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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

考えない人間 5/5  

2021-05-17 16:30:40 | 文化

 

>私が言いたいことは、暗記教育が全て悪いわけではないですが、暗記重視によって考えるという部分が消失してしまうようにしていることが問題だということです。>得意なことを伸ばさず、苦手を克服するように仕向けるのも、考えさせるのを嫌にするための手法だと考えられます。

 

得手に帆を揚げる教育が大切ですね。好きこそ物の上手なれ。好きなこと・得意なことの習得能率は断トツであります。短い人生を有効活用する方法ですね。     

 

>誰もが苦手なものを考えるのは苦痛なものですが、その苦痛を押しつけることによって、考えることそのものを苦痛にしてしまうわけです。>その結果、海外で正しい教育を受けた人の一部以外、日本人の誰も考えなくなってしまいます。

 

それは烏合の衆ですね。   

 

>制服を押しつけるのも、個性を殺して「考えさせない」ための有益な手法だと考えられます。>細かい規則を守らせるのも、団体行動を強制するのも、すべて「考えさせない」で「従わせる」ためのものだと思うわけです。>学校が行き過ぎるほど細かい規則を守らせることは、結果的に「何も考えず、黙って従う」人間を作り出すことになっているように思います。>今日も日本の学校は、考えない「人間」を生み出しているわけです。

 

似たようなことですが、日本の宗教には儀式 (作法) があって、教義 (教え) がない。だから日本人は、儀式・作法ついて特にやかましい。     

 

>これまで日本で受けた教育は、基本的に社畜になるための教育だったことから、「自分を取り戻す」ためには、一旦、学校で覚えたことはすべて忘れる必要があると思います。>ただ、サラリーマンで居続けたい「人間」だけはそう考えてはいけません。>なぜなら、下手に考えると、社会からはぐれてしまうからです。     

 

そうですね。序列人間は序列から離れると外人・非国民になりますね。序列に基づく協力ができないと日本人は力を発揮できずに虫けらのようになってしまいます。   

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

 

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)       

 

 

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考えない人間 4/5  

2021-05-17 16:15:06 | 文化

 

>「日本の学校教育は考えさせないことが役割」   

>日本のサラリーマンというのは、考えることよりも考えないことが求められる職業(職種)だと思われます。 

 

そうですね。わが国には人手不足はあっても、頭脳不足は存在しませんね。きっと天下の秀才が揃っているのでしょう。      

 

>そのために、何をどうするかという部分についても「考えさせない」ために、大企業を筆頭に「マニュアル」というものを用意しています。 

 

労働者はマニュアル組とノンマニュアル組に分けられていますね。   

 

>まずは、マニュアルというのは、実は人間を「考えさせない」ためのものだということに気づかなければいけません。>マニュアルは効率化とサービスの均質化を生み出すので企業にとっては好都合な存在です。>しかし、逆に考えると、それを行う「人間」「この通りにやれ」という強制になるわけです。>企業側は誰もが同じ手順で行うように強制し、一切の例外を認めることはありません。>要するに、マニュアルは、「よけいなことを考えるな」というメッセージだということになります。

 

それは作法・儀式のようなものですね。    

 

>このような中、サラリーマンが考えて良いことは、会社が「考えろ」と強制した部分だけになります。>それ以外の部分は「考えないこと」が期待されているわけです。

 

そうですね。    

 

>そもそも考えるというのは、自分の意見を持つということです。  

 

それは個人主義の基本ですね。  

 

>考えて自分の意見を押し通すというのは、集団よりも個人を優先するということです。  

 

そうですね。   

 

>日本のサラリーマン全員が、自分の好き勝手にあれこれ考え始めると統制がとれなくなるわけです。

 

日本人は対話・議論はしないのですかね。   

 

>だから、あれこれ「考えない」で、言われたことだけを完璧に実行するロボットのような人材を大企業を筆頭に欲しがり、学校はそれを意識的にも無意識的にも読み取って、そうなるように子供を矯正していくわけです。  

 

特高 (特別高等警察) による取り締まりが必要ですね。想定外の事柄が山積しますね。日本は必ず勝つとか、原発は安全だなどと声をそろえて言っていましたからね。       

 

>政府や文科省、企業から学校に課せられた役割とは、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」人間を作り出すことです。 >そして、日本国民の80%以上が学校を卒業してサラリーマンになるのだから、その意味で学校教育は成功しているわけです。

 

そうですね。その成功は日本語のお陰ですね。      

 

>「人」というのは何かをいろいろと覚えさせれば自然に「考える」ようになってしまう性質があります。>しかし、日本の教育では「考えさせない」ことが役割になっているため、学校ではどうやって子どもたちを考えさせないようにしているのでしょうか? 

 

誰しも嘘つきにはなりたくないですからね。事実は頭の外にあって現実の中にあります。考えの内容は頭の中にあって見ることができません。見ることができない内容は嘘である。      

 

>それには、まず暗記を押し付けて「考えさせない」ようにし、苦手を押し付けて「考えさせない」ようにし、そして制服を押し付けて「考えさせない」ようにし、また規則を押し付けて「考えさせない」ようにし、さらに団体行動を押し付けて「考えさせない」ようにすることで、成し遂げられているように考えられます。

 

そうですね。日本人には意思がない。だから、受動ばかりで能動的な言動がない。それは家畜の群れのようなものか。      

 

>日本の教育現場では、実際に学校は考える余裕がなくなるほど暗記させています。>そして、暗記を子どもにひたすらやらせると自然と右脳が使えなくなり、脳全体で考える暇がなくなるわけです。 

 

考えの内容は時制のある文章で表現されますね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

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考えない人間 3/5  

2021-05-17 15:58:14 | 文化

 

>それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解することができます。 >要するに、学校とは閉鎖された日本社会で通用する「人間」を作り出すところだということです。

 

そうですね。学校は学生に処世術を習得させるところですね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。         

政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。これが日本人の人生における究極の楽しみである。 

 

>日本で「社会に通用する」というのは、どこかの会社や組織のサラリーマンになれるということです。

 

そうですね。序列社会の序列人間に成れるということがわが国で通用することですね。身分を明らかにすることがわが国での信用につながることで、何処の序列の人間であるかが誇りにつながりますね。       

 

>世界的に見ても、教育とは子どもを規格化するという側面がありますが、学校は最終的に子どもを社会で通用する人間に矯正する場所です。>子どもを規格化するということです。>世界的には珍しい特徴として、日本では国民の80%以上がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な役割は「日本人がサラリーマンとして通用するように規格化すること」ということになりそうです。>しかし、日本のサラリーマンとは「上司の言うことをよく聞いて、口答えせずに言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる「人間」でなければいけません。>だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった「人間」を作り出す仕組みになっていると思われます。

 

適材適所の考えですね。    

 

>「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの「人間」になるということです。>つまり、自分で「考えない」ことが重要になってきます。

 

そうですね。彼らは自己の意思と積極性を持つことのない社畜ですね。    

 

>そして、「口答えしない」というのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するという意味があります。>つまり、自分で「考えない」ことが重要です。 

 

そうですね。社畜化教育は皇民化教育に似ていますね。    

 

>また、「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それは自分で「考えない」ことが求められていることになります。

 

修身教科書 (明治35年-昭和20年) よれば、木口小平 (1872-1894) は日清戦争において、ラッパ手として、死んでも口からラッパを離さなかったとされていました。

 

>さらに、「不満があっても黙々と働く」というのは奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できるものです。 

 

恣意を鍛えて意地・根性・大和魂として達成したものですね。恣意は文章 (考え) にならず、リーズン (理性・理由・適当) がない。   

 

>最後に、「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであることから、「考えない」ことで達成できるわけです。

 

そうですね。後追いの態度でやり過ごすことですね。衆愚政治の要員になることですね。  

 

 

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考えない人間 2/5  

2021-05-17 15:42:15 | 文化

 

>それに気づかないのは、一部だけではなく、様々な世代の日本人にも当てはまっているように思います。 >なぜなら、出会う日本人と話すたびに、多くの人が感じ取れる心の領域がかなりしぼんでしまっているからです。 

 

そうですね。日本人は日本語を話しますからね。日本人には日本語の特性が身に付いていますね。

言語は伝達の手段としてばかりではなく、思考の手段にもなっていますね。ですから、日本語オンリーの人には日本人のメンタリティ (考え方) は避けられませんね。   

 

>動物は、危険を感じ取れる嗅覚を持っています。 

 

>しかし、今の日本人は膨大にあふれる物質社会の中で、心と魂がどんどん隅に追いやられていると感じます。>特に、まだ人生経験が少ない20代にもその傾向が見えていることはとても残念なことです。 

 

日本には何でもあるが、只夢と希望だけがない。残酷な感じのするものは未来のない若者と過去のない老人でしょうね。       

 

>多くの日本人は大きく勘違いしているように思うのですが、「覚える」というのと、「考える」ことができるというのは、別のものだということです。 >この2つは似ているようで全く違う脳を使っています。 

 

そうですね。覚える内容は頭の外にある。考える内容は頭の中にある。   

 

>「覚える」というのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶する左脳によってインプットしています。 >しかし、「覚える」というのは単なる基本であって、本来はそこからさらに飛躍しなければならないわけです。 >それが「考える」という右脳を使ったアウトプットです。>学校が何かを覚えさせる場所であるというのは誰でも知っていますが、しかし、うまく考えさせることができないようです。  

 

そうですね。非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>なぜなら、日本の教育は構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっているからです。

 

日本人は思考停止の状態にありますから、他人の内容の受け売りをするしかありませんね。その為には暗記力が必要です。   

 

>覚えさせても考えさせないということは、そもそも「考える」という部分を軽視していることになります。

 

そうですね。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  しかしながら日本人は無哲学・能天気で人生を過ごしてている。      

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

 

 

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考えない人間 1/5  

2021-05-17 14:36:02 | 文化

 

>「学校からの脱出」を私たち大人も真剣に考えるべき時 | メイン | 教育虐待の主流は巧妙なマインドコントロールへと変容している。 >20210513

>日本の学校教育は、考えない人間を生み出している 

 

そうですね。日本人は考えませんからね。

 見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。思慮ある人は ’事実を確認しその解釈を吟味する’が、凡人は ‘期待したもの’ しか見ようとしない。

 

>日本の学校で重要な役割は「日本人がサラリーマンとして通用するように規格化すること」

 

人の振り見て我がふり直せということですね。   

 

>・・・「忍耐が大事」とか、「連帯責任」をやたら身に着けさせようとするのはこのためだったのですね。      

 

日本人には意思がない。だが、恣意がある。だから恣意 (私意・我儘・身勝手) を活用して仕事をさせようということになる。恣意を鍛えて意地・根性・大和魂としている。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

 

>でも、大きく変化するこれからの社会、それだけで生きていけるのでしょうか。    

 

それは難しいでしょうね。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。  

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)     

 

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>http://www.peters.jp/ba/future_direction/japanese-school-education-creates-unthinkable-people_real-position-of-japanese-salaried-workers_607.html

>http://www.peters.jp/ba/future_direction/do-not-think-about-the-role-of-japanese-school-education_608.html

>より引用します。

>「日本のサラリーマンの本当の姿」     

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>さて、この数十年間、詰め込みや押し付けばかりの日本の学校教育ですが、海外から眺めていると、まるでロボット人間の大量生産の場と化しているように見えています。  >これが大切なことを感じられない「人間」に追いやり、不幸や死に追いやってしまう原因だと考えてしまうわけです。

 

そうですね。それは個性を認めない教育だからでしょう。個性のない人間は自己実現も無く不幸ですね。     

 

>身体は痛みを感じて危険を知らせてくれますが、その前に心で感じられなければ、多くの危険な領域にあなたはすでに入り込んでいることになっているかもしれません。>学校に洗脳され、マスコミに騙されながら、どんどん危険な局面に接しているように思います。  

 

思考停止と暗記専行では洗脳になるしかありませんね。筋金入りですね。      

 

 

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