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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

小谷允志氏 3/3  

2021-05-09 14:39:26 | 文化

 

>お互いに意見を戦わせることによって、その問題について新しい発見をしたり、認識を深め合ったりするよりも、表面的な人間関係を気にして、白黒をつけようとしないのである。

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。そして、正しい考え方を普及させよう。考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。

 

>あるいは議論をしたとしても面子にこだわるから、その場の議論で終わらず、いつまでも恨みを残したり、場合によっては相手の人格否定につながったりする。

 

リング外の乱闘に期待をかけている人たちですね。   

 

>要するに建設的な議論ができないのである。>従って進歩することがない。>これは日本人の大きな欠点ではないだろうか。

 

そうですね。進歩の好きな日本人にとって残念な習性ですね。   

 

> これは何も記録管理やアーカイブズの関連学協会に限った話ではない。>最近の国会を見ればよく分かることだが、与野党とも相手を誹謗中傷するだけでまともな議論が全くできていない。 

 

与党も野党も無哲学・能天気の表われですね。来るべき世界の内容を持たないから国会に建設的な内容を提案できないのですね。       

 

>特に政権与党の、人の意見を聞かず、論点をそらし、真面目に議論をしようとしない態度は民主主義を否定するものと言われても仕方がない。 

 

そうですね。政権与党は衆愚政治の指導者になっていますね。  

 

>従ってこれは正しく日本人共通の問題なのである。

 

そうですね。日本語を国語として話す人々の弱点ですね。      

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>アーカイブ研究所所長 小谷允志  >記録管理学会前会長、ARMA(国際記録者管理協会)東京支部顧問、日本アーカイブズ学会会員、日本経営協会参与、ISO/TC46/SC11(記録管理・アーカイブズ部門)国内委員。  >著書に『今、なぜ記録管理なのか=記録管理のパラダイムシフト』(日外アソシエーツ)など。

 

 

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小谷允志氏 2/3  

2021-05-09 14:21:23 | 文化

 

>筆者 [小谷允志氏] は永年、なぜ日本では記録管理やアーカイブズが根付かないのかという問題を考えてきた。

 

日本人は無哲学・能天気ですからね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy. そうでなければ公文書に価値はないでしょう。   

 

>特に最近、日本の記録管理やアーカイブズの関連学協会の活動状況を見て少なからず感ずるところがあったのである。 >それは財務省の決裁文書改ざんにつながった森友問題、怪文書騒動を引き起した加計問題などなど、これほど記録管理に関する問題・課題が噴出したことはこれまでなかったにもかかわらず、これにつき専門の学協会が何ら議論をしようとしなかった点に対してである。 >「桜を見る会」については文書管理に関する様々な問題が含まれているが、何か議論をするのだろうか。

 

日本人の発言は歌詠みのようなもので責任は感じられませんね。  

 

> そこで最近、つくづく日本人というのは議論が下手な国民だなと、思っていたからである。

 

そうですね。日本人というのは議論の下手な国民ですね。   

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)   

 

>だから丸山発言を読んでストンと腑に落ちたのだ。>丸山発言は正に「日本人の議論下手」に通ずる話なのである。>つまり議論下手であるが故に物事の本質に迫れないのである。  

 

そうですね。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。

 

>とことん議論して物事の本質や核心に触れようとすると、お互いに角が立つ。  

 

議論をすれば喧嘩になりますね。 喧嘩をするためには議論が必要になるのか、それとも喧嘩は議論の結果であるのか。君子危うきに近寄らずですね。   

 

 

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小谷允志氏 1/3  

2021-05-09 14:02:08 | 文化

 

>日本人の議論下手という特性について

> 少し前のことになるが、作家の丸山健二さん(最年少芥川賞受賞者)が日本人の特性を見事に表現しているのを読んだ(注)。>「物事の本質に迫るのが最も苦手なのが日本人だ」と言うのである。

 

それは日本人が現実直視を避けているからでしょうね。   

 見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。思慮ある人は ’純粋によく観察する’が、凡人は ‘期待したもの’ しか見ようとしない。      

 

>なぜかというと「島国に大勢いるからです。 >本質とか核心に触れると、お互いに角が立つ。 >それを最も嫌う国民だからです」というわけだ。 

 

無哲学・能天気な日本人には、それ以上に求めるものが何もないからでしょうね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

 

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小沢一郎氏  

2021-05-09 02:42:52 | 文化

>小沢一郎氏が菅首相にダメ出し「世界でも底辺レベルの記者会見」 東スポWeb 2021/05/08 11:45

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>立憲民主党の小沢一郎衆院議員(78)が8日、事務所公式ツイッターを更新。>菅義偉首相が7日に行った会見を酷評した。

 

国難の折に酷評だけでは建設的な態度になりませんね。他人事に聞こえます。わが国の伝統である歌詠みのようなもので責任がない。  

 

>菅首相の会見内容を伝えるニュースを引用した小沢氏は「世界でも底辺レベルの記者会見」と厳しくダメ出し。  

 

そうですね。本当に世界でも頂上レベルの記者会見をしていただきたいものですね。政治家の本文ですね。ベテランのせいじかである小沢氏なら可能ですかね。      

 

>「『結果は出せてる、でも延長はする、引き続きしっかりやりたい』だけ。 

 

政治家の発言には時代の先取りが必要ですね。ナウな感じのする発言だけであると国民は夢と希望がもてないです。  

 

>具体策が示されず、意気込みだけが一方的に語られ、質問と回答はかみ合わない」と論評した。

 

菅首相は精神主義の人ですかね。

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)

 

>続けて、「だが、再質問は禁止され、記者達は抗議すらしない。

 

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)   

百花繚乱と行きたいものですね。  

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>何でこんな国になったのか、国民一人ひとりが考えないといけない」と訴えた。

 

菅義偉さんでなくて小沢一郎さんが首相であれば、どのような国になったのでしょうかね。  

各政治家の政策が国民の前に提示されジャーナリストによる丁寧な解説がなされると便利ですね。 

国民の前にあらゆる政策の選択肢を並べて見せてくださるマスコミのサービスがわが国には必要ですね。  

 

このツイートには「早く政権交代を実現しないと」「曖昧な説明で本当に対策ができるのか」など意見が寄せられていた。

 

我が国民の意識改革がなされていないと、政権を交代しても歴史の繰り返しになりますね。

曖昧な説明はわが国の伝統のようなものですね。   

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

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