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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

分かったつもり 2/2  

2021-08-09 20:02:19 | 文化

 

>どれくらいのレベルで言っている言葉なのかきちんと共有することで、コミュニケーションのズレを減らし、社内の意思決定スピードを上げたということなのです。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人には被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は贖罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。だから嫌いです。それは陰気のもとになる。 

罪の意識のない人には、魂の救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) も見事に失敗しました。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。それは ’自由のはき違え’ となる。だから、日本人は、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。 

 

>辞書のように「単語=イメージ」の内容は人によって違います。 >しかし、それを理解した上で、相手がその言葉をどのようなイメージで話しているのか理解できれば、相互理解を深められるのです。 

 

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には to be に当る適当な動詞がない。”being とか reality のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。 (引用終り) 

 

>脳は、相手にレッテルを貼るのも得意です。>ちょっとした言葉のやり取りや行動から、いろいろなレッテルを勝手に貼ってしまうことは誰でもあると思います。 

 

そうですね。特に日本人は歌詠みのようなものですね。   

 

>出会ったばかりの頃に一度相手にレッテルを貼ってしまうと、相手の本来の姿をそのまま100%で見れなくなります。 >つまり、相手の表面に現れている1%の部分だけを見てコミュニケーションをしてしまうので、99%の潜在意識を深く理解することから遠ざかってしまうのです。

 

それは早合点ですね。   

 

>あなたは、相手の表面1%のみをみてコミュニケーションを行っていきますか? >それとも、相手も自分自身も隠れている99%の潜在意識にアプローチして、深い関係性を築いていけることを選択しますか?     

 

私は深い理解を望みますね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

 

 

 

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分かったつもり 1/2  

2021-08-09 18:07:52 | 文化

>369341        人はわかったつもりになる  >匿名希望       21/08/08 PM07

>私達の周りには普段からたくさんの情報が広がっている。 >それは人との関係や物など様々。>それらを分かったつもりになっていないか?

 

そうですね。我々は分かったつもりになっている。もっと謙虚な態度が必要ですね。   

 '私は、私が何も知らないということを知っている'。 (ソクラテス)     [無知の知] 'I know that I know nothing'.  

 

>以下リンク(リンク)

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>「相手の1%」を見て、人はわかったつもりになる >「レッテルを貼る」と本来の姿は見えにくくなる > 脳は、相手にレッテルを貼るのも大の得意です。

 

そうですね。馴れ合いとか なあなあ主義 とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることですね。  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実と非現実 (考え) は区別して語らなければならない。そうでなければ、現実の内容は白昼夢と区別できない。これはキチガイ沙汰に違いない。だから、日本人は自分の持つ非現実 (考え) を語らない。これは子供と同じ状態である。日本人の考えの内容は筋の通った哲学にはならずして、支離滅裂の空想・妄想の類になる。だからわが国では英米式の高等教育が成り立たない。お陰様で、わが国は '漫画・アニメ' の大国になっている。  

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。アニマルでもわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて単語の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。その対極は ‘なれ合い’ とか‘なあなあ主義’ である。これらは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることである。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。

 

>この人はこんなタイプのひとだというレッテルを貼ることで、その相手とどんな風に自分が付き合うかをサッと判断してしまいます。 >「血液型がB型だからマイペースなんだろう」 >「すごく強面でケンカも強そうだなあ」 >ちょっとした言葉のやり取りや行動などから、色々なレッテルを勝手に貼ってしまうことは誰でもあると思います。  

 

それは第一印象ですね。   

 

>しかし、長い付き合いの中で相手を深く知るようになると、意外にそのレッテルが間違っていることに段々気づきます。  

 

人は見目よりただ心。   

 

>「マイペースのように見えてたけど、意外と協調性もあるんだ」「強面だけど、じつは優しい部分もあるよね」など、何気ない言動から相手に対するイメージが変わる瞬間があるのではないでしょうか。>ただし、出会ったばかりの頃に一度相手にレッテルを貼ってしまうと、相手の本来の姿をそのまま100%で見れなくなってしまいます。>つまり、相手の表面・表層に現れている1%の部分だけを見てコミュニケーションをしてしまうので、99%の潜在意識を深く理解することからは遠ざかってしまうのです。  

 

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。  

 

>たとえば、「うつ」というレッテル。 >ある女性は、ちょっと元気がないときに仲のいい同僚にランチの席で「わたし、うつかも~」と冗談半分に話したセリフを、たまたま近くの席で耳にした同じ部署の男性社員が本気にしてしまい、「部長、Aさんうつらしいですよ」と報告されてしまったことがありました。 >その部長は、丁度父親がうつ病で入院していたので「そうか、うつか…」と深刻に受け止め、その女性の上司を呼び出して「Aさんに厳しく指導していないか?」とかなり厳しい口調で叱責をしたそうです。  

 

早合点は怪我のもとですね。    

 

>コミュニケーションでは主に「言葉」を使いますが、同じ言語を使う人間同士でも、同じ単語から必ず同じイメージが浮かび、同じようなものの見方をするとは限りません。 >単語から連想するイメージは、人それぞれバラバラなのです。>一般的な定義がある程度固まっている単語ならともかく、定義があいまいの言葉なら、なおさらイメージはバラバラになってしまいます。  

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」      

 

>ビジネスの世界でよく見聞する「パワハラ」という言葉に関しても、その一つです。

>上司に精神的に苛められ、人格まで否定されるイメージをする人もいれば、やりたくない仕事を頼まれただけでパワハラだと受け取る人もいるなど、レッテルや名前に対する認識は様々だと思います。 

 

そうですね。個人のリーズン (理性・理由・適当) が問題になりますね。    

 

>有名な話ですが、自動車メーカーの日産をV字回復させたカルロス・ゴーンは日産の立て直しの際に、まず社内で使われている言葉の「辞書」をつくったと言います。 >たとえば、「期末までに利益をこれだけ出すことに対してコミットメントする」という話をしたときに、日本人は「できるだけ努力する」というイメージでコミットメントという言葉を使っていました。 >しかし、ゴーン氏はそれではダメだと強く言ったのです。 >「我々がコミットメントと使うときは、それが達成できなければクビが約束される。 >それぐらいの覚悟でやることを指すのだ」、と。>日本人はコミットメントと口で言いながら、達成できなくても何も変わらずそこにいる。>それはおかしいのではないか。 

 

そうですね。敗戦の日本に敗戦の責任者が出ないようなものですね。日本人には自他共に責任感というものがない。     

 

 

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