>「考える自由のない国―哲学対話を通して見える日本の課題」
> 哲学を求める時代?
哲学は、いつの時代にも必要ですね。人間は、’考える人’ にならなければならないということですね。
>ここ数年、私は「哲学対話」という活動を通して様々なところに関わってきた。>哲学対話とは、子どもたちの思考力を養うために70年代にアメリカで始まった「子どものための哲学」に由来する。
子供にも、考えはあってしかるべきですね。彼らは、この世に対する ‘しがらみ’ がありません。ですから自由です。
>それは、哲学者の思想を教えたり抽象的な問題について議論したりするのではなく、各人が一人で思索にふけるのでもない。>身近な問いから出発して、グループで一緒に問い、考え、話をしていくものである。>中学校以上が一般的だが、小学校や幼稚園で行われることもある。
子供は、過去の哲学者の内容を暗記する必要はありませんね。
>いずれにせよ、共に話すことを通して共同で思考を広げ、深めていくのが哲学対話である。
そうですね。皆で仲良く考えることが必要ですね。
>哲学対話がどういうもので、たんなる対話とどこが違うのか、ここで詳しくは述べられないが(齋藤元紀編『連続講義 現代日本の四つの危機 哲学からの挑戦』(講談社選書メチエ)に所収の拙論「対話としての哲学の射程」を参照)、とりわけ重要なのは、「何を言ってもいい」「否定的なことは言わない」というルールである―何を言ってもいいからこそ、思考に広がりと深まりが出てきて、対話が哲学的になる。
そうですね。’何を言ってもいい’ が大切ですね。
>これは、とくに教育現場では、思考力の育成につながる。>また否定的なことを言わないことは、他者の尊重につながる。
そうですね。序列社会においては、為政者は民に対して ‘下におれ、下におれ’ と言論の抑制を言い続けてきましたね。
>それゆえ哲学対話は、考える力を育てるだけでなく、他者との相互理解を促し、学校でのクラスづくりや、会社などの組織づくり、地域のコミュニティづくりなど、様々な集団内の人間関係や連帯感の強化にも貢献する。
そうですね。人々は、大同を得ることにより、未来社会の建設に協力することが可能になりますね。
否定的なことを言って、他者を軽視する風潮は、我が国の伝統でしたね。
山本七平は、自著 <ある異常体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)
>私自身、ワークショップを開催するほか、小学校や中高、都市や地方の地域コミュニティ、高齢者の集まりの場など、様々なところで哲学対話を行ってきた。>そうした活動を通して、これらに共通する問題が見えてきた。>それは自由に話し、自由に考えられる場がないということ、そして、その結果、自分の行動、自分の生き方に責任がとれないということである。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
正しい (矛盾のない) 文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。いくらでもある。
我が国の論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ という。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。
だが、自分がどうであるかを決して言わない。自分には、考えというものが無いからである。
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