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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

高学歴

2016-11-02 23:42:28 | 教育

>高学歴の人が就職や特定のコミュニティの中で優遇される風潮は、「学歴差別」としてよく問題視されます。

そうですね。我が国では、高学歴は人間序列の目安になっていますね。

>一方で今の日本では、大学の学部を卒業して修士や博士になると、むしろ就職できないという皮肉な現実がある。

無哲学・能天気な日本人の社会では、どうしようもないことですかね。

>実際、博士号を取っても希望する職に就けず、フリーターになるしかない人はたくさんいます。

同感です。まったく皮肉ですね。猿まねの文教行政の結果ですね。憂国の状態にあります。
日本人は、無哲学・能天気でありますから、人間に欧米の高等教育の必要性など、まったく認めていないといっても過言でありません。欧米流の哲学・教養を学ぶことは、畳水練のようなものになります。
“優れた研究者や高度な専門能力を持った職業人を養成する”ことを目的に米国では、医師や弁護士などをもっぱら医学校 (medical school) や法学校 (law school) と呼ばれる大学院 (graduate school) で養成しています。この養成に抜け道はありません。我が国では、医師や弁護士などの高度の職業人を大学院以外の教育機関 (医学部・法学部) で作っています。大学院の医育機関は我が国には存在しません。高度な職業人を育てる正道が無いといえましょう。それは、日本人に哲学の必要がないからです。私の友人も ‘医者は教養ではなくて、腕が大切なのだ’ と得意げにいっていました。我が国の教育行政は、まさにそのことをやっているのです。これが、我が国の現状です。
米国では、小中学校の教員も、就職後、一定期間内 (ニューヨーク州では5年・オレゴン州では10年) に大学院で修士号を取らないと解雇させられます。これも社会が、教養・哲学ある人間を要求しているためです。米国は、真の学歴社会といえます。無哲学・能天気で長々と働ける我が国は、はたして幸福な国といえるのでしょうか。日本人の・若者に欧米留学が人気を得ないのも、こうした教養に無理解な事情が背景にあると考えられます。








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西洋崇拝

2016-11-02 01:15:28 | 教育
>「権利」や「自由」という名の自己中がはびこる昨今、「“自由”の履き違え」「行き過ぎた“権利”」などの批判がたびたびなされるが、そもそも「自由」「権利」という概念自体が胡散臭いというか、もともと要求のための言葉だったのではないだろうか。

そうでしょうね。要求の叫びだったのでしょうね。「自由」の要求、「権利」の要求でしょう。

>生きていれば90歳を超える私の祖母が、私が幼い頃、穏やかな声でこんなことを話してくれたことがあった。
>「Tちゃん、“自由”とか“権利”とかいう言葉は使っちゃいかんよ。
>もし、そういう環境にいれるとしたら、それはTちゃんに自由とか権利があるんじゃなくって、そうしてくれる誰かがおるからやでな。
>けど、そういう言葉はそれを見えなくさせる。
>感謝の心を失わせて、してもらえて当たり前とうい傲慢な人間にしてしまうからな」

自由とか権利は、相互に認め合うものでしょう。互恵の念ですね。
‘そうしてくれる誰かがおる’ のは、棚ぼたの期待をしているからにほかなりません。自主的でない。

>私自身まだまだ未熟な人間だが、当時何気なく聞いたその言葉は今でも、自己中を正当化したくて暴走しそうになると心と頭を見つめ直させてくれる。
>日本人は、元来とても穏やかでいつも色んなことに感謝している民族だった。

‘不自由を常と思えば不足なし’ ですね。’ありがたや節’ のようなものですか。

>「己を正当化する言葉」を使うか、「相手に目を向けさせてくれる言葉」を使うかで、人の意識は変わる。

「己を正当化する言葉」を使う場合も、「相手に目を向けさせてくれる言葉」を使う場合も、日本人は相手との対話を考えていませんね。哲学が無いので、世界観がない。自己の世界観をもとにして相手との対話をしなければ未来社会の建設に関する協力は成り立ちませんね。日本人には意思がなくて、恣意がある。恣意では話にならない。だから、日本人には相手との対話はなりたたない。

>己を正当化する言葉を使うと、己自身も周りも、自己中に陥っていると気づけなくなってしまう。

自己中心主義は良くないですね。だが、日本人には意思が無くて、恣意(私意・我がまま・身勝手)がある。だから、自己中心主義にならざるを得ませんね。意思は未来時制の文章であり、文章には意味がある。矛盾もあれば、それを指摘することができる。だから、議論の対象になる。だが、日本語の文法には時制がない。それで、恣意はバラバラな単語であって、文章にならない、意味もなければ、矛盾さえ指摘できない。だから、相手との対話は成り立たず、問答無用になる。’自分さえ善ければ’ と考えざるを得なくなる。すなわち、自己中心主義になる。

>そろそろ、善しと思い込んできた西洋崇拝(近代思想幻想)から脱却すべきときではないだろうか。

西洋崇拝はいけませんね。何よりも、我々には正しい西洋の内容の理解が必要です。



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