>2021年08月08日 >人々の一体化を阻害し分断する観念群が、日本人の活力衰弱を加速させている
>現在日本人の活力はどん底状態にある。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
>その象徴が自殺者数の多さで 中でも中高生等10代の自殺が目立つ(死因のトップが自殺という国は他にはない)。>実感としても中高生の中で「生きる意味が見いだせない」という声が増加しているのを感じる。
日本人には世界観がない。来るべき世界に関する個人的な構想に欠けている。だから、夢と希望が持てない。
>その背景には私権圧力が衰弱し、目標喪失状態に陥ったことが遠因としてある。
そうですね。’衣食足りて礼節を知る’ ですね。日本人の出世欲が衰えたのでしょうね。
>しかし私権に代わる共認収束の潮流も同時に進行しているはずで、それだけでは自殺の多さに象徴される、生きる目標の喪失や活力衰弱の急速な進行を説明できないと思われる。>では原因は何なのか? >この20年間で急速に進行したのが観念支配である。 >その観念の中身は、個人主義→「個性第一」、あるいは「プライバシー」をはじめとする、人々を分断し、一体化を阻害する観念群である。
考えの中身は人により様々である。だから人は個性的な存在になっている。一方、思考停止している人には個性がない。そのような人の集まりは没個性的で一体化している。
>権利主張を是とする男女同権をはじめとする権利観念も同様で、権利主張に立脚すれば一体化は破壊される。>権利観念から派生した、パワハラ、セクハラ観念も結果的に、相互の警戒心→他人との距離を増大させた。
馴れ合いは他人との距離を縮めていますね。
>それらの観念群に加えて学校現場でも個人に意識を収束させる成績第一(定期テスト重視)や、他学年の教室に入ってはいけない、他のクラスにいてはいけないなど、他集団とのつながりを断とうとする理不尽とも思えるルールが横行している
我が国には作法があって教えがない。だから作法がより厳しくなっている。
>共認充足を得ることは、私権終焉後の人類の新たな生きる意味であり、一体充足は最大の活力源である。
ご唱和の世界ですね。没個性の社会では困りますね。我々はぜひ自己実現を果たすべきですね。
>それを否定する支配観念はその新しい活力の息吹を封じ込めるものである。
恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は ‘自由のはき違え’ になります。序列による協力は時代遅れですね。第一に義理 (序列関係から生じる義務) による協力では外国人とは繋がることができない。我々が今日の国際社会を生き抜くのには支障がでる。
>支配階級は私権終焉以降、人々の共認収束(古い言葉で言えば「連帯」)を恐れ、意識してこの分断観念を流布させてきた疑いがある。
個人主義は大切ですね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 個人は哲学で繋がる必要がありますね。
>昨今急速に高まっている一体化欠乏の顕在化は、そのような分断観念の横行に対する、必然的な抵抗の表れなのかもしれない。
我々日本人には世界観が必要ですね。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>List 投稿者 nihon | 2021-08-08 | Posted in 01.どうする?マスコミ支配 | No Comments »
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