>369000 他人からの評価が気になるのは、自分のことしか考えていない証拠である >匿名希望 21/07/27 PM03
>自分の評価にとらわれ開きだせない事はとても苦しい。>周りの為にも自分の為にも評価を捨てること。
自分に対する他人の上下評価を自分自身が捨てることは日本人にとって難しいことですね。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら ‘序列なきところに礼儀なし’ になる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまで共通している。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、無哲学・能天気でありながら存在価値があると信じている。自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。
>そうする事で相手に貢献でき、大きな充足を味わうことができる。
そうですね。序列人間が序列を離れて大きな充足感を味わうことができると良いですね。’義理が廃ればこの世は闇だ’ と考えることをやめましょう。
>以下リンク
>勇気とは、困難な場面でも「相手を思い」「相手を優先する」ことを放棄せずに問題を解決していく活力のことです。>一方で勇気のない人は、困難に出合うと「相手よりも自分のことばかりを優先」します。
そうですね。誰にとっても自分だけはこの世で二人とない特別な人間ですからね。自分の事は他人事とは考えられません。’義を見てせざるは勇無きなり’ ですね。
>共同体感覚を放り投げてしまうのです。> 自分のことばかりを考えている人、すなわち勇気を持てない人は、他人の評価を気にします。
他人の評価とは日本人の ’上と見るか、下と見るか’ の世俗的な評価のことですね。
>相手への貢献よりも、自分がどのように見られるかを気にするからです。
そうですね。日本人の世の中は ‘見栄と外聞’ の世の中ですからね。
≳勇気がある人は他人の評価を気にしません。
それでは礼儀正しい日本人にはなれませんでしょうね。日本人の礼儀はあくまで世俗的なものですからね。
>誰からもほめられず認められなくても、自分が相手に貢献できていることそのものに満足を感じるからです。
日本人は自己が確立していませんからね。自己判断は難しいでしょうね。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身の考えで埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。時代を先取りする感覚が政治には必要である。これにより人々は来るべき世界に希望を託すことができる。建設的な前向きの姿勢である。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになる。人々は無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べになって個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
> 勇気づける、ということは、相手が他人の評価を気にせずに、自分を実際よりも良く見せかけようとしないようにすることです。
それは見栄と外聞にとらわれないことですね。自己の確立が必要ですね。
>「人からどう思われるかなんて関係ない」「ありのままのあなたでいいのだよ」と気づかせることが勇気づけなのです。>それは、不完全な自分を認める勇気を持たせることにも通じます。
そうですね。完全な人間など現実の世界には存在しませんからね。
> そのためには、「あれができればあなたを認める」「これができなければあなたを認めない」のように、相手がすることに条件をつけないことです。>ありのままの相手をそのまま受け容れ認めるのです。
そうですね。現実直視が大切ですね。
> それが勇気づけになるのです。
気楽に生活したいものですね。堅ぐるしい生活は敬遠ですね。
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