>369826 日本ではなぜ「学者犬」教育が続けられるのか >匿名希望 21/08/21 PM09 【印刷用へ】
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>□明治の教育方法が続けられる日本
>明治以後に始まった日本の教育は、欧米に追いつけというキャッチアップ教育であった。>欧米という主人のやることを常にまねること、これが学ぶということの真相であった。
日本語の ‘学ぶ’ とは、’真似てする’ ことですね。
>西欧に追いつくには、何も考えないでひたすら物まねをすることが効果的である。
そうですね。自分で新しく考えだすよりも他人の真似をする方が簡便で進歩が早いですからね。
>とりあえず欧米の学問はすべて真実であると仮定し、それをかつての文部省が各学校に流布し、教師がそれを教え込むのである。>知識は一方的に教壇から伝えられ、生徒はそれに疑いをはさむことなく、反芻していく。
それはスプーン・フィード (spoon-feed) ですね。生徒に自主性を持たせずに押し込むように教えることですね。
>今でも全国で行われている教育方法は、たいがいこれである。>先生の知識は絶対的に正しく、それに疑義をはさむことは、師への冒涜であり、それを行うと厳しい評定、すなわち最低の成績がつく。
権威主義の世の中ですね。権威者の発言を ’ゆめゆめ疑うことなかれ、、、’ ですね。
>だから疑いをはさまずひたすら与えられた知識を覚え、先生の前で学者犬よろしく、先生の顔色をうかがいながら正解を選ぶのである。
顔色を窺うのは忖度 (推察) の表れですね。
理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。
>しかし、日本ではなぜ教育は受動的になっているのだろうか。
それは、日本人に意思がないからです。意思がなければ能動もない。だから、受動ばかりの生活になり、積極性が無く消極的である。それで日本人はおとなしい。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
>確かに儒教的教育による「読書百遍、自ずから見る」の教えからであるが、これは教育に限ったはなしではない。
そうですね。 ‘どんなに難解な書物でも、繰り返して読むうちに自然に意味が分かるようになる’ ということですね。それは書物によりけりでしょうね。
>□役に立つ教育の恐ろしさ >もちろんこうした権威的教師による、従属型の教育は日本にだけ存在していたわけではない。
そうですね。考えさせる教育は難しいですからね。
>19世紀においては、イギリスでも、生徒の質問など受け付けず、ただ機械的に知識を詰め込む授業が一般的であった。>工場で大量生産される商品のように、どの生徒も同じ規格で「金太郎あめ」のような人間として生産される。
工業による大量生産の始まった時代でしたね。
>イギリスの教育も、下層階級のものには単純な、役に立つ知識の暗記教育を義務付け、けっしてその内容について質問させないという教育を施していたのである。>マルクスは『資本論』第1巻の「分業とマニュファクチュア」の中で、アダム・ファーガソンの言葉を引用しているが、その言葉はこうだ。>「無知は迷信の母であるように産業の母である。>熟慮と想像力は誤謬をつくりだす」と。
正しい考え方がまだ普及していなかった時代ですね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。
>つまり、無知ほど産業発展に結びつくものはないと述べているのだ。 >労働者はつべこべ言わずに、ただ暗記すればいいということだ。
そうですね。アニマルの調教と同じですね。狩猟・牧畜の民族にとって調教は非常に重要な技術ですね。
>しかし、さすが21世紀には、こうした教育はまったく役に立たなくなっている。 >今必要なものは、知識ではなく、知識をどう使うかである。
ビッグ・データの時代になりましたね。個人主義の普及が創造力を育てる時代になりましたね。
>知識であればいつでも携帯電話のホームページなどを使って、ただちに調べることができる。
そうですね。記憶装置の大容量は人間の暗記力を上回りましたね。
>必要なのは、知識の意味であり、その知識は本当に使えるものなのかどうかという熟慮、本当に役に立つものはなにかという想像力のほうである。
それは創造力でしょうね。現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣をしたことになる。非現実の内容を現実の中で実現すれば、それは創造になる。特亜三国の民は、模倣が得意で創造が苦手である。だから、模倣の競争には参入者が多く、創造には少ない。模倣の競争は没個性の競争であり過酷なものになりがちである。アニマル風の競争である。個性を伸ばそう。創造力をつけよう。そして、ゆとりある人間らしい生活をしよう。
>熟慮とは知識の意味するところを知ることであり、その知識が生まれた背景を、根源までさかのぼって、しっかりと知ることである。
‘読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。’ アルトゥル・ショーペンハウエル
‘信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。’ フランシス・ベーコン
>そうなると教師はそれを説明しなければならないし、答えられなければ弟子と一緒に考え、場合によってはそんな知識など捨ててしまう勇気を持たざるをえない。
そうですね。思考停止と暗記だけの学生は、受け売り専門の人になるしかありませんね。
>□教師はむやみに教えようとするな >教師の役割は熟慮するよう仕向けることである。
優秀な人は「純粋によく観察する」が、凡人は「自分の期待したもの」しか見ようとしない。
よく観察するとは現実のただ一つの内容 (事実) と非現実の多数の内容 (考え) を勘案して判断することですね。’オオカミと七ひきの子ヤギたち’ の話では後者に熟慮が足りなかったのが禍のもとです。
>生徒は自分で考えるものなのだ。
そうですね。非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>次から次へと熟慮せず西洋の学問を追い求め、自らの哲学思想もなくことにあたり、受け売りの知識だけを肥大化させた小賢しい人々、こうした人々を養成することをいますぐやめ、自分で考える「活きた人民」をつくりあげろというのだ。
そうですね。思考を停止して暗記に励む学生は社会に出てから受け売り専門の人となる。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
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