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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

Hofstede の洞察 6/6  

2021-05-25 20:29:15 | 文化

 

>これらはすべて、企業の耐久性を高めるためのものだ。

 

そうですね。社員には愛社精神が必要である。国民には愛国心が必要である。皇軍兵士の蛸壺戦法のようなものである。蛸壺を出て兵士は行くところなどない。   

勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ’  (ヘルマン・ゲーリング)   

 

>企業は株主のために四半期ごとに儲けるためにあるのではなく、ステークホルダーや社会全体のために何世代にもわたって奉仕するためにある、という考え方です(例:マツシタ)。

 

企業は序列人間の住みかであり、何世代にもわたって住むために獲得したヤドカリの所有する巻貝の殻のようなものである。   

 

>■インダルジェンス [甘やかし]   

今も昔も、人類が直面している課題の一つは、小さな子供がどれだけ社会化されているかということです。>社会化がなければ、人間は「人間」になれない。 

 

そうですね。恣意 (私意・我儘・身勝手) の人間では、アニマルと変わりありませんねからね。   

 

>この次元は、人が育った環境に基づいて、自分の欲望や衝動をコントロールしようとする度合いとして定義されます。>比較的弱いコントロールは「放任」と呼ばれ、比較的強いコントロールは「自制」と呼ばれます。 >したがって、文化は「放任主義」と「抑制主義」に分類されます。 >42点と低い日本は、「抑制」の文化を持っていることがわかります。 >この次元のスコアが低い社会は、シニシズムと悲観主義の傾向があります。  

 

そうですね。不自由を常と思えば不足なしか。日本人は常に自重しなければならない。日本人の生活は浪花節調ですね。    

日本人には意思がなく、リーズン (理性・理由・適当) もない。

だが義理 (序列関係から生じる義務) と人情 (恣意) がある。恣意は、私意・我儘・身勝手の事である。意思の無い人間を活発化にするために、恣意を鍛えて意地・根性・大和魂にしている。それぞに志 (こころざし) を持たせて活発化する。    

リーズンのない志による努力が裏目に出ることも多い。その説明責任を取ることもできない。というのも、恣意・志は文章にならないので、その意味もない。だから、うやむやな後始末になることも多く、その鬱憤を皮肉で紛らわせることになる。リーズンのない社会の住民の苦しみである。      

 

>また、「放任主義」の社会とは対照的に、「抑制主義」の社会では、余暇をあまり重視せず、欲望の充足をコントロールします。   

 

そうですね。我が国民は修行生活を高く評価していますね。     

 

>この指向性を持つ人々は、自分の行動が社会的規範によって制限されているという認識を持ち、自分を甘やかすことはどこか間違っていると感じています。

 

日本人にとっては自己の挙動を慎むことは大切なことですね。   

 

 

 

 

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Hofstede の洞察 5/6  

2021-05-25 20:05:28 | 文化

 

>日本人は自分の人生を、人類の長い歴史の中のごく短い瞬間と考えています。  

 

日本語には時制がない。だから、過去の内容も未来の内容も脳裏に保持することは難しい。日本人にはただ現実だけがある。ナウな発言をする人間であります。    

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。  

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には to be に当る適当な動詞がない。”being とか “reality のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。  

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」   

 

>この観点からすると、ある種の運命論は日本人にとって不思議なことではありません。>自分の人生の中でベストを尽くす、それだけのことなのです。  

 

そうですね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)   

 

>唯一無二の全能の神という概念も、日本人には馴染みがありません。  

 

そうですね。非現実 (考え) の世界であれば全知全能の神は考えられる。しかし、現実の中でそれを観察することは不可能である。日本人には現実があって非現実がない。だから、実学 (技術) があって、哲学 (考え) がない。そして、無哲学・能天気な人間になっている。        

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)   

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’   (ウスビ・サコ)   

 

>人々は、美徳や実践的な模範に導かれて人生を生きています。

 

そうですね。日本人には哲学がなくて、処世術があります。   

 

>日本の企業では、経済的に困難な状況でも研究開発への投資率が常に高いこと、自己資本比率が高いこと、四半期ごとの利益よりも市場シェアの着実な拡大を優先することなど、長期的な志向性が見られます。  

 

日本人には長期的な展望などはありません。一寸先は闇です。しかし、日本人は序列人間であるために、自己の属する序列から抜け出すことが難しい。一旦出たら行きどころがない。それが最大の不安です。   

ヤドカリは甲殻類に属する節足動物で、外見は似ているが巻貝の殻の中に住んでいる。だから、彼らの生活には巻貝の殻がどうしても必要である。

日本人は序列人間であるから、どうしても自己の名を序列の中に差し挟むことが必要である。移り住むべき新しい序列を見つけることも非常に難しいので、今いる序列に強い帰属意識を持っている。だがそれは長期展望などのためではない。長期展望は常に想定外になっている。       

 

 

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Hofstede の洞察 4/6  

2021-05-25 18:53:58 | 文化

 

>■不確実性の回避

>「不確実性回避」とは、社会が未来を知ることができないという事実に対処する方法と関係しています。>つまり、未来をコントロールしようとするべきなのか、それともただ成り行きに任せるべきなのかということです。  

 

日本人は成り行き任せですね。日本人の脳裏には未来時制が存在しない。だから、日本人は未来社会の内容を建設の努力目標とすることができない。一寸先が闇である。      

 

>この曖昧さは不安をもたらし、異なる文化は異なる方法でこの不安に対処することを学んできました。>ある文化の構成員が、曖昧で未知の状況に脅威を感じ、それを回避しようとする信念や制度をどの程度作ってきたかが、「不確実性回避」のスコアに反映されます。>92点の日本は、地球上で最も不確実性を回避している国のひとつです。>これは、日本が地震や津波、台風、火山の噴火などの自然災害に常に脅かされていることに起因しています。>このような状況下で、日本人はあらゆる不確実な状況に備えることを学んだ。  

 

我が国においては津波対策も十分ではありませんね。   

 

>これは、突然の自然災害に対する緊急計画や予防措置だけでなく、社会のあらゆる側面にも当てはまります。>日本では、何をするにしても予測可能性を最大限に高めるように規定されていると言えるでしょう。

 

しかし、先の大戦では日本人が予測に無力であることが証明されましたね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。   

 

>ゆりかごから墓場まで、人生は非常に儀式化されていて、たくさんの儀式があります。  

 

そうですね。日本人は礼儀正しい人間でないと務まりませんね。式次第に従う方が、自分自身で判断するよりも気が楽ですね。         

 

>例えば、学校の始業式と終業式は、日本のどこでもほぼ同じように行われます。 >また、冠婚葬祭などの重要な社会的イベントでは、服装や立ち居振る舞いなどがマナーブックに詳細に記されています。 >学校の先生や公務員は、前例のないことはやりたがりません。  

 

そうですね。我が国には、儀式 (作法) があって、教義 (教え) がない。だから、日本人は勢い儀式・作法に力を入れることになります。生まれた時には宮参り、結婚式はキリスト教会、死んだ時には葬式仏教のご厄介になっています。       

 

>日本の企業では、プロジェクトを開始する前に、フィージビリティ・スタディに多くの時間と労力が費やされ、すべてのリスク要因を洗い出さなければなりません。 >経営者は何かを決定する前に、すべての詳細な事実と数値を求めます。

 

個人意思の無い社会では、客観的なデータが決定の全てですね。ですから意思を持った偉大な人物は出現はこの国にはないのでしょう。        

 

>このように不確実性回避の必要性が高いことが、日本では変化を実現することが難しい理由の一つです。  

 

そうですね。石橋を叩くばかりでは革新的な事柄は起こりえませんね。  

 

 

>■長期的志向

>この次元は、それぞれの社会が、現在と未来の課題に対処する一方で、自らの過去とのつながりを維持しなければならないことを説明しており、社会はこの2つの実存的目標の優先順位を異なったものにしています。 >例えば、この次元のスコアが低い規範的な社会は、昔ながらの伝統や規範を維持することを好む一方で、社会の変化を疑ってかかります。 >一方、高得点の文化圏では、より現実的なアプローチをとっています。>倹約を奨励し、将来に備えるために近代的な教育に力を入れています。>88点の日本は、最も長期的志向を持つ社会の一つである。

 

日本人の思考は近視眼的ですから、遠い未来の内容は考えられませんね。無為無策が長期的思考と受け取られているのでしょうね。   

 

 

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Hofstede の洞察 3/6  

2021-05-25 17:16:21 | 文化

 

>しかし、他のアジア諸国に比べて集団主義的ではありません。>この理由として最もよく知られているのは、日本社会には中国や韓国のような集団主義的な社会の基盤となる大家族制度がないということです。 

 

戦時中の八紘一宇’ (世界を家とすること) は空しい掛け声でしたね。序列社会は直系の義家族で成り立っています。義父母・義兄弟がいます。ですから、義理 (序列関係から生ずる義務) が廃ればこの世は闇になると考えられています。 ですから、序列作法は大切です。礼儀正しい日本人は尊敬されています。     

 

>日本は父系社会であり、家名や資産は父から長男へと継承されました。  

 

そうですね。わが国は長子 (長男) 相続でしたね。 日本人は個人個人が縦に連なっていますね。日本全体として玉すだれのような構造の社会を作っていますね。その特徴は横の関係がないことです。   

 

>弟や妹は家を出て、それぞれの家族と一緒に生活しなければなりませんでした。  

 

そうですね。弟や妹は別の序列系列の人 (義家族) になりますね。     

 

>一見逆説的な例として、日本人は会社に忠誠を誓うことで有名ですが、中国人は簡単にジョブホッピングをするようです。>しかし、会社への忠誠心は個人主義的なものであり、自分で選択したものです。 >日本のイングループは状況に応じて変化すると言えます。

 

そうですね。やくざ仲間のようなもので兄弟仁義によりつながっていますね。   

 

>集団主義的な文化では、人々は大家族や地元のコミュニティなど、生まれながらの内集団に忠誠を誓います。  

 

そうですね。中国の客家 (はっか) の人は客家の中で暮らす必要がありましたね。   

 

>日本人は、西洋の基準では集団主義的で、アジアの基準では個人主義的であると言われています。

 

そうですね。 日本人は没個性でありながら利己的な働きをする必要がありましたね。    

 

>日本人は他のアジア人に比べて、より私的で控えめです。

 

我が国では昔から下におれ・下におれの掛け声が民にかけられましたからね。それに、世間の目も厳しいですからね。     

 

>■男性らしさ MASCULINITY

>この次元での高得点(男性型)は、社会が競争、達成、成功によって動かされることを示し、成功は勝者やその分野での最高の者によって定義されます。 >このディメンションのスコアが低い(フェミニン)ということは、社会で支配的な価値観が他者への配慮と生活の質であることを意味します。>フェミニンな社会とは、生活の質が成功の証であり、人から目立つことが賞賛されない社会です。 

 

男は外に出て勝負をし、女は家庭を守るということですかね。そこで、男本位になるか、女本位になるかと言ことでしょうね。        

 

>ここでの根本的な問題は、人を動かすのは何かということです。 >一番になりたいと思うこと(男性的)か、自分のしていることを好きになること(女性的)か。 >95点の日本は、世界で最も男性的な社会のひとつです。 

 

男の野望・立身出世が重んじられる社会ですね。    

 

>しかし、穏やかな集団主義と相まって、私たちが男性的な文化から連想するような、自己主張や競争心の強い個人の行動は見られません。 

 

没個性の日本人には個人の行動はさえませんね。   

 

>見られるのは、グループ間の厳しい競争です。  

 

そうですね。序列に基づく協力が大いに力を発揮する社会ですね。だから派閥争いが激しくなります。       

「中国人1人では龍であるが、3人集まると虫になる。日本人1人では虫であるが、3人集まると龍になる」 (中国の諺)

 三人の中国人は、お互いの足の引っ張り合いに熱中するが、三人の日本人は、序列に基づく協力に熱中します。 

 

>幼稚園では幼い頃から、運動会では自分のグループのために競争することを学びます(伝統的な赤組対白組)。  

 

赤勝て、白勝てですね。源平合戦のようなものか。      

 

>日本の企業では、従業員が最もやる気を出すのは、競争相手に勝つためにチームで戦っているときだと言われています。 

 

それは序列社会の慣行ですね。   

 

>また、日本の男性らしさの表現として、物質的な生産(モノヅクリ)、物質的なサービス(ホテルやレストラン)、プレゼンテーション(ギフトラッピングや料理の盛り付け)など、生活のあらゆる場面で卓越性や完璧さを求める傾向が見られます。

 

日本人の職人気質ですね。名人は称賛の的ですね。人間国宝になります。          

 

>悪名高い日本人のワーカホリックは、彼らの男性性のもう一つの表現です。>ハードで長い労働時間という男性的な規範を持つ日本では、女性が企業の階段を上るのはまだ難しいのです。    

 

そうですね。職場における根競べには女性はついてゆけませんね。忍耐・根性は日本男性の宝です。      

 

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Hofstede の洞察 2/6  

2021-05-25 16:35:18 | 文化

 

>逆説的ですが、日本の意思決定プロセスの遅さは、日本社会には階層社会のように意思決定できるトップがいないことを示しています。

 

そうですね。日本人の社会は序列社会 (縦社会) である。日本人の社会にはトップは居ても、日本人には意思がないから意思決定のできるトップはいない。トップは君臨すれども統治せずか。わが国は無哲学・能天気の国である。   

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。・・・・・・・・・東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)   

 

>パワー・ディスタンスがそれほど高くないもう一つの例は、日本が常に実力主義の社会であることです。

 

そうですね。日本人は常に勝負の世界に住んでいますね。勝敗が決まらなければものの上下も決まらない。礼儀作法も決まらない。序列社会の根底が崩れます。         

 

>日本の教育システムでは、誰もが生まれながらにして平等であり、誰もが一生懸命努力すれば出世して何にでもなれるという強い概念があります。  

 

現在のわが国では同次元序列の競争が盛んですね。国民は立身出世の可能性を信じています。       

 

>■個人主義

>この次元で扱われる基本的な問題は、社会がその構成員の間で維持している相互依存の度合いです。>これは、人々の自己イメージが「私」と「私たち」のどちらで定義されるかに関係します。>個人主義の社会では、人々は自分と自分の直系家族の面倒だけを見ることになっています。>集団主義社会では、人々は忠誠心と引き換えに自分たちの面倒を見てくれる「グループ」に属しています。>日本は個人主義の次元で46点です。>確かに日本の社会には、個人の意見よりも集団の調和を優先したり、面目を失うことを恥じる気持ちが強かったりと、集団主義的な社会の特徴が多く見られます。  

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により異なる文章表現になるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることになる。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。自己の考えに関する内容がないので全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、その議論も現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。どっちもどっちだの結論になる。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、マスコミもどんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

 

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