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教育の在り方  

2021-08-12 13:46:01 | 文化

>369445        現代の教育問題とは?日本の教育の在り方について  >柿添孝太 ( 23 会社員 )     21/08/11 PM10 【印刷用へ】 >以下、引用・中略 >リンク

>現代の教育問題①「偏差値重視の教育」   >日本には「受験戦争」という言葉がありますよね? >日本の教育は「受験して偏差値の高い学校に入ること」が目的と考えられています。 >多くの教師や保護者、そして子供までもが同じことを考えています。

 

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

>学歴を重視して偏差値の高い学校に入れば、一流の会社に就職できるし、それはイコール将来の生活が豊かになるという考えが元となっているからです。  

 

そうですね。序列社会においては下の者ほど割が悪いが半ば常識となっていますね。    

 

>ですが、入試勉強をものすごく頑張って、偏差値の高い学校に入れたとしても社会人になってから世間や社会に通用する大人になっているかどうかは別問題です。  

 

そうですね。我が国においては、モノの上下ばかりが強調されていて、責任問題などは等閑視されていますね。    

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

 

>ましてや一流の企業に入ったからといって、そこで活躍できるかどうかは学歴や偏差値とは一切関係ありません。 >このような偏差値重視や学歴重視の考え方が古くから根付いている日本の教育ですが、これを変えるためには大人や教育現場の教師などが考えを変える必要があります。

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。     

 

>現代の教育問題②「全員に一貫して同じ教育」  >日本の学校では全員の生徒に同じ内容の授業を同じ先生が同じように教え、生徒全員が同じように理解することを求めています。  

 

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。’  (アルトゥル・ショーペンハウエル)      

 

>全ての生徒を平等に扱い、個性には注目せず、全員同じ画一的な教育のシステムが主流です。   

 

そうですね。異口同音の民を育成することが目的ですね。   

 

>現代では時代も変化し、将来の働き方や考え方、価値観などが多様化している世の中です。  

 

そうですね。考えの内容は人それぞれですからね。   

 

>全員同じではなく、それぞれの子供の個性を伸ばしてやることが大切なのです。  

 

そうですね。教育には個人主義が必要ですね。    

 

>それにもかかわらず、全員が同じ一貫した教育を受けていることは時代遅れのような気もします。

 

そうですね。金太郎飴のような顔をした人間ばかりが育成されるのは異様ですね。    

 

>現代の教育問題③「受け身・暗記型の教育」  >日本の多くの学校では教室の前面に黒板が設置してあり、黒板の前に先生がいて、生徒はその黒板の方を全員が同じように向き、先生の話をジッと聞いています。 >授業のスタイルとしては先生の講義をジッと聞いてそれをノートに書いたりする方法で、時々生徒を指名して答えを求めたりはしますが、生徒同士で意見交換したりコミュニケーションをとって相談したり、ということはほとんどありません。 >そして勉強は暗記中心です。   

 

信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。’   (フランシス・ベーコン)    

 

>教科書に沿って予め答えが用意されてそれに基づいて教師が教えています。 >それを丸暗記してテストに備えるのです。 >問題に対して答えのみを丸暗記する教育を受けているので、その過程を考えたり、何でその答えになるのか疑問を抱いたりということがありません。 >受験対策という意味では丸暗記で済むかもしれませんが、将来社会に出てその場の状況に応じて判断、決断することが必要となってくる時には想像力・思考力を必要とします。 >考える力が必要なのです。  

 

そうですね。思考停止では困りますね。     

 

>暗記して答えを求めるだけでは記憶力は伸びるかもしれませんが、自分の頭で考える想像力・思考力は伸びません。 

 

そうですね。思考を停止していて記憶力ばかりがある人は、他人の受け売りを専門にする人になりますね。   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

>想像力や思考力がないまま学習を続けていると、学習に対して楽しさや興味を持つことができなくなります。>元々、子供は好奇心旺盛なので学び、理解して新しい発見があることを楽しいと感じます。  

 

そうですね。子供には生まれて初めての新発見が多いですね。    

 

>暗記型や受け身スタイルの授業を行うことで、思考停止となり、勉強=(イコール)たくさん覚えないといけないしんどいもの、という意識になってしまうのです。   

 

そうですね。    

 

>では、海外はどうなのでしょうか? >海外での教育①「想像力・思考力を養うことを重視」  >先程も書きましたが、日本では暗記型・受け身スタイルの教育が中心です。 >それとは反対に海外では想像する、考える力を付けさせるスタイルの教育方法が一般的です。 >何よりも生徒の発想や考え方を尊重し、型にはめるような教育をしません。  

 

子供を型にはめると金太郎飴のような子供になりますね。    

 

>海外での教育②「個性や自主性が尊重されている」   >日本ではクラス全員がほぼ同じように授業を受け、協調性があり、集団生活に馴染んでいることが好まれ、それが普通とされています。  

 

日本人には意思がない。能動がなくて受動がある。指示待ち児童が多くなる。      

 

>逆に言えば、日本の教育では「みんな同じ、個性が無い、自分の意見がない」という見方もされます。>それが海外では正反対で自主性が重んじられるので、みんなそれぞれ個性が際立つのが普通です。  

 

そうですね。考えの内容は人それぞれですから考えのある人たちは個性的になります。思考停止をしている人たちは没個性的です。   

 

>逆に言えば協調性が無い、自己主張が強いという面もあります。 

 

個人尊重の社会においては自己主張があれば自己実現も可能になります。   

 

>それぞれ、良いところ悪いところありますが、日本の教育を受動的に受けていると協調性はあるけれど自分の意見を持たないという大人になってしまうのはたしかです。

 

そうですね。日本人には意思がない。だから日本人には受動があって能動がない。そして指示待ち人間が多く見られます。家畜・社畜の類です。      

 

>日本人はほとんどの人が周りの人の意見を聞いたり見てから自分の意見を決める傾向がありますよね?  

 

既成事実の追認と他人・他国の後追いばかりを事とする人たちは時代遅れになりますね。     

 

>自分の考えや意見を持ち、問題を解決出来る力が足りないと自立を妨げることに繋がるようにも思います。   

 

そうですね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)      

 

>海外での教育③「褒めて得意な事を伸ばす」   >日本では、○○が出来ない・○○が苦手だと指摘する教育ですよね。  

 

日本の教育は叱る教育ですね。   

 

>それに対して海外では苦手や出来ない事に注視するのではなく、得意な事を褒めて伸ばします。   

 

自分の得意に事は上達が早いですね。好きなことをやる時には疲れを知りません。       

 

>一度でも失敗経験をしてしまうと日本ではダメと考えられていますが、海外では失敗したことに重きを置かず失敗していない部分を認めて褒めるという教育方法です。  

 

失敗は成功の母ですね。Failure teaches success.  失敗は本人にとってショックですから、記憶が確かになります。             

 

>そうすることで子供が「次も頑張ろう」と思い、さらにヤル気に繋がります。   

 

そうですね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)    

 

>そして次に出来た時には自分に自信がつきます。>また、失敗しても大丈夫と考えるのでチャレンジ精神もつくのです。

 

そうですね。    

 

 

 

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企業の少子高齢化  

2021-08-12 04:20:44 | 文化

>369444        日本を滅ぼす「企業の少子高齢化」という大問題  >大川剛史 ( 35 会社員 ) 21/08/11 PM09

>リンク

>日本を襲う「もう1つの少子高齢化」とは   

>――リクルート創業者、江副浩正の軌跡を描いた『起業の天才!』が大ヒットしています。>しかし江副浩正氏は、三十数年前に起こった戦後最大の疑獄事件、リクルート事件の首謀者として逮捕されて以来、表舞台に出ることはなく、世の中ではほとんど忘れ去られた存在となっていました。>なぜ今このタイミングで、江副氏にフォーカスした本を書こうと思われたのでしょうか?

>大西 [康之]:現在の日本では、東芝をはじめ、いま50代の私たちが学生のころ憧れていた企業が軒並み息切れしている状態です。>一方アメリカを見ると、GAFAと呼ばれる20年前には存在もしていなかった会社が出てきて、ガンガン経済を引っ張っています。

 

日本の企業は軒並み時代遅れですね。    

 

>日本を見ると、トップ企業と言われる会社は、私たちが就活をしたころとほとんど変わっていません。>なぜなら、失われた30年だった平成の時代、日本ではめぼしい新しい企業が生まれることもなく、経済もまったく成長しなかったからです。

 

何事もお変わりのないことは良いことですからね。    

 

>なぜ、そうなってしまったのか。 >それを考えると、企業の代謝が極端に少ないという現実に思い当たりました。 >つまり年寄りの会社ばかりになってしまっているのです。

 

そうですね。いわゆる老舗ですね。わが国は老舗を尊ぶ国柄ですね。       

 

>恐ろしいことに、日本ではいまだにソニーやホンダが「若い会社」と扱われることがあります。>そして、ソニーなどにGAFAと対抗することが期待されていたりもします。    

 

序列社会における老舗信仰の影響ですね。     

 

>これって、往年の演歌歌手にミニスカートをはいてAKB48を踊れというのと同じで、無理なんです。 >企業にも年齢はありますから。   

 

そうですね。時代錯誤ですね。      

 

大西:日本で起きていることは、企業の少子・高齢化です。 >企業の出生率が極端に落ちていて、平均年齢がどんどんどんどん上がっている。 >一方で時代はどんどん変わっていくから、いまだに「トヨタ頑張れ」とか期待することになってしまっているのが現状です。>しかしトヨタだって、人間にしたら随分なおじいちゃんなわけですよ。

 

何事もお変わりのないことは良いことですからね。   

 

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>新しい会社が出てくる土壌に欠けているので、日本経済は代謝しない、よって成長もしない。 >このままだと、ずーっと尻すぼみになってしまうのは明らかです。 

 

残念なことですね。   

 

>一方で、中国やインドからは新しい企業がバンバン出てくる。 >こういう国と日本はどうやって伍していくのかというのが、私の1つ目の問題意識でした。 >ではなぜ、日本では起業が少ないのか。 >理由は明白で、起業とかアントレプレナーは、日本ではイメージが悪いのです。 >今までにないビジネスを興したり、若者がビジネスを始めると、「いかがわしい」と言われてしまうのです。 

 

考え (非現実) の内容は、物体 (現実) ではありませんからね。見ることができない。だからいかがわしい。  

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。アニマルでもわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて単語の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。その対極は ‘なれ合い’ とか‘なあなあ主義’ である。これらは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることである。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。 

 

>なぜこんな風潮ができ上がってしまったのかをたどっていったら、三十数年前のリクルート事件に行き当たります。>それが、リクルートについて書いてみたいと思ったきっかけです。 

 

そういう事ですね。   

 

>加藤 [晴之]:ソフトバンクや楽天など、日本のIT業界をリードする会社にはリクルート出身者がいっぱいいて、みんな元気です。 >リクルートという会社に何か秘密があるんじゃないかと思って、取材を始めてみたのですが、まぁ江副浩正って人は驚くほど評判が悪い。 >リクルート事件の首謀者として極悪人のレッテルが貼られてしまったことで、起業家として何をやったかはまったく語られてこなかったのですが、実は起業家としては天才だったのです。

 

それは新発見ですね。   

 

>「世界最先端の情報産業」を興した江副浩正      

>大西:本を書こうと思ったのには、もう1つ理由がありました。>失われた30年の間に、アメリカではGAFAができて時価総額200兆円とか、すごいことになっている。 >一方、日本からは世界的なネット企業は1社も生まれていません。

>そうこうするうちに、「日本にはネットは無理」といった諦めの風潮が根づいてしまいました。  

 

そうですね。ネットは物ではありませんからね。    

 

>一方で財界の長老たちは、日本ではそういう怪しげなビジネスではなく、汗水たらして「モノづくりで勝負する」みたいなことを言っているのですが、この風潮も変えたいと思っていました。   

 

我が国には人手不足は存在しても、頭脳不足の話しはありませんね。頭脳労働では汗水たらすことはできないからでしょうね。      

 

>江副氏は「売りたい人」と「買いたい人」を出合わせる情報誌を作りました。 >それ以前はマス広告しか車の情報を届ける方法がなかったけれど、マスだと不特定多数にばらまくことになる。 >これでは「車を欲しがっている人に車の広告を届ける」のは、天文学的に低い確率になってしまいます。>一方で、『カーセンサー』を手に取る人は車を探している人なので、コンビニの棚から手に取った段階で出会いが生まれます。   

 

そうですね。能率の良い宣伝方法ですね。      

 

>大西:これをネットでやったのがGoogleです。 >車関連のワードで検索した人のページに車の広告を出すので、非常に効率がいい。 >それゆえ、ネット広告はネットビジネスの収益の柱になっています。

 

そうですね。高能率は金を生みますね。    

 

>このビジネスのモデルを30年以上も前に、紙媒体でやっていたのが江副氏なのです。>つまり、日本人が情報産業を不得意としているわけではないのです。  

 

日本人にも情報は大切ですね。    

 

>江副氏はGoogleのラリー・ペイジやセルゲイ・ブリンが登場するはるか前に彼らと同じことを考えて、当時はまだインターネットはないから、紙媒体でやっていたのです。

 

二宮忠八の烏型飛行器の発明のようなものですね。   

 

>しかも、その紙の情報もオンラインに移そうとしていました。 >残念ながら実現する前に逮捕されてしまったので、頓挫してしまいましたが、もし、あの時実現していたら、平成という時代はまったく違う30年になったのではないかと考えます。 >非常に惜しいことだったとつくづく思います。

 

そうですね。タラレバの話は尽きることがありませんね。   

 

>しかし、現実はそれどころか、リクルート事件で世間がドン引きするような叩かれ方をされてしまったので、情報産業自体がいかがわしい仕事だと思われるようになってしまいました。   

 

気分・雰囲気の問題でしょうかね。物に拘る日本人の習慣ですかね。