシングには十分注意しましょう。
大同を示さないのでは、小異を捨てる理由も見当たらず、国交の修復は不可能になりますね。小異を捨てて、大同に就く準備が必要ですね。そうすれば、未来社会の建設に各国の協力が得られます。
北東アジアの不安定要因は、人々が大同という未来社会 (非現実) の内容を真剣に考えることなく、目先手先の小異 (現実) にとらわれて闘争を繰り返していることにあるのでしょう。
‘我々はどこから来たか’、’我々は何者であるか’、’我々は何処に向かうか’ などの命題に答えを出すのは西洋の哲学です。我々、東洋人には、その習得が難しいのでしょうね。



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松下さん

2017-01-19 05:09:55 | 国際・政治

>・・・・・、国の動きに、あまり力強いものがないし、政治もなんとなく頼りないということになるわな。

そうですね。金は目的に対する手段にしかならないでしょう。国民に確たる目的が無くては、余っている金は、景気回復の起爆剤にもなりえませんね。我々には未来社会の建設が必要でしょう。

>金は出すけど、自分の考えは示さんということでは、軽蔑されるだけや。

同感です。無哲学・能天気ではいられませんね。夢も希望もない ’瘋癲の寅’ にはなりたくないですね。

>これからの日本は、「風格ある国家」を目指さんといかんな。

気分・雰囲気の問題ですか。低俗のままでは風格は出ませんね。人間は、高尚でなくてはいけない。我々には、’あるべき姿’ の明示が必要でしょう。高尚な ’考える人’ になれると風格が出ますね。我々は、まず心を磨かなくてはいけないですね。それには、英米流の高等教育が必要でしょう。

>自分の国のことだけを考えるのではなく、世界のこと、国際社会全体のことも考え行動する。

そうですね。現在の日本人は、’今だけ、金だけ、自分だけ’ の処世術で生きていますね。低俗ですね。地球村に住んでいながら社会性に欠けていますね。我々は世界観 (world view) を持つ必要があります。現在は、釈迦如来の手のひらの上で得意になっている孫悟空のようなものです。世界が全然見えていない。

>企業も国民もまた、思いやりの心を世界に広げる。

同感です。企業も国民も聡明にならないといけませんね。人間には、思慮の深さが必要です。

>自分の言動に責任をもつ。

意思のあるところに方法はある。(Where there’s a will, there’s a way.) 方法があれば、責任が果たせます。
ところが、日本人には意思 (will) がないので方法もない。意思は未来時制の文章内容で、日本語文法には時制 (tense) がない。だから、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。自分の言動に責任が持てない。

>そういう国民にならんといかんね。

そうですね。今は、’とかくこの世は無責任’ といったところですからね。国際社会から信頼が得られない。何を考えているのかわからない。考えていないのだから、方針を示せない。方針を示さない方が得策であると考えて、自分はその分賢いのだと考えて安心しないほうが良い。そうでなければ、相手の協力は得られない。

>まあ、国際社会から尊敬され、美しい国民だと言われるようにならんと。

気分・雰囲気の問題ですか。上辺だけでなく、やはり哲学が必要でしょう。相も変らぬ歌詠みではいられませんね。孤高の人にとどまるべきではありません。
国民に ‘あるべき姿’ を考える知力が必要ですね。それを聞けば、人は信頼できる。腹に表現できないどろどろとしたものを抱えているだけでは、相手の信頼はえられない。バラバラな単語は文章にして、明確な意味示すことが必要です。

>そのためにも、日本の国として、そういう方針をつくって、国の内外に、ハッキリと宣言して、それに基づいて、国として、国民として考え行動するようにせんとね。

同感です。国としての方針が必要ですね。未来社会の設計図のようなものが必要ですね。それをみんなで考える。その中で最良のものを我が国の方針に選んで、国の内外にハッキリと宣言する。まずは、国内に確たる構想を育てる個人主義の確立が必要ですね。それは教育の問題でしょう。
教育といえば、今は ‘よみ・かき・そろばん’ の時代を過ぎて、高等教育の時代です。明治は遠くなりにけり。




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