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本を読むと  

2021-08-08 15:28:26 | 文化

 

>369328          本を読むとバカになる  >孫悟空 ( 不生 不猟 )     21/08/08 AM02 【印刷用へ】

>「勉強するほどバカになる」と同様の意味で、「本を読むとバカになる」という言葉があります。  

 

利口になるつもりがバカになるのでは無念ですね。本を読むか、本に読まれるかの違いですね。      

 

>しかもこんな指摘をしている人が、16世紀のヨーロッパにいたのです。>ルネサンス期に「知は力なり」の言葉でも知られるイギリスの哲学者フランシス・ベーコンです。     

 

それは驚きですね。    

 

>彼はその著書『随想集』の中で次のように指摘しています。 >「信じて丸呑みするためにも読むな。 

 

丸暗記は役に立たないこともありますね。   

 

>話題や論題を見つけるためにも読むな。  

 

視点・論点の付け焼刃も良くないですね。   

 

>しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。」 >批判的スタンスのない丸のみの読書の危険性を指摘しています。

 

そうですね。日本人には批判精神がない。だから日本人が読書をするのは危険ですね。   

 

>同様のことを19世紀に活躍したドイツの哲学者、アルトゥル・ショーペンハウエルも指摘しています。 >ショーペンハウエルは、その名も著書『読書について』において、徹頭徹尾、読書の功罪における「罪」について書かれた本です。 >たとえば、次のような指摘があります。 >「読書は、他人にモノを考えてもらうことである。 >本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。」

 

そうですね。それは暗記物の勉強ですね。   

 

>こんな昔から、知識編重の問題を指摘されながら、変わらなかったのは、未だ情報(≒知識)格差があり、知識だけの人も何とか生きる場所を確保できたから。   

 

そうですね。他人の受け売りばかりを専門にする人でもそれ相当の生活ができるからですね。   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

 

>ネットの普及で情報格差は解消されてきている。>問題はそこから必要な情報を抽出する思考力。

 

そうですね。自分で考える力は大切ですね。   

 

>読書ですら、その思考力を失うのだから、「学校の勉強」のように用意された正解に思考を嵌め込まれてしまえば、思考そのものを破壊するような行為と言えます。 >今こそ本当の思考力を鍛えていくことが必要な時代なのです。    

 

そうですね。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

(略)

 

 

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