>教育の延長としての社会>こうしたことは、社会に出てもほとんど変わらない。>最近の若い社員は自分で考えない、主体性がないと批判されるし、たしかにそういう面もあろう。
意思のない人には、主体性がありませんね。
>しかし実際には、ほとんどの会社や組織で、それは歓迎されず、むしろ禁じられているのではないか。
日本人には意思が無い。さりとて恣意 (私意・我がまま・身勝手) は、どこの国でも歓迎されず、禁じられています。ですから、日本人に関しては、主体性を論ずる余地が無い。
>学校と同様、発言は求められるが、そこで許容されるのは、正しい答え、よい答え、上司や会社の意向に沿う答えである。
そうですね。模範解答を覚えるために戦々恐々とする毎日ですね。主体性の余地はない。
>そこから外れることを言えば、怒られ、笑われ、諭され、無視される。>そのように自由にものが言えないところに考える自由はない。
そうですね。モノ言えば、唇寒し秋の風か。昔ながらの伝統か。
>結局学校と同じく、仕事も与えられたことを決められたやり方で遂行するよう期待される。>時に創意工夫は必要だろうし、仕事によっては個々人の裁量が認められていることもある。>けれども、「なぜそうするのか」という質問や「こんな仕事をしたい」という希望は、なかなか受け入れられないだろう。
そうですね。自発性が抑えられていますね。’考える人’ にはなれませんね。無哲学・能天気の暮らしが続きますね。
>同様のことは高齢者になった後も続く。生涯学習にせよ、養護施設での生活にせよ、高齢者は、自分でどうするかについて考える余地を与えられていない。>医療関係者や福祉関係者が彼らに必要なものを考えて提供する。
世の中万事に自発性は期待されていませんね。’意思のない所に、自発性なし’ か。気の利くサービスのある社会か。
>しかし、高齢者自身の生き方が重要なら、当事者である彼ら自身が何をどうしたいのか発言をし、考える自由が与えられなければならず、また彼らはその自由を行使しなければならない。
それはそうでしょうけれども、何しろ日本人は自分の考えに慣れていないことですしね。意思のない所に自由の価値もありませんからね。’卵が先か、鶏が先か’ の問題になりますね。一筋縄には解決しそうにありませんね。
>そうでなければ、学校教育と同じく、自分で自分の人生の帰結に責任をとることなどできない。>人生の締めくくりの段階が、そんなことでいいのだろうか。
自発性のない個人と、自発性を期待しない社会が、補完関係になっていますね。意思と責任の入る余地のない世界ですね。意思と責任を除外して事を進めようとするところが、我が国民の不幸なところですね。
>地域コミュニティでも同じことが繰り返されてきた。>地元住民が当事者として地域をどうするか考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。
そうですね。意思と責任を除外して事を進めるところが、我が国民の不幸の始まりですね。当事者不在の国造りですね。
>何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らは責任をとらない。>当たり前である。>それは彼らの人生ではないからだ。
とかく、この世は無責任。我が国において、責任の所在を突き止めることは容易なことではない。それは、個人に意思が存在しないからである。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)
>しかし当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。
そうですね。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者になる。表明が無ければ、傍観者にとどまる。日本人には、意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。それで、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。説明責任が果たせない。責任感も湧かない。孤高の人になるのか。
>しかしその結果は引き受けるしかない。
まいた種は、刈り取らなくてならない。なにびとにも後始末は必要ですね。だから、この問題は日本国民にとって深刻です。
>まさに学校教育と同じである。
‘いずこも同じ、秋の夕暮れ’ のようなものか。
>私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。
そうですね。個人には、独立・自尊が必要ですね。無哲学・能天気であるのは良くない。
>また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。>人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれない。
そうですね。意思を表明すれば、当事者となり、責任感が出る。信頼できる責任者にも成れる。意思を表明しなければ、責任もない。部外者のままである。先の大戦で、この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。重大な事件であるにも関わらず、とかくこの世は無責任。
>私たちに必要なのは、考える自由である。>そしてそのためには、何でも話していい場が、つねにではなくても、どこかで絶対に必要なのである。
そうですね。IT時代のブログの活用が期待されますね。
>しかもそれが対話を通して行われれば、自由が自分勝手になることも、責任が個人で背負う重荷になることもない。
そうですね。対話により批判精神が育ちますね。忖度による独りよがりがなくなりますね。
>お互いの間で承認され、共に享受するものになるのである。
そうですね。英語を学び、自己の意思の表現方法を習得して、多くの方々との意思疎通を可能にして、未来社会の建設に協力しあう機会を増やすと良いですね。
.