>●その授業、ホントに価値ある
>就活に時間をとられると、学生が大学からいなくなります。
そうですね。大学は就活生の発進基地になっていますね。
>自分たちの食い扶持である「授業」の存在価値、もっと言えば自分たちの存在価値が怪しくなるわけですから、当然ながら大騒ぎします。>しかし彼らは、自分たちが提供している授業が学生の期待に応えていないことを考慮していません。
学生の期待は、授業内容ではありませんね。大卒というレッテルですね。そのレッテルを得るために四年間をキャンパスで遊んで暮らしています。
>大学の授業にたくさんの学びとそれに伴う成長があれば、学生はこぞって授業を受けに行くでしょう。
そうですね。無哲学・能天気の環境では、学生の大学での成長はありませんね。
>なにがしかの成長を果たせるなら、結果的に就活で内定に至ることは決して難しくないからです。
> ~中略~
>●大学が行わない職業教育は「就活」が担っている
>成長を伴う学びが少ない大学の授業に比べると、就職活動そのものが学生に成長をもたらす効果は大きいといえます。
職業教育は、専門学校で受けられますね。実学 (技術) は専門学校で、哲学 (虚学?) は大学で受けられます。実学で現実の内容を学び、哲学で非現実の内容を学びます。
>新入社員に話を聞くと「今思えば、就活が一番成長した実感がある」と答える学生は少なくありません。
実社会にある実学が日本人を成長させるのですね。
>私は就活に時間と労力を注ぐことが、職業観の醸成を図るうえでも必要だと考えています。
そうでしょうね。非現実の内容は、現実離れがした内容になるので、日本人には信じることが難しいです。
>私自身もそうだったのですが、ほとんどの学生は就職活動を通じて、初めて真剣に「どんな働き方をしたいのか?」「どんな仕事をしたいのか?」などと社会との関わり方を考え始めるのではないでしょうか。
我々は、考える人になる必要がありますね。
>そして「社会にはどんな仕事があるのだろうか?」と調べ始め、最初は有名企業を受けながらも徐々に様々な企業の存在を知り、社会の仕組みを知っていくのです。
わかりやすい社会学ですね。
>このプロセスそのものが、いまの大学生にとっては一番の職業教育になっていると私は思っています。
実学の内容は、見ればわかりますからね。哲学の内容は、見ることができない。理解しなければわからない。
>大学の出口を「就職」とすれば、本来ならこれらの教育も大学の役割なのかもしれませんが、大学はこういった役割を果たせていません。
そうですね。大学は、哲学 (非現実) の教育機関ですから、実学 (現実) の教育機関にはなりませんね。
>正直なところ、採用の仕事をしていて「この大学は学生の教育を本当にしっかりやっているなぁ」と思ったことが一度もないのです。
無哲学・能天気の日本社会では、大学教育はり立たないでしょう。
>●希望の仕事に就くために中退して中途採用を受ける人も
>大学があろうとなかろうと、立派な学生はいます。>彼ら彼女らの学びの深さ、考える力の豊かさに接すると「20歳そこそこの年齢で、本当に素晴らしいなぁ」と感服します。>しかし彼らが有する能力のうち、大学のカリキュラムによって培われたものと言えるものは、残念ながらあまりに少ないのです。
考え (非現実) の内容は、見ることができない。日本語で自己の考えを述べることは、見てきたような嘘をつくことになる。これは、日本語文法に時制 (tense) というものがないためです。時制があれば、非現実の三世界 (過去・現在・未来) は文章内容になります。考え (非現実) の内容は、脳裏に記憶としてとどめ置かれます。この種の日本人の嘘は、西洋人の学問になっています。この事実は、日本人の想像を絶するところです。
>偶然素晴らしい教員に出会い、開花する学生もいるでしょうが、それも大学教育のおかげというより一人の優秀な教育者の個人技に過ぎません。>大学がその個人技を活かせればいいのですが、少なくとも私はそういう取組みを聞いたことがありません。
個人的な接触は、英米系の大学でなされることですね。
>大学が教育機関として機能しなければ、大学を卒業することすら意味がなくなってきます。
日本の大学は、日本人の序列メンタリティを充足するために運営されています。そうした意味では、今でも機能しています。学卒のレッテルは、足の裏についた飯粒のようなものか。取らずにはいられない。
>実際、希望の仕事に就くために4年生でありながら航空会社の中途採用の選考を受け、中途退学で働き始めた人もいるくらいです。>卒業証書は、活躍する社会人の証明書ではありません。
大学卒のレッテルも、万能ではなくなったようですね。
>むしろ、一日も早く仕事を覚えることの方が明らかに有意義です。
大学にいても、他にすることもないですからね。
>今後も大学が教育機関として存在価値を示せずにいれば、このような形の採用も珍しくなくなるのかもしれません。
そうですね。大学という名前の専門学校になるのか。こうした羊頭狗肉はどこまでも日本人に必要なのか。
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