>現代ビジネス >日本人は「無宗教」なのか…意外と知らない「独特な信仰心」の正体 >松岡正剛 (仏教学者) の意見・ >14時間・
>「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。
>日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?
>昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。
>2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。
>※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。
>日本人は「創唱宗教」に無関心
>歴史をふりかえれば、日本人が無宗教であったとか、信仰心がなかったとはとうてい言えません。
>聖徳太子の「唯仏是真」宣言や東大寺の大仏開眼このかた、日本人は仏教や仏像を愛し、読経に親しみ、その一方で伊勢や出雲や各地の鎮守の八幡さんをはじめとする神祇神道にも親しみ、さらには数々の民間信仰にも関心を寄せてきたのです。
>つまりもともと神仏習合的だったのです。
>中世には熊野信仰が流行しました。
>近世には富士信仰が流行しました。
>こういったことはずうっと続いているのです。
>だから日本人が無宗教だとか無信仰だとかとは、とうてい言えません。
これらは自然崇拝でしょうね。形式 (儀式) があって内容 (教義) が無い。
>それなのにあいまいで、自分自身の宗教性は語らない。
そうですね。
>信仰力を大事なものと見ない傾向がある。
>どうしてなのでしょうか。
>阿満利麿は話題になった『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)という本のなかで、日本人は「創唱宗教」にもとづく信仰には全般的に無関心なのであって、それをもって必ずしも信仰心がないとは言えないだろうと書きました。
>創唱宗教というのは教祖・教義・教団がはっきりしている宗教のことです。
>そういう創唱宗教を各自がもっているわけではないが、みんながそれぞれ勝手な信仰心をそれなりに発揮してきたというのです。
それは自然崇拝だからでしょうね。
>日本の信仰は「シンクレティズム」
>つまり日本人は宗教を拒否しているわけでも、否定しているわけでもなく、そのつど「信仰の向き」を選択しているのではないかというのです。
日本人には世界観がない。だから ‘地獄・極楽’ の教えもない。
>欧米の宗教学者たちは、こうした日本人の信仰は「シンクレティズム」(混淆的信仰観)だと言います。
>まあ、当たらずとも遠からずです。
>ただし、日本のシンクレティズムは宗教だけにはかぎりません。
>いろいろな場面で混淆的です。(混淆:こんこう、入り混じること)
日本人には ‘考え・哲学’ がない。だから話に筋がない。だから話が入り混じる。
たとえば、生まれた時には宮参り、結婚式はキリスト教会、葬儀の時は仏式のご厄介になる。といったようなものである。内容が無いからそれだけ余計に形式には力が入る。だから、改革運動は難しい。内容を考える欧米人には日本人が不可解な民族に映る。
>リミックスが得意なのです。
>このことはまた話します。
>ともかくも、たしかに親鸞や座禅や初詣が好きなのは、その依ってきたる浄土真宗の教義や禅の清規や初詣をした神社の御祭神のせいではなくて、おそらくはたんに「ありがたい気分」がするだけからかもしれません。
そうですね。
なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる (西行)
>その一方で、たくさんの人々が伝統宗教や八十八ヵ所巡りや新宗教にかかわって、今日も仏前にロウソクを灯し、神棚の水をとりかえているのも事実なのです。
>というようなことで、私たち日本人にとって神道と仏教は実はわかるようでいて、なかなかわからないものの代表のようです。
そうですね。神道は自然崇拝で、仏教はインド哲学由来の内容ですけれどもね。
>それでも、日本の神と仏はずうっと習合しようとしつづけた、と言うべきです。
そうですね。無理が通れば通が引っ込む。When might is master, justice is servant.
>神と仏を分離しようとしたのは、明治政府が神仏分離令を発布して行われた廃仏毀釈のときだけです。
>この痛手はのちに影響をのこしたものの、大きくは今日にいたるまであいかわらず神仏習合が主流になってきたのです。
そうですね。
(略)
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