>日本も一時は詰め込み教育が問題視され、ゆとり教育を採用したが、根本的な「受験戦争」がなくなったわけではなく、中身のない道徳の授業が増え、学力のみが低下するという中途半端な結果に終わってしまった。もちろん海外の教育システムをそのまま日本で採用すればうまくいくというほど単純なものではないが、今の教育制度では「子どもに考える時間を与えない」というのが一番の問題点であるように思う。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本教徒>の中で、議論のできない日本人について次の様に述べています。
>、、、、だが彼 [ハビヤン] は常に、その「破棄した部分」しか口にせず、その「内なる自らの基準」は明示していないのである。
ハビヤンは消去法の専門家ですね。日本人には哲学が無いから、「内なる自らの基準」は明示できませんね。無思想の人ですからね。
>これは、、、、、今の日本人も同じであって、「反論」はできるが、その反論の基準となっている自らの思想を理論的・体系的に明示せよと要求すると、できなくなってしまう。
同感です。日本語文法は今も昔も変わりがない。時制がないから、非現実の内容は文章にならない。非現実の内容は ‘考え’ の内容であって、これは頭の中にある。これに対して、現実の内容は、頭の外に存在する。
自分では考えられないから、他人の考えを頭に詰め込んで頭デッカチニなっている。それを使って代弁する。受け売りする。反論する。’ああでもなければ、こうでもない’ と力説する。このようにして、論客となっている。自らの思想を形成する能力はないので、論拠を明らかにすることもできない。
>従って日本人には論争は不可能である。
そうですね。語る内容は、何せ他人事ですからね。言い放って、顧みるところが無い。とかく、この世は無責任。
>だがそれでいてこの状態を日本人は"科学的”と考える。、、、、(引用終り)
同感です。
科学というのは、現実に基づいた作り話ですね。だから、個人個人で内容が違う。だから、議論ができる。その内容に矛盾が無ければ、それらは全て真理です。だから、真理はいくつでもある。だがしかし、矛盾を除去できなければ、真理などはどこにもない。
現実の世界にある‘嘘・本当’の区別でいえば、科学は‘嘘’ にあたる。だから、書き換えられて進歩する。本当の内容は進歩しない。一つであり、不変です。
日本人は、作り話が嫌いである。非現実の内容を示す文章ができない。文章が無ければ意味もない。矛盾も指摘できない。矛盾の排除の仕方を知らないので、作り話は常に真っ赤なウソになる。だから、やりたくない。真理の探究は敬遠されている。
英米流の高等教育を受けて、非現実の文章内容から矛盾を取り除く練習を受けなければならない。そうすれば、学究的な人になる。
嘘・本当の区別は、現実の世界では有効である。だが、非現実の世界では役に立たない。’嘘・本当’ の質問だけをする人は、哲学 (非現実の内容) のない人である。
例えば、地球の始まりを本当に見た人がいるのか。恐竜の生きているのを本当に見た人がいるのか。原子の手を本当に見た人がいのか。など、すべては ’見てきたような嘘’ である。
現実の話は低俗である。非現実の話は高尚である。高尚な話ができなければ、真理の探究もまた難しい。
学生たちよ、英米人と日本人では頭の使い方に違いのあることを知らなくてはならない。
>日本人は学校教育がダメだとわかっているから、ほとんどの人が子どもを塾に通わせる。
>僕の息子は9歳。
>クラスの41人中27人が塾に通っているらしい。
>つまり、日本では子どもの教育にお金をつぎ込めばつぎ込むほど、子どもは成功するということ。
>ちなみに僕は6人兄弟。
>6人とも普通の小中学校を卒業して、塾や私立校には通わなかったけど、全員イギリスの大学を卒業したし、兄弟のうち2人はイギリスでトップ10に入る難関大学を卒業した。
>でもこういう話って、日本じゃあまり聞かないよね。
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