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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

システム構築

2016-11-08 13:18:03 | 文化
>ご存じのように黒澤明の映画ではそれぞれ個性豊かな7人の侍が見事な連係プレーで野武士を撃退するが、これこそシステムの原型ではないか、と思ったのである。まず野武士の襲撃から村を守る、という目的が設定される。仕事を請け負ったリーダ格の勘兵衛は、目的を達成するには最低限7人の侍と農民の武装が必要であると考える。これは一種の設計である。7人の侍をリクルートするプロセスも実に興味深いが、目的達成に必要な要素技術を取り揃えるシステム構築の考え方と似通っている。

同感です。目的達成のためには適材適所の配置が必要ですね。

>7人の侍はつながることによって、一見不可能と思われる目的を達成した。今は時間や空間を超えて「人と人」だけでなく、「ものともの」、「人ともの」の間をつなげることが容易かつ安価になった。つながることによって初めて生み出される新しい価値がどんどん増えてきた。「システム化」はそのような状況を象徴する現代科学技術のキーワードである。私たちの周りにはシステムが無数にあり、私たちはそれらを無意識に使い、またそれらに使われて生活している。

同感です。世の中は過不足なく成り立っている。システム化できれば、能率が良くなる。

>しかしシステムにもいろいろある。うまく作られたシステムは豊富な機能を備えて多くの人々に恩恵を与え、取り扱いや管理も容易で、しかも丈夫で長持ちする。粗雑に作られたシステムは貧弱な機能しかなく使い勝手が悪い。管理にも手がかかり故障が頻発する。システムが複雑になればなるほど、よいシステムと悪いシステムの差がますます顕著になってきている。

同感です。例えば、静岡空港は東京と大阪のほぼ中間点にあり、東海道新幹線の真上にある。しかし、新幹線と空港を結ぶ連絡口が無いので。東京と大阪の乗客は、東海道新幹線を利用して直接空港に到着することはできない。

>いくらよい部品を使っていても、それらをうまくつなげることが出来なければよいシステムにはならない。日本はよい部品を作る技術では追随を許さないが、よいシステムを作る技術は貧弱である。

日本人には世界観がない。だから、グローバルな・ユニバーサルな視点に欠けている。新しい世界を作るための適切な部品調達ができない。部品は依然バラバラなままである。

>携帯電話、手術ロボット、半導体製造装置、医療機器、モーションキャプチュアなど日本が海外のシェアを失ってしまった製品群も、部品だけは日本製が多い。しかし部品の価値が全体の価格に占める割合は急速に減ってきているから、日本の企業の利益は薄くなる一方である。

同感です。これを器用貧乏というのですかな。必要な伝達ができない。だから、’自分さえ良ければ’ となる。

>世の中に悪いシステムが多いのはつなぐことが難しいからである。「七人の侍」ではリーダの勘兵衛には大将の器量があったから個性的な人間同士をつなぐことが出来た。しかしどうやら現実の日本人は昔から、つなぐことが得意でないらしい。そう思う理由をいくつか挙げよう。

大同 (非現実) があれば、小異 (現実) を捨てることも可能である。しかしながら、日本人には大同がない。非現実の内容は、嘘と考えられている。だから、個性的な人間同士をつなぐことができない。

>日本人は職人が好きである。「匠の技」に日本人は弱い。かつて農民は「水呑み百姓」と蔑まれたが、職人にはそのような蔑称はない。つながることには目もくれず自分の技だけで生きる一本気の職人(例えば幸田露伴の「五重塔」の主人公)は日本人のロールモデルであった。日本人の好きな「ものづくり」という言葉にはそのような職人の体臭が付きまとう。

目先・手先の事柄に精神を打ち込むのですね。
日本語は、実況放送・現状報告の内容を語るための言葉です。だから、非現実の内容である構想は語れない。


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自分の尺度

2016-11-08 04:04:03 | 文化
 
>「自分の尺度」を持っていれば
>これは他人事ではありません。組織としても、個人としても、です。なぜなら、日本人の多くが「自分の尺度」を持っていないから。これがないから、権力にしがみつこうとする。出世にしがみつき、会社にしがみつこうとする。

同感です。日本人は、無哲学・能天気ですから、自己の尺度はないですね。世俗的な序列尺度ばかりです。縦社会の人間ですね。帰属意識なしでは生きてゆけない。

>実際、実は会社に入る前から、多くの日本人は“出世競争”をやっています。小学校の頃から受験があり、偏差値の高い学校に行こうとする。そして就職となれば、今度は“就職偏差値”の高いところに行こうとする。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。これは文法ではないが、日本人として守らなければならない重要な配慮です。日本人の礼儀は、序列作法で成り立っています。’上とみるか、下とみるか’ の判断が正確にできなければ、礼儀正しい日本人にはなれません。我が国においては、人を見損なっては社交ができない。だから、序列判断は、日本人にとって強迫観念になっています。当然のことながら、向上心も強くなります。小さな体に、大きな望みといったところです。

>入社したら課長には早くなりたい。部長にもなりたい……。そうやって、ある意味で極めて同質的なゲームを小学校、中学校、高校くらいからずっとやっているのが、多くの日本人なのです。この出世競争だけが尺度になってしまっているのです。

国全体が出世競争に向かっていますね。憲法前文の中で、’国際社会の中で、名誉ある地位を占めたいと思う’ と公言しています。権威主義を頼りにしているのでしょうね。

>よくよく考えなければいけないのは、このゲームを最後までまっとうできるのは、ほんのわずかしかいない、ということです。そのゲームをやることが、人生を気分のいいものにしているか、今こそ自分自身で問いかけなければいけない。

‘お山の大将、おれ一人。後から来る者、、、、、、’ ですね。無哲学・能天気の人は、よくよく考えてみることが難しい。哲学は非現実の内容です。現実離れのした内容になるので、日本人には信じることが難しい。

>正直な自分として、何をもって成功の尺度と考えるか。実は歳を経ていくと、これを試される局面が次々に出てきます。この時、多くの人は混乱する。なぜなら、ずっと自分ではない仮面をかぶってきたからです。

無哲学・能天気な人間の悲哀ですね。仮面が無ければ、自分の価値を知ることができないのでしょう。

>自分は何者か、というのはまさに哲学ですが、日本では、自分は何者なのか、という問いをできるだけしないよう教育をしてきている。常に、誰かが考えた正解があり、その正解を当てに行く教育です。これでは、いつまでも自分の世界を確立できない。

同感です。暗記のがり勉ではどうしようもありませんね。無哲学・能天気では、’我々はどこから来たか、何者であるか、どこに行くのか’ の哲学を考えることはできませんね。言語に時制というものがあると、世界観が持てるようになります。’過去の世界・現在の世界・未来の世界’ という三世界の内容を別々の時制の文章内容として表現できます。三世界の内容は全て非現実です。非現実の ‘あるべき姿’ の内容が考えられるようであれば、’今ある姿’ と比較して、現実批判が可能になります。だが、日本語には、時制というものがない。だから、批判精神が育たない。英語には、時制があります。だから哲学という、英米流の高等教育が可能になります。

>そして「サラリーマン」という仮面のゲームの世界に否応なしに入っていくことになります。「仮面」ゲームをやっているからこそ、『沈まぬ太陽』や『半沢直樹』的なドラマが盛り上がるのです。冷静に考えれば実にくだらない、生身のリアリティもない、単なる出世ごっこ、派閥争いごっこです。そのゲームのために体を壊したり、家庭を壊したり、しまいには命を落としたりする人は、今日現在も後を絶たない。

皆が皆がら競馬馬のような人生を送っていますね。兵どもが夢の跡になるのかな。

>運良く出世競争に勝っても、いつかは会社から離れます。そうなると単なる冴えない初老のオッサンです。内館牧子さんのベストセラーに描かれた『終わった人』として過ごす何十年もの時間が待っている。

ああ、むなしい。
若者には、未来のある教育を受けさせよう。




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