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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

主体性がない

2018-04-20 23:16:06 | 政治




>教育の延長としての社会>こうしたことは、社会に出てもほとんど変わらない。>最近の若い社員は自分で考えない、主体性がないと批判されるし、たしかにそういう面もあろう。

意思のない人には、主体性がありませんね。

>しかし実際には、ほとんどの会社や組織で、それは歓迎されず、むしろ禁じられているのではないか。

日本人には意思が無い。さりとて恣意 (私意・我がまま・身勝手) は、どこの国でも歓迎されず、禁じられています。ですから、日本人に関しては、主体性を論ずる余地が無い。

>学校と同様、発言は求められるが、そこで許容されるのは、正しい答え、よい答え、上司や会社の意向に沿う答えである。

そうですね。模範解答を覚えるために戦々恐々とする毎日ですね。主体性の余地はない。

>そこから外れることを言えば、怒られ、笑われ、諭され、無視される。>そのように自由にものが言えないところに考える自由はない。

そうですね。モノ言えば、唇寒し秋の風か。昔ながらの伝統か。

>結局学校と同じく、仕事も与えられたことを決められたやり方で遂行するよう期待される。>時に創意工夫は必要だろうし、仕事によっては個々人の裁量が認められていることもある。>けれども、「なぜそうするのか」という質問や「こんな仕事をしたい」という希望は、なかなか受け入れられないだろう。

そうですね。自発性が抑えられていますね。’考える人’ にはなれませんね。無哲学・能天気の暮らしが続きますね。

>同様のことは高齢者になった後も続く。生涯学習にせよ、養護施設での生活にせよ、高齢者は、自分でどうするかについて考える余地を与えられていない。>医療関係者や福祉関係者が彼らに必要なものを考えて提供する。

世の中万事に自発性は期待されていませんね。’意思のない所に、自発性なし’ か。気の利くサービスのある社会か。

>しかし、高齢者自身の生き方が重要なら、当事者である彼ら自身が何をどうしたいのか発言をし、考える自由が与えられなければならず、また彼らはその自由を行使しなければならない。

それはそうでしょうけれども、何しろ日本人は自分の考えに慣れていないことですしね。意思のない所に自由の価値もありませんからね。’卵が先か、鶏が先か’ の問題になりますね。一筋縄には解決しそうにありませんね。

>そうでなければ、学校教育と同じく、自分で自分の人生の帰結に責任をとることなどできない。>人生の締めくくりの段階が、そんなことでいいのだろうか。

自発性のない個人と、自発性を期待しない社会が、補完関係になっていますね。意思と責任の入る余地のない世界ですね。意思と責任を除外して事を進めようとするところが、我が国民の不幸なところですね。

>地域コミュニティでも同じことが繰り返されてきた。>地元住民が当事者として地域をどうするか考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。

そうですね。意思と責任を除外して事を進めるところが、我が国民の不幸の始まりですね。当事者不在の国造りですね。

>何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らは責任をとらない。>当たり前である。>それは彼らの人生ではないからだ。

とかく、この世は無責任。我が国において、責任の所在を突き止めることは容易なことではない。それは、個人に意思が存在しないからである。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

>しかし当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。

そうですね。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者になる。表明が無ければ、傍観者にとどまる。日本人には、意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。それで、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。説明責任が果たせない。責任感も湧かない。孤高の人になるのか。

>しかしその結果は引き受けるしかない。

まいた種は、刈り取らなくてならない。なにびとにも後始末は必要ですね。だから、この問題は日本国民にとって深刻です。

>まさに学校教育と同じである。

‘いずこも同じ、秋の夕暮れ’ のようなものか。

>私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。

そうですね。個人には、独立・自尊が必要ですね。無哲学・能天気であるのは良くない。

>また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。>人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれない。

そうですね。意思を表明すれば、当事者となり、責任感が出る。信頼できる責任者にも成れる。意思を表明しなければ、責任もない。部外者のままである。先の大戦で、この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。重大な事件であるにも関わらず、とかくこの世は無責任。

>私たちに必要なのは、考える自由である。>そしてそのためには、何でも話していい場が、つねにではなくても、どこかで絶対に必要なのである。

そうですね。IT時代のブログの活用が期待されますね。

>しかもそれが対話を通して行われれば、自由が自分勝手になることも、責任が個人で背負う重荷になることもない。

そうですね。対話により批判精神が育ちますね。忖度による独りよがりがなくなりますね。

>お互いの間で承認され、共に享受するものになるのである。

そうですね。英語を学び、自己の意思の表現方法を習得して、多くの方々との意思疎通を可能にして、未来社会の建設に協力しあう機会を増やすと良いですね。



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何でも言って

2018-04-20 20:18:55 | 教育


>思考の自由を奪う教育>学校という空間では、「何でも言っていい」ということが徹底して否定されている。

日本語文法には、時制というものがないから、自由に発想された内容は、非現実 (考え) の世界の内容にはならずして、現実の世界における白昼夢になりますね。

>学校で子どもたちは、正しいこと、いいこと、先生の意向に沿うことを言うように訓練される。

これは、白昼夢を発しないための訓練でしょうね。

>間違ったことを言えば「違う」と言われ、悪いことを言えば怒られ、先生の意に添わなければ嫌われる。

先生の ‘意’ とは、先生の ‘恣意’ のことですかね。意味もなければ、矛盾も指摘できませんね。ただ、感情的になるばかりです。先生の顔色をうかがうことを覚えますね。

>もちろん正しいこと、良いことを教えるのは必要である。>人の気に入ることが何かを学ぶのも重要だろう。>けれどもだからといって、それ以外を排除していいわけではない。

そうですね。創造力を発揮する必要がありますね。

>この「それ以外」の余地が日本の学校ではほとんど禁じられているため、子どもたちは、その場にふさわしいこと、その場で期待されていることしか言わなくなる。

暗記力が役に立ちますね。創造的発想は役立ちませんね。斬新的な発言は期待できませんね。ありきたりばかりです。

>それがうまくできれば優秀な生徒として評価され、さもなければ出来の悪い生徒とされる。

学校は、ロボットの生産工場の様なものですね。社会の歯車になる規格品の人間が優秀な生徒ですね。

>許されているのは、与えられたことを決められたルールの中で行うことだけで、そのルールを守らせるために、教師は成績評価をアメとムチとして活用する。

スポーツの試合に参加している様なものですね。ルールは最初から決められていますね。

>学校において考える力は、そうやって枠をはめた状態で育成される。

ルールを覚えることに専念しますね。役立つものは、創造力ではなくて暗記力ですね。

>しかし発言の自由がないところには、思考の自由も自発性もない。

そうですね。非現実 (考え) の内容が文章として表現できないことは、日本人にとって致命的なことですね。

>問題はそれだけではない。>学校は教育の場と言うより、本来は学びの場である。>そして学びの主体は生徒である。>生徒こそが、学びの当事者である。>学びとは他の誰でもない生徒にとっての問題であるはずだ。

学 (まなぶ) とは、他の真似をすることでしょう。自分で考える事でない。

>しかし与えられたものを受け取るだけの学校では、学びの主体である生徒自身は、何をどのように学ぶかについて発言権がない。

そうですね。師はもっぱら弟子に教えを授けます。生徒自身は、発言権もなければ、自発性もない。受け身オンリーの生活ですね。

>学ぶべきことは教員が渡す教材、教科書のなかにある。>ある日突然教科書を渡され、それを学べと言われる。>そこに意見をさしはさむ余地はない。>「なぜそれを勉強するのか」「もっとこういうことを学びたい」というのは、けっして言ってはならないこと、考えるべきではないことだ。

教科書の内容は、考える人には必要のないことですね。もっぱら学ぶ人に必要なことです。

>自ら考えていないということは、自分のやっていることを自分で決めていない、選んでいないということである。>そうであれば、やったことの責任は本来とれないはずである。

日本人には意思が無い。意思のない人には、責任が無い。だから、説明責任はとれない。とかく、この世は無責任。

>にもかかわらず、結果に関しては、生徒が責任を負う。>たしかに生徒は、自分の成績が悪いことを教員のせいにすることもできる。>また良心的な教師なら、教え方のつたなさを反省し、自分の責任を認めるかもしれない。>しかし生徒がどんなに教員を非難しようが、教師がどれほど謝罪しようが、成績や受験の結果は生徒自身で引き受けるしかない。

そうですね。まいた種は、刈り取らなくてはならない。しかし、無意識のうちに蒔いた種には深刻な問題がありますね。我々は、考える人にならなくてはならないでしょう。

>要するに、学ぶということから見た場合、生徒も教師も、とれない責任をとろうとしたり、とらされたりしているのである。

そうですね。日本人には意思が無い。意思のない所には、方法 (仕方) がない。生起する問題に対処できない。だから、無為無策でいる。責任はとれないにもかかわらず、義務だけが残る。だから、日本残酷物語になる。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)


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考える力

2018-04-20 17:08:35 | 教育


>考える力はいらない?

種本をあたえられ、暗記力を使って回答する。だから、考える力は、必要なしですね。

>ずいぶん前から巷では、思考力やコミュニケーション能力が必要だと言われている。

日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがないので、日本人には意思が無い。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。
日本人には意思は無いが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。恣意は、単語 (小言・片言・独り言) のままである。恣意は文章にならないので、意味が無い。矛盾も指摘できない。聞き手は、忖度 (推察) により話し手に対応する。赤子に対応するようなものか。忖度は、聞き手の勝手の解釈であるから、話し手には責任が無い。とかく、この世は無責任となる。英米人の恣意は、’恥を知れ’ (Shame on you!) の一言の下に粉砕される。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>企業の国際競争力を上げるには、新しい発想を取り入れ、イノベーションを起こさないといけない。

新しい発想を得るには、考える力が必要ですね。

>グローバル化が進む世界では、時に衝突もしながら、いろんな国や地域の人たちと一緒に働かなければならない。

そうですね。自己の考えを明らかにする発言が必要ですね。

>そのために学校では、クリティカル・シンキングやコミュニケーション能力を向上させようと、ディスカッション、グループワークなど様々なことが試みられている。>子どものうちから「自ら考える力」をつけ、異なる立場の人と意思の疎通を図り、協同していく資質を伸ばす。

日本人には、意思が無い。恣意は認められない。意思疎通も恣意疎通も不可能ですね。異なる立場の人と、意思疎通を図ることは難しいので、初めから四面楚歌ですね。これは深刻な国難です。

>そうやって将来、社会に貢献でき、また自立した人生が送れるようになろう、というわけである。

足元がしっかりしていませんとね。希望的観測が強すぎるようですね。

>こういう動きを見ていると、考える力は世の中で強く求められ、それを育てようとする動きも活発になっているように見える。

‘考える’ とは、’今ある姿’ (現実) を認める事ばかりではなくて、’今はない姿’ (非現実) をも想定することですからね。非現実の三世界 (過去・現在・未来) を文章内容にする時制 (tense) というものが文法に必要です。時制は英語にはあって、日本語にはありません。

>しかし自由にものを考え、思考を広げ深めるには、上で述べたように、「何を言ってもいい」ということがきわめて重要である。>ところが実際には、「何を言ってもいい」ということは、世の中でほとんどない。>それは自由にものを考えられる場がないに等しい。

自由とは、意思の自由のことでしょう。日本人には、意思が無いから、自由があっても意味が無い。不自由を常と思えば不足なしとなります。

>しかもそれは、子どもだけの問題ではない。>大人や社会人、さらには引退した高齢者も同じ問題を抱えている。

日本語脳の持ち主は、皆同じ運命にありますね。この道は、いつか来た道。ああそうだよ。

>とはいえ学校教育は、社会全体で起きていることの正確な反映であり、その根源でもある。

そうですね。社会と学校は、補完関係にありますね。

(略)