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実践英語

2018-04-06 14:35:15 | 教育


>まず、日本の英語教育の問題点ですが、恐らく10年前の英語教育と現在の英語教育が極端に変わっていないことだと思います。

英語教育は不変ですね。

>実践的な英語が重要だという声が高いにもかかわらず、いまだに、受験英語が優先さる現状にあります。

日本語教育の場合と同じでしょうね。

>入試英語が実践重視型の英語とリンクしていれば良いのですが、中心はリーディング、ライティング、文法力を測る問題となり、スピーキング、 リスニング力をはかる問題はその次になっています。

そうですね。正統的な言語の教育方法ですね。

>また文部科学省の規制が強く、必ず検定教科書を使わなくてならないのが現状です。

自由に学ばせたら良いですね。文部科学省に指導されなくても、英語の習得は可能であるはずです。

>教科書会社は同じ作成規定(ページ数、単語数など)のもとで教科書を作成しています。>これは自由競争の原理に反し、教科書の質の向上を妨げているように思います。

そうですね。教員の個人的な力量を反映していませんね。文部科学省主導の同次元・序列の競争ですね。

>ネイティブの先生方から、学校で使われている教科書はたいくつだ、というような声も聞きますがどうなんでしょう?

いっそ、ネイティブの先生方に、全てをまかせてしまったら良いでしょうね。授業が退屈でなくなります。

>日本の検定教科書、特に中学校のものは実際の生活に基づいたものではない場合が多く見受けられます。>例えば "Hi , Emi. This is a book." "Yes, Ken. It is a book." と言うような文を見ることがあります。>これは現実の世界で起こりえる会話でしょうか?だれが見ても本は明らかに本だと分かるのではないでしょうか?

学校の生活は、実際の生活にはなりませんね。でも、ネイティブの先生方の教え方は、実際の生活になりますね。

>即使える英語、すなわち実社会でネイティブスピーカーが使うような表現をもっと取り入れなければならないのです。

ネイティブの先生方は、そのような表現を良く知っているはずですね。宝の持ち腐れにならないようにネイティブの先生方を活用しましょう。

>日本の英語教育はどうしても文法中心、書き言葉中心となるので、ネイティブたちからすると、自然な英語ではなく、堅苦しいぎこちない英語に聞こえるのかもしれません。

日本語の教科書も同様な出来具合ですね。特に、日本人は文法の学習を敬遠するようですね。Grammar school は、西洋の伝統ですからね。英会話での、小言・片言・独り言をお望みですか。もしそうであるなら、文法はいらないですね。文章の解釈は必要なくて、単語にまつわる忖度 (推察) が必要になります。英語式の考え方からは、ますます遠くなりますね。

>実践英語への切り替えをスローガンにしている割には、まだまだ、現実が追いついていないのが現状です。

実践英語は、日常生活で覚えるのが効率的ですね。どこの国でも、子供はそうして母語を覚えているでしょう。



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翻訳

2018-04-06 12:08:48 | 教育
>落合陽一「日本再興戦略」より引用。
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>結論から言えば、語学は出来たほうがいいに決まっています。>特に英語のスピーチをするなら英語が流暢にできると有利です。>英語の幼児教育も、やらないよりやったほうがいいでしょう、LとRの発音は絶対音感みたいなものですので、幼少期に身に付かなかったら、ずっと身に付きません。

そうですね。残念ながら、私もずっと身に付かない口です。

>しかし、今後は日常生活に関しては、自動翻訳技術が飛躍的に向上していますので、ロジカルに話せるだけで十分だと思います。>今、語学がコンプレックスなっている人たちも劣等感を感じずにコミュニケーションが取れるようになります。

そんな時代が早く来ると良いのですがね。

>一方、英語が話せる「中身の薄い人」の化けの皮がはがれてしまうかもしれません。>これまで以上に、中身が大事になってくるのです。

そうですね。英米人でも、高等教育を受けていない人が大勢いますからね。

>よく考えて、意味が分かる言葉でしゃべることは、英語を勉強することよりも重要に成ります。

はたして、そのようになるものでしょかね。

>話し言葉にしろ、書き言葉にしろ、機械翻訳がちゃんとできるように、伝わりやすい表現を心がける必要があります。(中略)

それは、そうですね。

>日本語にはよい動詞、よい表現がそろっています。

私には、これは意味不明ですね。

>ちゃんとした日本語が書ける人は、英語もちゃんと書けるものです。

そうであると良いのですがね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
意思は、未来時制の文章内容であります。日本語文法には、時制 (tense) というものがないので、日本人には、意思 (will) がありません。ですから、優柔不断・意志薄弱に見えます。
日本人には、意思は無いが、恣意 (self-will) が有ります。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は、意思と違って文章にはなりません。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のまま、存在します。恣意には、意味もなければ、矛盾を指摘することもできません。聞き手は、忖度 (推察) によって、現実対応をします。忖度は、聞き手個人の勝手な解釈でありますから、発言者には、責任が有りません。とかく、この世は無責任であります。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>だから、英語を苦労して習得するよりも、ちゃんとした日本語の文を書けるようになったほうがいいでしょう。

日本語を介すことなく英語を学ぶと、その高等教育において正しい考え方を身につけることができるのではないでしょうか。There is no royal road to learning.


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